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比左志の軌跡1〜父・五味比左志の出身地・岡谷と関わりのある合唱団〜序章(戦後の長野県内における合唱界) /(岡谷南高等学校音楽クラブ/岡谷工業高校・岡谷南高校の合同男声合唱団)



父・五味比左志の高校生時の活動や岡谷合唱団についてを記述するのがこのページの本分ではありますが、この岡谷にいた時代が原点となってその後の父・比左志のすべての活動に影響を与え、そして絡みあって、平成の時代まで連続しています。そのため、三部に分けました。
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軌跡〜父・五味比左志の出身地・岡谷と関わりのある合唱団
序章(戦後の長野県内における合唱界)
その1(岡谷南高等学校音楽クラブ/岡谷工業高校・岡谷南高校の合同男声合唱団)
その2(岡谷合唱団)
その3(混声合唱団「せせらぎ会」/やまびこ男声合唱団/ノッホ・アインマール男声合唱団)
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なお、引用や参考を多用しています。その主たるは、1982年に行われた長野県選抜合唱団による訪欧演奏旅行記念文集、岡谷合唱団二十年史、岡谷合唱団40周年記念誌、岡谷合唱団のHP、混声合唱団「せせらぎ会」のHP、岡谷南高校五十年史、岡谷合唱団演奏会パンフレット、その他です。引用を示唆していないセンテンス(節)には「■」を記しております。

■戦後の長野県内における合唱界
岡谷合唱団4代幹事長:komatsu氏
昭和二十年八月、第二次世界大戦は終わったが、その翌年二十一年にはすでに名古屋地区を中心に、今の中部日本合唱コンクールの前身である第一回東海合唱コンクールが開催された。そしてその二年後、昭和二十三年に第一回全日本合唱コンクールが神田の共立講堂で行われたのである。
長野県内はかなりおくれていたが、県内各地の高校がそれぞれの地区でかなり熱のこもった合唱活動を展開していた。・・・昭和二十年代から三十年代にかけては、高校の合唱活動が一般を凌駕していたといっても過言ではない。
昭和三十一年、国鉄長野工場男声合唱団が中部代表として全国大会に出場、職場の部で五位に入賞した。新聞の記事をみて実に驚いた。私には全日本合唱連盟なるものさえ知らない頃である。・・・
長野県に合唱連盟を作ろうじゃないか。・・・機運は高まり昭和三十四年に待望の全県組織が誕生した。
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岡谷合唱団は第一回県合唱コンクールで一位となり、以来五十六年出場辞退をするまで二十二年間県代表として中部大会へ、また全国大会へは十一回出場上位入賞を果たしてきたが、この経験を反映させ、コンクール、合唱祭、合唱講習会など、ひたすら長野県の合唱レベルを高めるためにとりくんできた。
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■旧友の証言1
真から音楽を愛し、研究をして自分なりの音楽論を持ち 色々なものにチャレンジしてきました。

■旧友の証言2
父君は高校時代 熱心に男声合唱に明け暮れ よく諏訪湖のほとりで歌ったもんです。
楽譜も当時はガリ版を切り制作したのですが 彼が書いた楽譜も沢山あるはずです。きっとそれも大切に保管してある事でしょうね。
社会にでてから忙しい仕事の合間をぬって声楽、楽典、指揮法など勉強され、その熱心さには敬服するところです。
きっと彼はコーラスをエネルギーに色々な面で頑張れたのでしょう。

■旧友の証言3
出来れば音大を出て音楽家の道を歩みたかったのだと思いますが 当時はそんな環境ではなかったのも事実。(当時はみんながそうでした)

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渡辺功氏は岡谷南高等学校の元教員であり、在籍期間は昭和29年度から37年度までで、専任は物理であったが、数学・音楽も受け持っていた。

父・比左志は岡谷南高等学校第12回卒業生(昭和35(1960)年3月5日卒業)であり、渡辺功氏が指導する音楽クラブに所属していた。「比左志の軌跡4〜さつき合唱団」記載のyosizawa氏は同学年、「比左志の軌跡6〜ノッホ・アインマール男声合唱団」記載のakabane氏は二学年下、「比左志の軌跡5〜明治大学グリーン・ヒルズ・ヴォーカル・グループ/相模女子大学合唱部」記載のsawara氏は三学年下であり、音楽クラブの友であり先輩後輩の関係である。
sawara氏は、その後の岡谷合唱団の常任指揮者となる。

渡辺功氏
物心ついた頃から教会で賛美歌を歌い、小学生の頃はオルガンを弾く。音楽に親しみ、音楽一家といわれる恵まれた環境に育った。だが戦時色が濃くなり「音楽なんか男子のすることではない」という教育を受ける。旧制中学校時に友人と音楽クラブを創立する。東京教育大学理学部在学中に斎藤秀雄氏が指揮していた合唱団で歌い、指揮法を師事受ける。1945年より合唱指揮を始める。
元長野県合唱連盟理事長。元日本合唱指揮者協会会員。

岡谷南高等学校音楽クラブや岡工・岡南合同男声合唱団は、同時期に渡辺功氏とつながりのある岡谷合唱団や職場合唱団や社会人合唱団との交流のみならず、この地に合宿にやって来る中央大学や他の大学のサークルとも交流を深めてレベルアップを図り、昭和33(1958)年の県の学生コンクールに初出場で初優勝をし、東日本大会でも三位入賞を果たした。その後も二年連続で県代表を勝ち取った。諏訪地方の各小中学校や女子高の文化祭に招待されて演奏もした。赴任先の高校での活動だけでなく、数々の職場・社会人合唱団の指揮指導を行うなかで、岡谷合唱団の快挙もあった。産業人音楽コンテスト全国大会の審査員も勤めた。
このような、地方にある六万人都市(当時)である岡谷での音楽文化の基礎を築いた一人であることから、全日本合唱連盟より功労者として表彰された。

渡辺賢二氏
渡辺功氏の四歳上の実兄で、岡谷工業高等学校の元教員である。専任教科は数学だが、積極的に始めた仕事は合唱であり、昭和21年にはすでに男声合唱団の活動は活発であった。その後に岡谷東高校音楽クラブと合同の混声合唱も行っていた。功氏同様に赴任校のみならず、職場や社会人の合唱団、合宿にやって来る中央大学を指導した。また、全日本合唱コンクール全国大会では一般より選出された審査員も務めた。岡谷合唱団では功氏が指揮者で、賢二氏は伴奏者でありながら代役指揮者でもあった。

兄・渡辺賢二氏の岡谷工業高等学校での在籍は昭和22(1947)年から36年度(1961)まで。
弟・渡辺功氏の岡谷南高等学校での在籍は昭和29(1954)年から37年度(1962)まで。その後、伊那弥生ヶ丘高校・諏訪二葉高校・諏訪清陵高校・岡谷東高校と歴任する。

岡谷工業高等学校と岡谷南高等学校は、諏訪二葉高校の文化祭に別々に招待され、そのときに控え室で一緒に歌ったことをきっかけにし、近接した高校同士で指導者が兄弟であることから、岡工・岡南で合同練習を行い合唱コンクール県大会に出場することになった。
渡辺功氏の岡工・岡南の合同男声合唱団での指導は昭和33(1953)年から37(1962)年まで。
渡辺功氏の岡工・岡南のOB男声合唱団での指導は昭和38(1963)年の単年のみ。

渡辺功氏の岡谷合唱団での指導は昭和30(1955)年から56(1981)年まで。
三協精機合唱団の発足は昭和37(1962)年、渡辺功氏の三協精機合唱団での指導は昭和37(1962)年から。
渡辺功氏の長野県合唱連盟理事長就任は昭和44(1969)年度から51(1976)年度まで。

■岡谷と渡辺兄弟
岡谷合唱団4代幹事長:komatsu氏
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渡辺賢二氏は、市内の会社の教育機関に、音楽教師として出かけるようになった。何ヶ所もかけ持ちなので、大変な仕事である。
昭和25年諏訪地区の高校による「諏訪学生音楽連盟」がスタートする。当時としてはかなりレベルの高い音楽会を行った。渡辺賢二氏の来岡(来岡谷)以来、周囲の小学校、中学校、とりわけ高校に対しては非常に大きな刺激となり、対抗意識は燃え、各校とも大変に競り合ったものである。こうして育った多くの若者がやがて社会人となり、ようやく一般合唱団、職場合唱団なども誕生し、合唱音楽は陽の目を見るようになるのである。高校合唱団は益々レベルを上げていく。岡谷合唱団が昭和33年に大合併をした時ようやく高校合唱優位の時代が終わるのである。
岡谷合唱団創生期の団人のほとんどが、賢二氏の直接指導、あるいは影響を受けて「合唱開眼」した人々の集まりであったことは事実である。更に昭和30年、弟の功氏の来岡であるが、すでに兄・賢二氏を通じ知る人も居り、岡谷合唱団に合唱仲間は集まる結果となるのである。
諏訪の地に、合唱音楽の土壌を培った人、それは渡辺賢二氏である。
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父・比左志は高校生時代のものから多くを遺している。岡谷南高等学校音楽クラブでも岡谷合唱団でも、使用されていた楽譜は一般印刷されたものではなく、手書きで採譜し直して配られていた。歌詞や歌唱上の注意点が記されていたものもあった。また、合唱曲集や愛唱歌集に編纂されているものもあった。
また、すでにこの頃から、自身で挿絵を描き入れた合唱曲集も作成していた。その後の愛唱曲集や全日本合唱連盟「合唱名曲シリーズ」製作の原点であると言っていいものであろう。
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それらの楽譜から、高校在籍中から岡谷合唱団の活動に参加していたことが確認された。1959年の全日本合唱コンクール課題曲と自由曲の楽譜が遺され、署名もあることから、出場したものと判断する。1962年全日本合唱コンクールまで連続して出場したようである。
写真からも参加状況が確認された。高校在籍中の参加は、1959年4月の小松道子リサイタル、1959年5月の正派筝曲大演奏会、1959年7月の塩嶺病院慰問演奏、卒業後の参加は、1960年4月の8周年リサイタル、1961年10月の第16回中部合唱コンクール、である。
1963年6月の創立10周年記念リサイタルまでは参加しており、この演奏会の模様はオープンリールテープでの録音も残されている。楽譜に記載された日付と写真から、父・比左志は岡谷合唱団からはこの演奏会後に離れたと判断する。
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岡工・岡南の合同男声合唱団は、全日本学生音楽コンクールの東日本大会に出場している。昭和33年11月9日に九段高校講堂で開催された東日本大会は、写真で確認すると、狭いステージに50人程が窮境としていた。前日には宿泊ホテルで中央大学音楽部との交歓会も行われた。まだこのときは短髪であった。昭和34年11月8日に九段会館で開催された東日本大会は、写真とともに手書きの要項も遺されている。この頃には長髪となり、多くの学生が坊主頭や短髪である1960年代では目立っていたのではと推測する。下の写真は左から、父・比左志・高3、父・比左志・高2、比左志の息子・高1、および九段周辺でのスナップである。
父・比左志卒業後の昭和35年の県大会では二位だったが、本年より二校が県代表となったことでかろうじて東日本大会に出場できた。この後、二校による合同合唱団への風当たりが強くなって出場できなくなり、昭和36年は全日本合唱コンクールに出場した。同年はブラスバンドが音楽クラブに併設されたことで、部員が両方に在籍し分散される状況にもなっていた。
昭和33年と34年のNHK全国唱歌ラジオコンクール課題曲の楽譜も残されているが、おそらくは岡谷南高校と岡谷工業高校は別々に出場したのではないかと推測する。
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岡谷南高校五十年史には、音楽クラブの最盛期は昭和33〜37年度と記されているが、これはコンクールでの活躍であり、クラブ活動の記録をつぶさに見ていくと、昭和29〜35年が順風満帆な時期だったのではないかと判断する。この時期の岡谷南高校のクラブ活動というのは、土曜日の二時間を使う全生徒必修の活動であった。
渡辺功氏が退任した昭和38年度以降の岡谷南高校音楽クラブ(吹奏楽クラブ設立に伴い37年からは合唱クラブと改称)は、新任の音楽教師が顧問となったが、新入部員への練習は生徒自身により行われ、合宿ではOBも加わっての練習が行われたようである。昭和38(1963)年の岡谷市民音楽祭では当時三年生の学生による指揮で出場している。岡谷南高校五十年史には「指揮者に外部の人は好ましくないとの意見が学校側から出るなど問題点はあったが、それぞれ対応して大会に臨んだ」とある。写真で確認すると1963年11月の第18回中部合唱コンクールには別の指揮者が立っていた。
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父・比左志が昭和35(1960)年春に高校を卒業した後は、岡谷合唱団に所属し渡辺功氏に随伴していた以外では何をしていたのか、また、昭和38(1963)年初夏以降は岡谷合唱団に在籍せずに何をしていたかとなると、定かではない。時期はいつか不明だが写真でひとつだけ確認できた。牛山縫製株式会社の慰安旅行と思われ、勤めていたものと推測できる。スーツを着てネクタイを締めるスタイルを嫌う姿は、この当時から現れている。
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昭和38(1963)年5月18日のはとバス東京観光の記念写真が遺されている。
比左志の父(私の祖父)は岡谷の自宅でアルバム製作を営み、東京・浅草にも拠点を設けていた。東京には親戚もおり、比左志が東京で従兄弟と遊ぶ姿、従兄弟が岡谷に来て遊ぶ姿が写真に収められていた。だから比左志にとって東京は「はるばる長野から」という感覚ではないと推測する。
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足跡を、紙の遺品以外で、遺されたオープンリールテープに録音されたものからも判断してみる。
判明したラジオ番組が、昭和37(1962)年12月から昭和38(1963)年3月までの毎月計5日の録音がある。昭和38(1963)年6月16日の岡谷合唱団10周年演奏会の録音もある。
次期のテープ録音は昭和39(1964)年8月23日の、NHK第一放送の昭和39年度全国唱歌ラジオコンクール「高校の部」である。テープ箱のインデックスには以下のようにある。
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湖辺会(訂正取消線)
NHKコンクール
栃木(うの宮)、イバラキ、長野高校、富士山第5「夕映えの?」
南校コンクール出場五味指揮
湖辺会
?チャン二人の?オーソレミヨ
南ブラバン
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湖辺会とは、「渡辺功先生の指導で歌っている合唱団同士が、先生への謝恩の意も含めて親睦と技術向上を計ろうと結成された」ものである。実状は、岡谷合唱団と三協精機合唱団の二大勢力合唱団である。
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録音内容を聴いて比べてみると、湖辺会の演奏会を録音した上から「全国唱歌ラジオコンクール(NHK全国学校音楽コンクール)」を録音したものだと思われる。この「南校コンクール出場五味指揮」というのは、OB指揮者として出場したのかもしれない。そしてこの録音の後ろに、重ね録り前の湖辺会の演奏会なり、別の演奏会なり個人練習なりブラスバンドなりが残っている。

先に記したように、ブラスバンドが南高音楽クラブに併設されたのは昭和36年度からである。昭和38(1963)年度の渡辺功氏は岡谷南高校から伊那弥生ヶ丘高校に赴任し、岡工・岡南のOB男声合唱団での指導は昭和38(1963)年度のみであり、昭和38年度以降も岡谷合唱団の指揮者としては残ってはいるが、渡辺賢二氏は岡谷合唱団の伴奏者を退任した。
岡谷南高校音楽クラブの昭和37(1962)年と38(1963)年の夏合宿で使用した、コンクール課題曲も含まれた楽譜集が残されている。そのためやはりこれら合宿に参加し、昭和38(1963)年に父・比左志がOB指揮者としてコンクール出場した可能性が高いのである。このテープの反面は昭和38(1963)年3月2日の録音で、NHK第二放送の「朝のコーラス」高木東六合唱曲集であり、インデックスの記述にも「湖辺会、高校、岡谷、高木東六」とある。
テープ以外で遺されているものに、昭和38(1963)年9月28日開催の岡谷市民合唱祭のプログラムがある。昭和39(1964)年7月26日に行われた埼玉県合唱連盟主催の埼玉県合唱講習会テキストもあるが、これの参加についてはあとで記述する。
オープンリールテープで、ラジオ番組を録音したもので時期が判明していないものも残っているが、今のところ、昭和39(1964)年8月23日の録音の次期は、昭和48(1973)年9月22日となる。余談になるが、昭和43(1968)年3月18日のさつき合唱団の第一回演奏会の録音は、昭和38(1963)年3月9日のラジオ番組録音の上から録音されている。こうしたことから、岡谷の自宅や友人宅以外で、オープンリールテープデッキやラジオを所持する余裕はなかったのではないかと推測する。

私(父・比左志の息子)を含めて家族の本籍が長野県茅野市に長い間あり、これがなぜであったのかがわからない。元から茅野に籍があったのではないと、以前に叔母(父・比左志の実妹)に聞いたような記憶がある。友人宅に転がり込んでいて、そこから上京したという話も伝え聞いている。ゆえに、岡谷の自宅から飛び出し、わざわざ本籍を転籍してまでしていずれかの地に転居しつつも、合唱活動に勤しんでいたのが昭和38(1963)年の出来事だったのではないかと推測する。
この後、いつ本格的に上京したのかを特定できる情報がない。
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昭和38年度には渡辺功氏が岡谷南高校から不在になると、音楽クラブの沈下が顕著に見られ始めた。昭和38(1963)年春までの父・比左志は、渡辺功氏に随伴していたに過ぎない状況である。昭和38年度中までは音楽クラブを再興しようとOBとして助力したのだろう。だけれども、渡辺賢二氏・功氏が岡谷の地に来て始めた合唱活動の、高校合唱での頂点を体現した父・比左志は、両氏が教員となって活動を始めた年齢に自身が近づきつつあるとき、自分の力量のなさを痛感して指導に行き詰ったのではなかろうかと推測する。昭和37年2月の第二回南信合唱講習会以後、昭和39年1月の第三回南信合唱講習会まで開催がなかった。第二回には参加したが、第三回の資料は残されていないことから参加しなかったのだろう。開催を知らされないような家出状態、またはすでに上京していて、昭和39(1964)年7月の埼玉県合唱講習会に参加したのだろう。

昭和40(1965)年12月に村谷達也氏宅に、氏が指導している各職場の主なメンバーが集められたのだが、その数ヶ月前、昭和40(1965)年9月14日の東京コール・フェライン第四回定期演奏会に出演していたことがパンフレットから確認できた。よって、先の推論が覆された。同級生であるyosizawa氏に誘われて、所属する職場合唱団である三和銀行グリーンエコーに父・比左志も所属し、(省略)三和エコーの指揮者が村谷達也氏であり、そこからさつき合唱団の設立に関わる会合が行われた昭和41(1966)年春へとつながったという推測だけでは物足りなくなった。さらに、このパンフレットの余白には「さつき」のフォントデザインが手書きされており、演奏会のパンフで東京コール・フェラインの会員名簿を見ても関係性のある人の名がなかった。ではどのような経緯で東京コール・フェラインに所属となったのか、いつから三和エコーに所属し始めたのか、この演奏会前後の流れがわからなく想像もし難い。そして翌年昭和41(1966)年の東京コール・フェラインの演奏会には父・比左志の名がなかった。

その他にも足跡が残っており、ややこしいので列記してみる。数少ない状況証拠から点と点を結んでみると、昭和39(1964)年6月時点にはすでに上京していて、昭和39(1964)年度の埼玉県合唱連盟役員会員名簿を所持し、リサーチして書き込みがされていることからも、埼玉県に在住していたのではないかと推測できる。また、昭和39(1964)年8月23日のラジオの録音は友人にしてもらったのだと推測する。父・比左志は昭和38(1963)年中には岡谷南高校音楽クラブでの指導にけりをつけて、昭和39(1964)年春にはすでに上京していた可能性が高い。
(この時期のみならず、各合唱団の演奏会パンフ、様々な合唱コンクールのパンフ、ミュージカルやオーケストラのパンフ、それら一生涯分が遺されている)
昭和35(1960)年3月5日、岡谷南高等学校を卒業
昭和36(1961)年10月、第16回中部合唱コンクール(於・富山市公会堂)に参加
昭和37(1962)年2月、第二回南信合唱講習会に参加
昭和37(1962)年8月4〜7日、岡谷南高校音楽クラブ夏合宿に参加
昭和37(1962)年11月、第17回中部合唱コンクール(於・名古屋市愛知文化講堂)に参加
昭和38(1963)年2月、第一回湖辺会演奏会に参加
昭和38(1963)年5月、第六回南信合唱祭に参加
昭和38(1963)年5月18日、はとバス東京観光
昭和38(1963)年6月、岡谷合唱団創立10周年記念リサイタルに参加
昭和38(1963)年初夏頃、岡谷合唱団を退団?
昭和38(1963)年8月1〜4日、岡谷南高校音楽クラブ夏合宿に参加
昭和38(1963)年9月28日、岡谷市民合唱祭を鑑賞
昭和39(1964)年6月14・21日、関東合唱祭埼玉県大会を鑑賞
昭和39(1964)年7月26日、埼玉県合唱講習会に参加
昭和39(1964)年8月23日、全国唱歌ラジオコンクール「高校の部」のラジオ録音
昭和39(1964)年10月11日、関東合唱コンクール埼玉県大会を鑑賞
昭和39(1964)年11月23日、全日本合唱コンクール全国大会(於・宮城県民会館)を鑑賞
昭和40(1965)年9月14日、東京コール・フェライン第四回定期演奏会に出演
昭和40(1965)年12月、村谷達也氏宅に参集
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岡谷在住時か上京後かは定かではないが、このように勉強していた。
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岡谷合唱団は、中央のコンクール出場を目指して厳しい練習を積み重ねており、1960年代後半になると実力も向上し、昭和44(1969)年11月の第22回全日本合唱コンクール全国大会に初出場六位、昭和45(1970)年11月の第23回全日本合唱コンクール全国大会銅賞入賞となった。父・比左志はそれを聴きに行った。

■機関紙「さつき」第26号、(1971.1.23)
五味比左志
今年の正月はここ何年来の寝正月で過ごした。自分にとって久しぶりの長い休暇であるから普段出来ぬ用事でもしようかと思っていたが、暮れから大掃除やらおせち料理やらそれに子供の入浴まで大ハッスル、まずは良きパパぶりではあったが、テレビ、FMなどの音楽番組(正月は新春演奏会や前年来日の一流演奏家等の放送が実に多く、普段忙しく聴けなかったので)を視聴しようとすると、この子は音に敏感で少しの音にも神経をピリピリさせるからと、ボリュームを下げてPP(ピアニシモ)、ピアノも歌も同様、母親の顔色をうかがいながら、チョビチョビと。又、行っては飲み来ては飲みと正月気分は浸りきりなんともいやはや腑抜けた正月であった。
昨年、浦和で行われた全日本合唱コンクールに、昔自分が幹事になって活躍していた郷土の合唱団が大会に出場の為上京し、宿泊していた本郷の宿へ応援がてら団員である同級生や、指揮者(高校時代の恩師)等に会いに出かけた。赤門の所で待ち合わせ、一緒に宿へ着くと、「やあ、はぁるか振りだな」と会う人ごとに声をかけられ大変懐かしく、共に夕食を食べながら語り合った。
学校卒業以来音沙汰なかったクラブの後輩や、自分が在学中に消息が知れなくなった団員等とひょっこり会え、数年間歌っていなかったが転職や転勤などで戻り、歌いたくて歌いたくてとんできたと話していた。
人数が集まらなくてフウフウ云っている合唱団にとっては涙が出そうなくらい羨ましい話であると同時に合唱団の歴史、業績等をつくづく感じさせられる。
いつの日か、とにかく冬の寒い日であったが、集まりが悪く数人で練習をしたことを覚えている。私の知っている人達は自分が二十くらいの歳に一緒に幹事をしていた連中で三十もとうに越しているオジサン等でありほとんどが十年選手だ。・・・
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さつき合唱団での機関紙発行は、岡谷合唱団在籍時にその必要性を身に着けたものが反映されたのだと推測する。
岡谷合唱団の機関紙は昭和34(1959)年から、団設立メンバー四人衆の一人が勝手に発行し始めた。コンクールに出場し勝つにはそれなりの体制とか仕組みとか工夫とかが必要で、同じ気持ちになるために、団運営上の事務連絡と目的意識の共有を目的とした。その後、合唱活動啓蒙、記録、私見発表などにも波及した。
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(記2016.06、改2023.12)


五味比左志〜合唱とともに〜