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比左志の軌跡2〜父・五味比左志の出身地・岡谷と関わりのある合唱団〜(岡谷合唱団)



岡谷合唱団は、昭和28年6月に諏訪清陵高校OBが中心となって団員十数人で発足した。この諏訪清陵高校OB四人衆がこの初期の、岡谷合唱団運営の大きな原動力となる。岡谷市民新聞社に当時在籍し始めたsatsuma氏を会長に迎え入れる決断、このとき指揮をしていた諏訪清陵高校の教員恩師に断腸の思いで下りていただき、渡辺功氏を見出し説得し迎え入れる決断、周辺合唱団との統合の決断、その他多くが、四人衆による最終決断で行われた。
岡谷合唱団二十年史の最初に八名の顔写真が掲載されている。市民合唱団として飛躍するための、ただの市民合唱団でなく全国レベルを目指す合唱団としての基盤固めを、この八人衆が新たな原動力となって行われた。

岡谷合唱団には、記録保存の鬼が数名いる。下記のように、分担し補完しながら過去の記録をこと細かく残している。このような岡谷合唱団の古参たちの性分が、父・比左志の遺品の膨大さに影響を与えたのではなかろうかと感じ、岡谷の人の性分ではないかと叔母(父・比左志の実妹)に聞いたことがあるが、それは否定された。だが、岡谷南高校五十年史でも相当な史実量があり、父・比左志と関わりのある岡谷の人たちには同じような性分とこだわりがあると感じている。

ここでの岡谷合唱団についての多くの記述は、父・比左志が在籍していない時期にもかかわらず、膨大な情報量となった。だが決して無関係ではなく、父・比左志がどこまで岡谷合唱団に直接的/間接的に影響を与え、そして与えられたかは、想像の域ではあるが、かなりの複合作用があったように感じる。

【岡谷合唱団の活動記録】
昭和28年4月、岡谷音楽愛好会(岡谷合唱団の前身)発足
昭和28年6月、合唱団発足、常任指揮者:花岡幸一
昭和29年4月、常任指揮者:樋口理
昭和29年9月、会長に薩摩光三を迎える
昭和29年12月、会報「音楽岡谷」創刊
昭和30年2月、岡谷市民合唱団と改称
昭和30年9月、会報「音楽岡谷」5号
昭和30年11月、常任指揮者に渡辺賢二氏、渡辺功氏を迎える
昭和31年2月、岡谷合唱連盟結成準備会 於・岡谷喫茶
昭和31年7月、岡谷合唱連盟結成し加盟 於・岡谷市役所
昭和32年4月、関東合唱連盟に加盟
昭和33年5月、岡谷男声合唱団・岡谷東OGコールと合併し、岡谷市民合唱団と呼称
昭和33年9月、岡谷合唱団と改称
昭和34年3月、岡谷合唱団ニュース第1号発行
昭和34年6月、岡谷市合唱連盟と岡谷市音楽協会が合併
昭和34年10月、第一回長野県合唱コンクール一位入賞、以来56年に出場辞退をするまで二十二年間県代表 於・東筑摩・本郷小学校講堂
昭和34年10月、第14回中部合唱コンクール 於・岐阜市民センター
昭和35年1月、岡谷合唱団ニュース第20号発行
昭和35年4月、岡谷ジュニアーコーラス誕生
昭和35年9月、南信合唱連盟結成し加盟
昭和35年10月、第二回長野県合唱コンクール 於・長野市第二市民会館
昭和35年10月、第15回中部合唱コンクール 於・名古屋市愛知文化講堂
昭和36年1月、岡谷合唱団ニュース第36号発行
昭和36年10月、第三回長野県合唱コンクール 於・東筑摩・本郷小学校講堂
昭和36年10月、第16回中部合唱コンクール 於・富山市公会堂
昭和37年1月、岡谷合唱団ニュース第44号発行
昭和37年10月、第四回長野県合唱コンクール 於・長野市南部中学校
昭和37年11月、第17回中部合唱コンクール 於・名古屋市愛知文化講堂
昭和38年1月、岡谷合唱団ニュース第74号発行
昭和38年11月、第18回中部合唱コンクール 於・長野市民会館
昭和39年1月、岡谷合唱団ニュース第92号発行
昭和39年10月、第五回長野県合唱コンクール 於・長野市南部中学校
昭和39年11月、第19回中部合唱コンクール 於・名古屋市愛知体育館
昭和40年1月、岡谷合唱団ニュース第116号発行
昭和40年10月、第六回長野県合唱コンクール 於・岡谷市民会館
昭和40年11月、第20回中部合唱コンクール 於・金沢市観光会館
昭和41年1月、岡谷合唱団ニュース第135号発行
昭和41年10月、第八回長野県合唱コンクール 於・長野県短大講堂
昭和41年11月、第21回中部合唱コンクール 於・愛知文化講堂
昭和41年11月、薩摩光三会長、合唱運動功労者表彰(中部合唱連盟)
昭和42年1月、岡谷合唱団ニュース第165号発行
昭和42年10月、第九回長野県合唱コンクール 於・岡谷市民会館
昭和42年11月、第22回中部合唱コンクール 於・三重県文化会館
昭和42年11月、「全日本合唱コンクールを聞く会」に参加 於・東京・日本武道館
昭和43年1月、岡谷合唱団ニュース第206号発行
昭和43年10月、第十回長野県合唱コンクール 於・長野県勤労者福祉センター
昭和43年11月、第23回中部合唱コンクール 於・愛知文化講堂
昭和44年1月、岡谷合唱団ニュース第253号発行
昭和44年4月、渡辺功氏:長野県合唱連盟理事長就任、林昭男氏:長野県合唱連盟主事就任
昭和44年10月、第11回長野県合唱コンクール 於・岡谷市民会館
昭和44年11月、第24回中部合唱コンクール 於・福井文化会館
昭和44年11月、第22回全日本合唱コンクールに初出場六位 於・大阪フェスティバルホール
昭和45年1月、岡谷合唱団ニュース第298号発行
昭和45年10月、第12回長野県合唱コンクール 於・長野県短大講堂
昭和45年10月、第25回中部合唱コンクール 於・愛知文化講堂
昭和45年11月、第23回全日本合唱コンクール全国大会銅賞入賞 於・浦和・埼玉会館
昭和46年1月、岡谷合唱団ニュース第332号発行
昭和46年10月、第13回長野県合唱コンクール 於・岡谷市民会館
昭和46年10月、第26回中部合唱コンクール 於・松本市民会館
昭和46年11月、第24回全日本合唱コンクール全国大会銅賞入賞 於・福岡市民会館
昭和47年1月、岡谷合唱団ニュース第373号発行
昭和47年2月、南信合唱連盟主催合唱談義の会に参加 於・岡谷市湖山館
昭和47年4月、知られざる名曲をたずねて(知らめえ)第2回合唱連続演奏会の合同試演会 於・東京家政学院
昭和47年6月、長野県幹部研修会に参加 於・浅間温泉ホテルみはらし城
昭和47年7月、知られざる名曲をたずねて(知らめえ)第2回合唱連続演奏会 於・東京文化会館
昭和47年10月、第14回長野県合唱コンクール 於・塩尻市民会館
昭和47年10月、第27回中部合唱コンクール 於・岐阜市民会館
昭和48年1月、岡谷合唱団ニュース第402号発行
昭和48年4月、岡谷合唱団団歌歌詞募集
昭和48年7月、岡谷合唱団団歌発表 作曲・清水修
昭和48年7月、創立20周年記念祝賀会 於・岡谷市民会館
昭和48年7月、知られざる名曲をたずねて(知らめえ)第3回合唱連続演奏会 於・東京文化会館
昭和48年10月、第15回長野県合唱コンクール
昭和48年10月、第26回中部合唱コンクール 於・高岡市民会館
昭和48年11月、第26回全日本合唱コンクール全国大会銅賞入賞 於・岡山武道館
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昭和49年11月、第27回全日本合唱コンクール全国大会銅賞入賞 於・福島県文化センター
昭和50年7月、知られざる名曲をたずねて(知らめえ)第5回合唱連続演奏会 於・東京文化会館
昭和50年11月、第28回全日本合唱コンクール全国大会銀賞入賞 於・神戸文化ホール
昭和51年4月、岡谷合唱団、岡谷市制40周年記念功労表彰を受ける
昭和51年11月、第29回全日本合唱コンクール全国大会 於・高松市市民文化センター
昭和52年11月、岡谷合唱団と渡辺功氏、全日本合唱連盟創立30周年記念表彰を受ける
昭和52年11月、第30回全日本合唱コンクール全国大会 於・東京・普門館
昭和53年11月、第31回全日本合唱コンクール全国大会銅賞入賞 於・函館市民体育館
昭和54年7月、知られざる名曲をたずねて(知らめえ)第9回合唱連続演奏会 於・東京・石橋メモリアルホール
昭和54年11月、第32回全日本合唱コンクール全国大会銅賞入賞 於・神奈川県立県民ホール
昭和55年11月、第33回全日本合唱コンクール全国大会銅賞入賞 於・名古屋市民会館 特別審査員としてウィーンから招いたエルビン・ヴァイス教授に、ブラームスを歌う岡谷合唱団を高く評価してくださる
昭和56年7月、第10回ウィーン青少年音楽祭に渡辺功氏を派遣
昭和57年1月、常任指揮者に関屋晋氏を迎える
昭和57年5月、岡谷合唱団、文化功労団体として県知事表彰を受ける
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【岡谷合唱団の演奏記録】
昭和28年8月、国立音楽大学招待演奏会を主催 於・岡谷市役所
昭和28年10月、職場音楽会 於・岡谷市役所
昭和29年6月、姫百合音楽会に賛助 於・山吉講堂
昭和29年7月、東京芸術大学新人招待演奏会を主催 於・岡谷市役所
昭和29年11月、諏訪交響楽団招待演奏会を主催 於・岡谷市役所
昭和29年12月、職場音楽会 於い・岡谷市役所
昭和30年3月、映画「ここに泉あり」幕合演奏 於・岡谷キネマ
昭和30年4月、諏訪交響楽団招待演奏会を主催 於・岡谷市役所
昭和30年5月、県下初の第一回岡谷合唱祭を主催 於・中部中学校体育館
昭和30年10月、市民音楽会 於・岡谷市役所
昭和30年12月、職場音楽会 於・岡谷市役所
昭和31年4月、第二回岡谷合唱祭を主催 於・中部中学校体育館
昭和31年8月、新人招待演奏会を主催 於・岡谷市役所
昭和31年8月、第二回長地せせらぎ会発表会に客演 於・長地中学校
昭和31年9月、中央大学男声合唱団招待音楽会に出演 於・岡谷市役所
昭和31年10月、第三回岡谷合唱祭 於・中部中学校体育館
昭和32年4月、第四回岡谷合唱祭 於・中部中学校体育館
昭和32年6月、第12回関東合唱祭に出演 於・立教大学タッカーホール
昭和32年8月、第三回長地せせらぎ会発表会に客演
昭和32年8月、中央大学男声合唱団招待音楽会に賛助 於・中部中学校体育館
昭和32年9月、公民館建設基金募集市民芸能大会に賛助 於・中部中学校体育館
昭和32年10月、第五回岡谷合唱祭 於・中部中学校体育館
昭和32年12月、岡谷市音協グリーコールとのジョイントコンサート 於・諏訪市民会館
昭和33年5月、第六回岡谷合唱祭 於・中部中学校音楽室
昭和33年6月、第13回関東合唱祭 於・日本青年館
昭和33年8月、砂山合唱団招待演奏会に賛助 於・中央小学校講堂
昭和33年8月、中央大学男声合唱団招待音楽会に賛助 於・中央小学校講堂
昭和33年9月、市民音楽界 於・中央小学校講堂
昭和33年10月、第七回岡谷合唱祭 於・中央小学校講堂
昭和33年11月、岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市役所
昭和34年4月、岡谷市民会館開館演芸会に賛助 於・岡谷市民会館
昭和34年4月、小松道子リサイタルを主催 於・岡谷市民会館
昭和34年5月、第八回岡谷合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和34年5月、正派筝曲大演奏会に賛助 於・岡谷市民会館
昭和34年6月、第一回長野県合唱祭 於・長野市城山第一市民会館
昭和34年7月、塩嶺病院慰問演奏
昭和34年7月、市民音楽会 於・岡谷市民会館
昭和34年7月、長地せせらぎ会発表会に賛助 於・岡谷市民会館
昭和34年8月、マンドリン演奏と合唱の夕(早稲田大学マンドリンクラブ) 於・岡谷市民会館
昭和34年10月、ピアノ披露演奏会に賛助 於・岡谷市民会館
昭和34年11月、第九回岡谷合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和35年4月、岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市民会館
昭和35年5月、第二回長野県合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和35年6月、第一回東信合唱祭(東信合唱連盟発足記念) 於・上田市公会堂
昭和35年7月、大阪市立大学グリー演奏会に賛助 於・岡谷公会堂
昭和35年7月、市民音楽会 於・岡谷市民会館
昭和35年8月、慶応大学ワグネル・ソサイティー演奏会に賛助 於・岡谷市民会館
昭和35年8月、第五回中央大学グリークラブ演奏会に賛助 於・岡谷市民会館
昭和35年10月、岡谷市芸能祭 於・岡谷市民会館
昭和35年11月、第一回南信合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和36年5月、第二回南信合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和36年6月、第三回長野県合唱祭(北信州合唱連盟発足記念) 於・長野市第一市民会館
昭和36年7月、大阪市立大学グリー演奏会に賛助 於・岡谷市民会館
昭和36年7月、市民音楽会 於・岡谷市民会館
昭和36年8月、第六回中央大学グリークラブ演奏会に賛助 於・岡谷市民会館
昭和36年10月、日本の韻 於・岡谷市民会館
昭和36年10月、市民芸能祭 於・岡谷市民会館
昭和36年12月、第三回南信合唱祭 於・駒ヶ根市赤穂公民会
昭和36年12月、明治学院大学グリークラブ 於・岡谷市民会館
昭和37年7月、大阪市立大学グリー演奏会に賛助 於・岡谷市民会館
昭和37年7月、第四回南信合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和37年7月、市民音楽会 於・岡谷市民会館
昭和37年8月、早稲田大学合唱団演奏会を主催
昭和37年10月、市民芸能祭 於・岡谷市民会館
昭和37年11月、第五回南信合唱祭 於・辰野中学校体育館
昭和37年12月、第二回明治学院大学グリークラブクリスマスコンサートを主催 於・岡谷市民会館
昭和38年2月、第一回湖辺会演奏会 於・岡谷市民会館
昭和38年5月、第六回南信合唱祭(第五回長野県合唱祭) 於・飯田市中央公民館
昭和38年6月、創立10周年記念リサイタル 於・岡谷市民会館
昭和38年7月、大阪市立大学グリー演奏会を主催 於・岡谷市民会館
昭和38年9月、市民音楽祭 於・岡谷市民会館
昭和38年11月、岡谷市の名を天下に紹介したお諏訪太鼓と、岡谷合唱団大演奏会 於・岡谷市民会館
昭和38年12月、第七回南信合唱祭 於・伊那市民会館
昭和38年12月、第三回明治学院大学グリークラブクリスマスコンサートを主催 於・岡谷市民会館
昭和39年2月、第二回湖辺会演奏会 於・岡谷市民会館
昭和39年5月、第八回南信合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和39年6月、岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市民会館
昭和39年6月、第六回長野県合唱祭 於・本郷村体育館
昭和39年6月、江川ますみ演奏会に客演 於・岡谷市民会館
昭和39年7月、大阪市立大学混声交歓演奏会 於・岡谷市民会館
昭和39年11月、第九回南信合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和39年12月、第四回明治学院大学グリークラブクリスマスコンサートを主催 於・岡谷市民会館
昭和40年2月、第三回湖辺会演奏会 於・岡谷市民会館
昭和40年4月、野崎道子渡欧ファミリーコンサートを主催 於・岡谷市民会館
昭和40年5月、第十回南信合唱祭 於・辰野町
昭和40年7月、岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市民会館
昭和40年7月、第一回三協精機合唱団リサイタルに賛助 於・諏訪市民センター
昭和40年9月、市民音楽祭 於・岡谷市民会館
昭和40年12月、第11回南信合唱祭 於・駒ヶ根商工会館
昭和41年2月、第四回湖辺会演奏会 於・岡谷市民会館
昭和41年6月、第12回南信合唱祭 於・下諏訪中学校
昭和41年7月、第二回三協精機合唱団リサイタルに賛助 於・諏訪市民センター
昭和41年7月、岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市民会館
昭和41年10月、市民音楽祭 於・岡谷市民会館
昭和41年12月、第13回南信合唱祭 於・伊那市民会館
昭和42年3月、第五回湖辺会演奏会 於・岡谷市民会館
昭和42年5月、第九回長野県合唱祭兼第14回南信合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和42年7月、第三回三協精機合唱団リサイタルに賛助 於・諏訪市北沢会館
昭和42年7月、岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市民会館
昭和42年8月、第七回中央大学グリークラブ演奏会を主催 於・岡谷市民会館
昭和42年10月、市民音楽祭 於・岡谷市民会館
昭和42年11月、全日本合唱連盟創立20周年記念「日本の合唱曲の歴史」演奏会に参加 於・東京・新宿厚生年金会館
昭和42年12月、第15回南信合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和42年12月、諏訪労音「第九」演奏会に出演 於・諏訪市北沢会館
昭和43年5月、石原裕次郎と歌う会に賛助 於・岡谷
昭和43年6月、第十回長野県合唱祭 於・長野市民会館
昭和43年7月、創立15周年記念岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市民会館
昭和43年7月、三協精機合唱団リサイタルに賛助 於・岡谷市民会館
昭和43年8月、中央大学グリークラブ交歓演奏会 於・岡谷市民会館
昭和43年11月、市民音楽祭 於・岡谷市民会館
昭和43年11月、明治100年記念芸術祭「一月の祭典」参加 於・岡谷市民会館
昭和43年12月、映画と音楽の夕べ 於・岡谷市民会館
昭和43年12月、第16回南信合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和44年5月、第17回南信合唱祭 於・辰野町営体育館
昭和44年6月、第11回長野県合唱祭 於・塩尻市民会館
昭和44年7月、岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市民会館
昭和44年7月、三協精機合唱団リサイタルに客演 於・諏訪市民センター
昭和44年11月、市民音楽祭 於・岡谷市民会館
昭和44年11月、第18回南信合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和44年12月、諏訪労音「第九」演奏会に出演 於・諏訪市北沢会館
昭和45年5月、第12回長野県合唱祭 於・上田市民会館
昭和45年6月、第19回南信合唱祭 於・茅野市民会館
昭和45年7月、岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市民会館
昭和45年11月、市民音楽祭(岡谷合唱団全国大会出場壮行会) 於・岡谷市民会館
昭和45年11月、全日本合唱フェスティバル「第九」演奏会に有志参加 於・東京・共立講堂
昭和45年12月、第20回南信合唱祭 於・駒ヶ根市社会体育館
昭和46年3月、早稲田大学混声合唱団岡谷演奏会を主催(湖辺会男声合唱団) 於・岡谷市民会館
昭和46年5月、第21回南信合唱祭(第13回長野県合唱祭) 於・岡谷市民会館
昭和46年6月、三協精機合唱団リサイタルに賛助(湖辺会男声合唱団) 於・三協精機体育館
昭和46年7月、岡谷市民憲章制定記念音楽会 於・岡谷市民会館
昭和46年7月、岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市民会館
昭和46年11月、市民音楽祭 於・岡谷市民会館
昭和46年11月、東京中野区民合唱団交歓会 於・岡谷市公民館
昭和46年11月、合唱による全国民謡めぐりに参加 於・福岡市民会館
昭和46年12月、諏訪労音「第九」演奏会に出演 於・諏訪市北沢会館
昭和46年12月、音協「第九」演奏会に出演 於・松本市民会館
昭和46年12月、第22回南信合唱祭 於・伊那市民会館
昭和46年12月、クリスマス音楽会 岩崎洋共演 於・諏訪市宗藤
昭和47年4月、団内独唱会 於・岡谷市公民館
昭和47年5月、第14回長野県合唱祭 於・篠ノ井市民会館
昭和47年6月、第23回南信合唱祭 於・岡谷市民会館
昭和47年6月、アメリカ・フォークグループ「コイノニア・スマイル合唱団」演奏会に賛助 於・諏訪市北沢会館
昭和47年8月、岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市公民館
昭和47年9月、TBS録画「オーケストラがやって来た」に出演 指揮・山本直純 於・諏訪市北沢会館
昭和47年9月、青年会議所10周年式典演奏会
昭和47年9月、琴の演奏会に賛助 於・下諏訪中学校
昭和47年11月、市民音楽祭 於・岡谷市民会館
昭和47年12月、第23回南信合唱祭 於・飯田市民会館
昭和48年3月、創立20周年記念「春の演奏会」 及び、SBCファミリーホール公開録音 於・岡谷市民会館
昭和48年4月、第24回南信合唱祭 於・辰野町営体育館
昭和48年6月、辰野エイコンコールリサイタルに賛助(岡谷合唱団男声) 於・辰野町営体育館
昭和48年6月、第15回長野県合唱祭 於・松本市民会館
昭和48年7月、創立20周年記念岡谷合唱団リサイタル 於・岡谷市民会館
昭和48年8月、創立20周年記念オペラコンサート 於・松本市民会館及び岡谷市民会館
昭和48年11月、市民音楽祭 於・岡谷市民会館
昭和48年12月、第26回南信合唱祭
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昭和57年11月、渡欧記念演奏会 於・諏訪市文化センター
昭和57年11〜12月、長野県民文化会館とウィーン楽友協会ホールとの姉妹提携記念演奏会 於・カール協会・ブラームスザール・マーティアス協会
昭和58年11月、創立30周年記念演奏会 於・岡谷市民会館
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平成16年2月15日、創立50周年記念演奏会 於・カノラホール
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【岡谷合唱団の勉強記録】
昭和28年5月、第1回レコードコンサートを主催
昭和28年12月、第6回レコードコンサートを主催
昭和29年5月、常任レコード解説者:行田敏一
昭和30年2月、第14回レコードコンサートを主催 於・中部中学校
昭和30年9月、第20回レコードコンサートを主催 於・中部中学校
昭和31年6月、第26回レコードコンサートを主催 於・山三会館
昭和31年10月、合宿 於・岡谷市湖山館
昭和32年1月、第30回レコードコンサートを主催 於・中部中学校音楽室
昭和32年7月、第34回レコードコンサートを主催 於・山三会館
昭和33年3月、第38回レコードコンサートを主催 於・中部中学校音楽室
昭和33年10月、第41回レコードコンサートを主催 於・岡谷喫茶
昭和34年7月、合宿 於・諏訪市蓼の海ハウス
昭和35年2月、青木八郎先生を囲む座談会に参加 於・岡谷喫茶
昭和35年10月、合宿 於・岡谷市湖山館
昭和36年8月、第二回全日本合唱指揮者講習会に有志参加 於・長野市民会館
昭和37年2月、第二回南信合唱講習会 山根一夫先生 於・岡谷市民会館
昭和37年9月、合宿 於・岡谷市湊久保寺
昭和37年10月、合宿 於・岡谷市湖山館
昭和38年8月、合宿 於・岡谷市湊久保寺
昭和38年10月、合宿 於・岡谷市湖山館
昭和39年1月、第三回南信合唱講習会 内本実先生 於・諏訪市民センター
昭和39年7月、渡辺功氏、国際教育会の招きで渡米(8月〜11月)
昭和39年8月、合宿 於・岡谷市湊久保寺
昭和40年10月、合宿 於・岡谷市湊久保寺
昭和41年6月、合宿 於・富士見高原ホテル
昭和41年6月、第四回南信合唱講習会 山根一夫先生 於・下諏訪中学校
昭和41年9月、合宿 於・富士見高原ホテル
昭和42年6月、合宿 於・白樺湖ホテル朝霧
昭和42年9月、合宿 於・富士見高原ホテル
昭和43年5月、中部合唱講習会 内本実・石井歓 於・岡谷市民会館
昭和43年6月、合宿 於・白樺湖ホテル朝霧
昭和43年9月、合宿 於・白樺湖ホテル朝霧
昭和44年4月、川口千枝先生女声個人レッスン
昭和44年4月、男声合宿 於・白樺湖・山幸閣
昭和44年6月、合宿 於・白樺湖畔ホテル
昭和44年9月、合宿 於・車山ロッジ
昭和45年2月、長野県合唱講習会 大中恩 於・蓼科ハイランドホテル
昭和45年6月、合宿 於・蓼科ハイランドホテル
昭和45年8月、南信合唱講習会 佐藤公春先生 於・岡谷市公民館
昭和45年9月、合宿 於・白樺湖ホテル朝霧
昭和45年11月、長野県合唱講習会 高田三郎 於・白樺湖ホテル朝霧
昭和46年6月、合宿 於・白樺湖ホテル朝霧
昭和46年9月、合宿 於・車山ロッジ
昭和47年2月、長野県合唱講習会 村谷達也 於・浅間温泉ホテルみはらし城
昭和47年3月、南信合唱講習会 村谷達也 於・岡谷公会所
昭和47年3月、シュッツ合唱曲講習会 皆川達夫 於・岡谷公会所
昭和47年6月、合宿 於・白樺湖ホテル朝霧
昭和47年9月、合宿 於・白樺湖樽ヶ沢山荘
昭和47年11月、三協精機合唱団出場全日本合唱コンクールを聞く会 於・名古屋市民会館
昭和48年2月、長野県合唱講習会 清水修 於・浅間温泉ホテルみはらし城
昭和48年2月、男声合宿 於・岡谷市湖山館
昭和48年3月、南信合唱講習会 磯部俶 於・岡谷公会所
昭和48年6月、合宿 於・白樺湖ホテル朝霧
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■渡辺功 合唱指揮者生活60周年記念演奏会
「棒振り60年の記、音楽に明け暮れて!」
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合唱はヨーロッパ宗教音楽に始まって宗教音楽に終わると思います。私はこのことを基盤に合唱活動をしてきました。曲に立ち向かう際には、楽譜に書かれていない裏の面を読み取って表現しようと努力しています。そのためには緻密に計算された正確で厳しい練習を強いることになります。音楽作りに決して妥協は許されませんので、他から反発を招いたこともありました。
厳しい練習に耐え、とことんまで練り上げれば、演奏者一人一人に自信とゆとりが生まれます。斎藤秀雄先生は常に「音楽の規則にがんじがらめに縛られて窮屈そうに見えるが、心の余裕を持って演奏すれば充分楽しむことが出来る」と言って居られました。
聴衆に深い感銘を与える演奏はそう容易に出来るものではありません。熱演は必ずしも名演ではありません。いつも前向きに研鑽を積み、会心の演奏が出来たとき本当の生き甲斐を感じます。気が付いたら60年経っていたというのが実感で、多くの素晴らしい合唱団員と巡り合って、好きな事を一生続けられる幸せ者と感謝しています。
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■渡辺功 合唱指揮者生活60周年記念演奏会
「渡辺功先生と合唱コンクール」岡谷合唱団初代幹事長:Hayashi氏
昭和30年代、40年代は合唱熱が高まり、全国合唱コンクールで競うことによって合唱技術を向上させようという考え方が支配的であった。・・・
昭和42年に津で行われた中部合唱コンクールで職場の部の三協精機合唱団が総合優勝した。グノーを歌ったが、「我らのバビロンの・・・」と歌い出した時、会場が異常な空気になり、涙が出て指揮棒は見えず、後は泣きじゃくりながら歌い終えた。割れるような拍手は全員がステージから消えても鳴り止まなかった。コンクール制覇に執念を燃やす渡辺先生の厳しい練習指導に堪えて合唱技術を向上させてきた団員たちの勝利でもあった。
昭和44年の福井では、一般の部の岡谷合唱団がブラームスの「ドイツ・レクイエム」を歌い、前年全日本で優勝した東海メール・クワイアーを破って初優勝した。全国大会では「ブラームスの渡辺」の名が全国から注目された。
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全国から「岡谷合唱団はブラームスが巧い」と評判されるようになった。この頃の父・比左志は、ブラームスの研究家である村谷達也氏の下におり、ブラームスの演奏にしろコンクール出場にしろ、対抗心を燃やし競い合って切磋琢磨していたのだと推測する。

■渡辺功 合唱指揮者生活60周年記念演奏会
「祝辞<ありがとう渡辺先生>」komatsu氏
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渡辺先生は岡谷合唱団をカリスマ的手腕で指導し全国レベルまで育て上げ、私たちにかけがいのない音楽体験のチャンスを与えてこられました。リーダーの育成、長野県合唱連盟の底上げ、周辺合唱団への派生的な影響は勿論ですが、やがてウィーン学友協会ホールと長野県県民文化会館との姉妹提携にまでも線路を引かれることになりました。
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■日本の合唱曲の歴史演奏会 第1夜 昭和42年11月18日(土)午後6時〜9時 東京・新宿・厚生年金会館大ホール
「出演団体の自己紹介」
昭和28年結成以来、およそ文化とは無縁の地方都市を日本一の音楽都市に育てようと、渡辺功、薩摩光三両氏を中心に音楽の底辺を拡大してきた。そして5万台の人口でも、立派に合唱生活が楽しめるというモデルケースとして注目を集めている。定期演奏会はベートーベンの第九を中心にした今年で14回目。中部合唱コンクールでは東海メールに続いて連続2位。なお、市内には長野県トップレベルの岡谷せせらぎ会(混80)も活躍中。
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■日本合唱指揮者協会会報、第26号、昭和46.11.17、発行人・関屋晋
抜粋
協会では、去る六月「知られざる名曲」連続演奏会を催したところ、予想以上の反響があり、出演団体からもぜひこれを続けてほしいとの要望があり、また理事会としても、この企画を一回で終わらせることなく、ひとつの運動として継続すべきだとの結論に達したので、ただちに第二回の実現に向けて準備を始めた。
去る八月、各会員宛、出演者を公募したところ、中世音楽合唱団(皆川)、わだち(諸井)、湘南市民(関屋)など続々申し込みがあり(注目されるのは長野県からはるばる岡谷合唱団-渡辺功-が参加することだ)、・・・

掲示板
新入会員 渡辺功氏 長野県岡谷市天竜町・・・
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■しらめえ通信、<知られざる名曲をたずねて>演奏会ニュース、No.4、1972.5.27、発行人・関屋晋
「初顔 ただいま参上」岡谷合唱団
私たちの合唱団のある岡谷市は、人口六万一千余、ごくありふれた地方の小都市です。
生糸産業の衰退のあと、信州味噌と時計、カメラ、オルゴール、自動車部品などの精密工業で支えられる岡谷市に、私たちの団が誕生したのが昭和28年6月。夜も日もあけず働くことを最も良しとするような街で、およそ育つのは不可能といわれながら、数名の若ものたちは熱心にその輪を広げていきました。
昭和34年、長野県合唱連盟が結成され、第1回合唱コンクールが開催されて以来毎回参加、連続13回県代表として中部コンクールに出場してきました。コンクール功罪論はさておき、岡谷合唱団はその厳しい試練が何よりの励みとなり、さらに独裁者渡辺功先生の指揮とあいまって今日に成長してまいりました。
今度「しらめえ」にお誘いを受けて、さあシュッツのドイツミサの練習を始めたものの、とてもむずかしく牛歩のような状態で、しばらくはどうなることかと心配したものです。でもおかげさまで、最近は四百年も昔の曲が何となくわかってきたようで?、興味も新たになってきました。「5月の県合唱祭には、シュッツを」などという団員の声もちらほらきこえるところまできました。これからが楽しみです。
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以上から、岡谷合唱団では難しい曲に挑んで技巧を追い求める姿が見えた。だが、その先にある音楽の楽しさを追求するためにも、厳しい練習による研鑽を必要としたものであった。また、合唱の起源は宗教音楽にあるとして、その宗教的背景をもって生まれたヨーロッパの音楽に立ち向かい続けてきたようである。(「知られざる名曲をたずねて」合唱連続演奏会パンフにも、合唱音楽の歴史が記述されている)
くしくも前述のように父・比左志は、渡辺功氏の下を離れ、ブラームスの研究家である村谷達也氏の下に向かった。両者ともただの指揮者ではなく、音楽に関してはマルチな才能を持ち、父・比左志が目指そうとした手本は両者にあったのだと感じた。
渡辺功氏は、昭和34(1959)年11月22日に行われた南信合唱祭にて4つの団体の指揮者として出場しているが、このような地元での活動のみでなく、全日本合唱コンクール全国大会においても複数団体の指揮を兼務して出場しており、実力を備えた数少ない指揮者の一人であった。

■日曜新聞(昭和57年1月24日)
合唱岡谷の名声を高めた“岡谷合唱団”は、今までのコンクール志向を地元の合唱運動志向に切りかえ、中央より有名音楽家を招いて勉強をしていた・・・。
岡谷市に呱々の声をあげてから、二十数年の歴史をもつ“岡谷合唱団”は、ひたむきに全国コンクールをねらって、団員こぞって努力して来た。その間、銀賞一回、銅賞八回を獲得、地方コーラスとして、全国的に岡谷の名声を高めて来た。
県下一の実力派合唱団として、ここ十数年合唱界に君臨していたが、その反面、全面的にマンネリ化を招き、高度性を求めるあまり、大衆より遊離したきらいもあった。ここにおいて、その打開のため、昨年末、一大転換に踏み切った。
先ず、常任指揮者として、実力者の関屋晋氏を中央より誘致、更に時々中央より著名音楽人を招いて、新しい空気の導入をはかることにした。そのレパートリーを拡大、大いにフォークソングなども採り入れ、誰でも気軽に入団出来るよう、門戸を大きく開くことに踏み切った。
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昭和55(1980)年、全日本合唱コンクールに出場した岡谷合唱団の演奏が、審査員として来日していたウィーン学楽会理事に認められた。その翌年長野県では、巨額を投じて最高水準の県民文化会館を建設する構想に伴って、世界一のオーケストラを招く話が持ち上がり、その中で、ウィーン学楽協会と県民文化会館との姉妹提携が模索された。その関連プロジェクトの一つに、岡谷合唱団の招欧計画があった。
昭和56(1981)年には、姉妹提携が確実視され始め、ウィーンと長野県と双方から視察団を派遣し、下地固めを進めた。年末には姉妹提携締結が組織決定された。
この時期には岡谷合唱団では、指揮者問題が表出していたがこれを乗り越えて、昭和57(1982)年1月に、関屋晋氏を迎えることと、長野県選抜合唱団の訪欧スケジュールが確立した。また、全日本合唱コンクールの県民文化会館への誘致も動き出した。
昭和57(1982)年11月29日、ウィーンにて正式調印がなされ、12月1日に長野県選抜合唱団の訪欧による提携記念演奏会が行われた。選抜合唱団といってもこれはほとんどが岡谷合唱団の団員であった。

■町の合唱団、ウィーンへ
長野県岡谷市の岡谷合唱団が、ことし末、音楽の本場・オーストリアのウィーンへ海外公演に行く。
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岡谷合唱団は昭和29年に発足。昭和34年に県合唱コンクールで優勝したのをはじめ、以後、昨年まで二十二年間にわたり、県代表(五回シード)として中部日本大会に出場。全国大会にも十一回出場の経歴を誇っており、県下では実力ナンバーワンの合唱団。
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さる二月からは、神奈川県から新しい指揮者・関屋晋氏を迎え、毎週火、木曜日の二回、午後七時から同九時まで、市公民館講堂で晴れの舞台の演奏を夢見ながら練習に励んでいる。
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綿密な計画の上に一大事業をなした訪欧演奏会であった。関屋晋氏の意向により演奏会プログラムには、訪れる国の作品とともに日本の作品を取り入れた。
ウィーンで歌った唱歌の「赤とんぼ」「故郷」についてをsawara氏は、「大曲ばかりをとり上げずに日本のうたを持ってきて本当によかった」と感想を述べている。
関屋晋氏も、まずは現地からの感想で日本の曲はブラームス以上にすばらしいと述べられたことを前置きに、「音楽というのは勉強しなければならないところもあるけど、自分が歌いたい、楽しいという気持ちが大事で、それは何回かむこうに行って感じた結果でもある」と述べている。
sawara氏は、「このステージで何だか皆が自分から歌うということがどういうことなのかわかったのではないだろうか、この楽しさは何なんだと」述べており、関屋晋氏も、「一年弱を岡谷合唱団の指導をし今回の訪欧で、団員もその事が少しずつわかってくれているんじゃないかと思う」と述べている。

そしてこの関屋晋氏の意向は、まるで父・比左志の、さつき合唱団30周年記念ミニコンサート開催にあたって書き留めたものと同じようだと感じた。技術を追い求めコンクール入賞を目標としたことからの大転換は、1969〜1970年頃である。明治大学G.H.V.Gや相模女子大学合唱団での指導では、初めからそのような方向性を持ってあたっていた。その流れが岡谷合唱団にも及んだのは1980年代になってからであろう。この訪欧演奏会以後の岡谷合唱団は、コンクール出場をしていない。
父・比左志は生前に、さつき合唱団による訪欧計画を練っていた。このような合唱団の「夢」を同じように抱き続けていたのであろう。“本場”でブラームスの曲を歌うことのみならず、日本の作品を大事に歌うことや、父・比左志の実母も同行し日本舞踊を披露することが計画され、関屋晋氏の意向に近いものであった。(実母は、藤間流紫派師範の藤間瑞野として、岡谷だるま小唄の振りが残っていなかったために新たに踊りを考案をした経歴を持つ。)

■岡谷合唱団のあゆみ
元常任指揮者 渡辺功 先生(1982年談)

 岡谷合唱団が全日本合唱コンクールに通算10回出場の偉業をなし遂げ、全国の合唱界に「岡谷」ありとその名を高めたことは、実に名誉なことで過去27年間に在籍した団員と共に喜びたいと思う。
・・・ 先ず合唱団発展の歴史を内容から考察すると次の5項目が挙げられよう。

1.トップ幹事のビジョン
 昭和20年代から、全日本的な視野でものを考えていたこと。コンクールについても、全国大会を聞きに行き、全国の合唱界の動きを把握し、出場団体、レベル、選曲等の情報を提供、ひそかに岡谷合唱団の出場を予期し、そうなった場合の対応の仕方を研究し、トップ幹事(※)で検討を始めていた。したがって中部大会に上位入賞がされる頃からは、具体的な研究がなされ、44年初出場の際には、何の戸惑いもなくスムーズに進行した。特に、林昭男氏の洞察力、行動力は実に優れ、賞賛されるべきである。(トップ幹事=hayashi氏=林昭男氏=岡谷合唱団設立メンバーの一人)

2.合唱団のオーソドックスな活動
 30年、私が常任指揮者に就任以来、合唱の原点である古典宗教曲を中心とした選曲が行われ、広く高い見地から狭い縄張りや偏見になりがちの県下合唱界のあり方に斬新な気風を吹き込み、他に先がけて考えられることを実行し、又役員もそれを理解し協力を惜しまなかった。

3.全団員の取り組む姿勢
 良い演奏、心に残る感動の演奏とはどういうものか、とかく視野の狭い合唱団では自己満足に陥り易いが、その点をカバーするには、レコードによる名曲を聞くこと、初期の頃には50回に及ぶレコードコンサートをやった。又他合唱団の演奏を聞くこと。東京へ出かけて関東合唱祭へも二度参加した。一方、演奏上の妥協は許されない。厳しい練習に耐えること。時間厳守(5分前の精神)出席率によるステージへの出場停止、一人一人歌って個々の開発をするなど、他のお楽しみ合唱団では考えられないような試みがなされ、だんだん定着していった。あまりの厳しさに涙を流し練習に参加している姿も見られた。又この厳しさに耐えようとする団員の姿勢、役員の指導方針も効を奏していった。道楽の旦那芸やお嬢さん芸では、本物は出来ない。生命をかけてコーラスをしよう。仕事や家族と同等にコーラスを考えよう。「忙しい」「ごしたい」という言葉はこの合唱団では通用しない、といった風潮はその頃から醸成されていった。

4.連盟及び中央合唱界とのつながり
 関東合唱祭での講評は「遠路はるばるご苦労様でした」だけで大ショックであった。他の合唱団は発声がどうの、演奏がどうのと評されていたが、我々はそれ以前だったらしい。勿論まだ名も知られていないし、演奏も未熟だ。だから仕方もなかった。これならば、中央と何らかのつながりを持ち、立派な先生から直接指導を受け、吸収できるものはすべて吸収し、取り入れていこうと決心するものである。青木八郎氏(砂山合唱団)、内本実氏(中部理事長)をはじめ、私が県連理事長となる時期を同じくして、磯部淑氏、皆川達夫氏、高田三郎氏、大中恩氏、関屋晋氏、高野広治氏、村谷達也氏、清水脩氏ほかとの接触が出来、講習会や、合唱団単独で指導を受けることとなる。このことが、合唱団の実力をつけると共に、視野を更に広くすることに役立ち、いつも全国的な視野で物事を考えるようになったのである。

5.川口耕平氏
 良い演奏には、良い伴奏で思う存分歌い上げることである。私の教え子である川口耕平氏の伴奏はすばらしく、合唱団発展のきっかけを作ってくれた。彼を通じて一流の音楽家、中沢桂氏、栗林義信氏、坂本博士氏、平野忠考氏、芳野靖夫氏、田口興輔氏、伊原直子氏、常森寿子氏などと協演し、高い音楽性と、歌う喜びを感得し、演奏活動も次第に盛り上がっていった。その点でも川口氏の功績は、高く評価されるべきである。

 次にコンクールを時代で区分すると、次の様になる。
1.34年〜40年 県大会でいかに優勝し、中部大会に出場する。
2.41年〜43年 中部大会で上位入賞するようになったが、どうしたら愛知勢に追いつき、破ることが出来るか。
3.44年〜46年 全国大会で、幻の合唱団と言われないために連続出場したい。
4.47年〜50年 全国大会に安定しているが、銀賞の壁は厚い。
5.51年〜52年 力の限界か、中だるみか、道はまだけわしくて、遠い。
6.53年〜    姉妹合唱団、松本アルモニアの応援を得て、どうやら安定した地位を保持出来たが、今後どう乗りきったらよいか。
 以上のようにまとめられるが、今後に大きな問題を残している。
この反省録を、今後の合唱団の進むべき指針の参考にし、各人が本気になって合唱団の将来を考えて欲しい。

■岡谷合唱団のあゆみ
元相談役 林昭男氏(1981年 談) 

 長野県下で、岡谷合唱団は最も合唱連盟と深い関連をもち続けた合唱団である。
 県下で最初の合唱祭である「岡谷合唱祭」を昭和30年に発足、企画運営に当たった。昭和31年7月に岡谷合唱連盟を結成。これが合唱連盟に関係した最初であった。
 中央に眼を向けるため、昭和32年に関東合唱連盟に加盟し、関東合唱祭に2回出場。昭和33年には関東合唱理事長の津川主一先生からの依頼で、10団体以上の加盟を条件に、長野県合唱連盟を作った。朝日新聞東京本社にある関東合唱連盟に加盟手続きをすませた翌日、朝日新聞名古屋から「長野県は名古屋本社の管轄だから、東京に加盟させる訳にはいかない」とクレームがついた。朝日新聞名古屋本社から、企画部長が長野に派遣され昭和33年7月、現在の長野県合唱連盟を作った。このような経緯から、岡谷合唱団は翌34年から加盟し、第1回長野県合唱祭から行事に参加している。
 昭和35年9月、長野県合唱連盟の下に南信合唱連盟を作ることになり、すでに活動していた岡谷合唱連盟を核に据えた。その結果、役員は薩摩光三理事長、渡辺功副理事長、林昭男主事、小松登希男副主事など、岡谷勢が占めることになった。
 桜井誉人理事長の長野県合唱連盟は、朝日新聞長野支局に事務局があり、とかく北信中心になりがちだったが、岡谷合唱団は、常に全県を見据えた前向きな提言をし続けた。
 全日本合唱連盟の法人化を機会に、桜井誉人理事長は任期なかばで辞任され、昭和44年から渡辺功理事長、林昭男主事の体制となり事務局が朝日新聞長野支局をはなれた。県連運営が岡谷合唱団に任せられてから、県連の大改革を始めた。初めに手掛けたのは難問視されていた会費制度や維持会員制度であったが、県連の熱意と周囲の協力とによってスムーズに法人化することができた。また貧弱な県連財政は、その後の積極経営が功を奏し安定した。初の試みである合宿形式講習会は好評で、その後は連続して成功を納めることができた。理事長を出している故に、常に合唱団ぐるみの大動員がかかったが、こうした団の動きは、県全体のレベルアップのためにかなりの貢献をしたと自負している。当時の中部合唱講習会で他県はみな赤字で悩んでいたが、長野県だけは大幅の黒字で、余剰金を中部に還元して他県を驚かせた。
 中部合唱連盟での発言権が与えられてからは、中部の体質改善を積極的に推し進めた。手始めに従来、奇数年は名古屋、偶数年は他の6県持ち回りの中部合唱コンクールを、7県の完全持ち回り制にと提案。その第1回が45年の松本大会から実施された。
 一方コンクール審査員は、43年までは各県1名で、名古屋や中央から数名という人選だったが、全国レベルの専門家3名または5名にするよう主張。激論の末に、44年の福井大会から実施された。この大会に内本実、石井歓、高田三郎、磯部淑、山根一夫の諸氏が顔を揃えた背景にはこのような長野県連の発想の転換と執拗な努力があった。その成果が表れたのではあるまいが、この福井大会で岡谷合唱団は初優勝を飾ることができた。
 更に、中部では維持会員の獲得、ハーモニーの購読、母親コーラス大会への参加などで、常に他県を積極的にリードしてきた。例えば、維持会員の獲得数は全国目標の2倍、ハーモニーの購読実績は4倍、と他県を圧倒している。
 長野県の提案で中部7県首脳による合宿形式の交歓会も45年から実現。長く続いていた愛知、岐阜、三重の常任理事による常任理事会制度廃止などの改革は、52年に塩沢荘吉理事長に引き継がれるまでに、ほぼ完了し、中部合唱連盟には新しい風が流れるようになった。
 全日本合唱連盟はこうした積極的な岡谷合唱団の動きに注目、42年の日本の合唱の歴史演奏会初日最終ステージという重責を担わせた。また46年のハーモニー創刊号で岡谷合唱団を紹介するなど陰からの支援もおこたらなかった。
 県連事務局が長野市に移ったあとも、合唱連盟に対する前向きな姿勢が変わることはなかった。

■日本の合唱曲の歴史演奏会
元 団員 kawase(sakai)氏(1994年 談)

 創立20周年を迎えた全日本合唱連盟では記念行事として、昭和42年11月18・19日、東京新宿厚生年金会館大ホールで「日本の合唱の歴史演奏会」を開催した。

 これは、従来日本の合唱団は外国の合唱曲ばかり歌っていて日本の合唱曲をあまり歌わなかった。曲がなかったせいもあるが、戦後20年間に多くの日本人作曲家による名曲が生まれ、各合唱団は競って日本の合唱曲を演奏するようになった。そこで全国で盛んな活動をしているアマチュア合唱団28団体を選んで、明治以来の日本の合唱曲発展の礎石としようとする企画てあった。この輝かしい演奏会に岡谷合唱団は推薦され、第l夜11月18日の第9ステージを
     l.どしょっこふなつこ(岡本敏明曲)
     2.交声曲『不尽山を見て』(平井康三郎曲)
     3.ソーラン節(清水脩曲)で飾ることになつた。
 当時の岡谷合唱団は、団員120名余で中部コンクールでは東海メールクワイヤーに次いで2位。全国大会への夢をと頑張っていた頃で、この朗報に団員は一層はり切ったものだった。晴れの東京でのステージは気張らずに格調の高い演奏をしようということて参加者107名が現地集合。伴奏の川口先生とステージ練習を済ませて他の演奏を聞く。さすが、全国から選ばれた合唱団だけあっていずれも好演で聞きに来ただけでも充分満足できた。岡谷も大人数で余裕のある演奏は好評を博し、皆堂々と歌い上げた満足感で目に涙したものだった。『どしょっこふなっこ』はレコードに収録されて発売になった。フィナーレの全員合唱『さよならみなさま』は岡谷が再びステージに立ち、会場の聴衆とはなやかに歌ったのである。
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■知らめえ
渡辺功
・・・これまで日本の合唱界は、現象面での活動は甚だ盛んであったが、レパートリーの点では有名作品ばかりがくりかえし歌われている状態であった。ことにバロック以前と現代の諸傑作のほとんどが手をつけられていないことに対する反省にたってこの企画がなされ、合唱界の権威・皆川達夫・菅野浩和先生の監修によって協会員の指揮するアマチュア合唱団が推薦され、・・・こういう知られていない名曲を紹介しようというものである。
第一回の成功に続いて47年第二回が企画され・・・出演することになった。・・・
・・・
これは終わってからの協会員先生方の評である。ステージを降りたところで皆川先生の「ただ今のシュッツの神髄にふれたすばらしい演奏は、はるばる信州から参加してくれた岡谷合唱団でした。」との紹介に万雷のような拍手がおこる。10何年か前、日本青年館の関東合唱祭に20名で参加し「遠路はるばるご苦労様でした」と比べると、まさに今昔の感ひとしおでしばし涙ぐむのであった。
・・・48年第三回にも出演が決まっている。
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■創立30周年記念演奏会
指揮者 関屋晋
・・・3年前、初めて岡谷駅に降りるまで、50人を超える大合唱団で、全国的にも有名な岡谷合唱団の本拠地が、人口5,6万の小さな市だとは知らなかった。私は合唱団を基準に考えていて、大きな合唱団があるところは大きな町にちがいないと思っていたから、駅を降りた途端、これが本当に岡谷合唱団の町かと驚いて、・・・
先日、30周年記念演奏会なのでOBと歌を歌えるステージを作りたいということで、練習に行ってみると、現団員数以上のOBが集まっていて練習用の楽譜が足りないとか、演奏会当日はステージに並びきれるだろうかという嬉しい悲鳴を役員たちが上げていた。この団結力、この愛情が30年続いたのだろう。私の今までの経験からいって、OB合同のステージを企画しても、団員に色を添えるというか、OBが入っているナという感じの人数が普通で、倍の人数になるなんてことは全くなかった。他でも見たことも聞いたこともない。岡谷合唱団のOBはすばらしい。こういう人達が団を支えてきたのだろう。・・・
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■第47回定期演奏会 創立50周年記念
常任指揮者  関屋晋
・・・大分前,岡谷合唱団から電話があって,「ウィーンに行くのだが,指揮をしてくれないか?」だったと思うのだが.私はピンチヒッターのつもりで引き受けてウィーンに行ったことがある。
 なんでも,長野に新しいホールが出来て,ウィーンのムジークフェラインホールとが姉妹関係を結ぶことで行くことになったらしい。
 ムジークフェラインホールと言えは,毎年あの「ウィーンフィルのニューイヤーコンサート」が行われているところである。私達はその中の「ブラームス・ホール」というホールで,記念の演奏会をしたのである。私にとってはいろいろ思い出のあるホールだったので,とても楽しい演奏会だったことを覚えている。
・・・
 帰ってきて,続けて指揮をしてくれないかと言われたのだが,その中で忘れられないことは,長野で行われた「アジアカンタート・イン・ナガノ」だ。そこで歌ったのが,今日「思い出の曲」として歌う青島広志さんの「にわのことりが」が入っている「マザーグースの歌」だったし,「小さな空」は毎朝みんなで歌った中の1曲だ。
 その後,カノラホールも出来たし,松本の「サイトウキネン・オーケストラ」との合同演奏に参加できるようにもなった。
 ほんのピンチヒッターと思った私が,こんなに澤山思い出を貰って申し訳ないが,「岡谷合唱団」が更に飛躍して欲しいと願っている。

■第47回定期演奏会 創立50周年記念
元岡谷合唱団常任指揮者 渡辺功   
 私は昭和30年(1955年)から56年までの26年間、常任指揮者を務めました。すなわちその期間は合唱団にとって草創期と発展期に当たると思います。
 昭和30年代前半は、諏訪湖周辺に小さな合唱団が10団体くらいあり、群雄割拠敵でレヴェルもあまり高くない状態でした。そこで、よそ者の私の発案で大同団結し、ひとりの指揮者の下で大きな合唱団にしようと誕生したのが岡谷合唱団でした。こうなると希望は膨らみ、大きな宗教曲にも取り組み本格的な活動が始まりました。また、県内各地から優秀な団員が集まり、技術的にも向上して参りました。
 30年代後半からコンクールに挑戦し、40年代は宗教曲をメインとし、オペラや法人作品組曲、さらに愛唱曲を加えた定期演奏会の定番が確立しました。また、コンクールに団員こぞって情熱を燃やしたのもこの頃です。
 これが合唱団の発展期となりましょうか、このさ中に私が指揮者を退くことになりました。
 あれから20余年、世情も合唱界も大きく様変わりしました。私の合唱指揮者生活は来年で60年になります。この時機に古巣で棒を振るのは何かの因縁とでもいうのでしょうか。

■第47回定期演奏会 創立50周年記念
岡谷合唱団代表・指揮者 佐原武  
・・・
 本日、昭和30年から56年まで常任指揮を務められた渡辺功先生、57年から平成14年まで務められた関屋晋先生を、また、信州大学混声合唱団の有志の皆さん、県内外で活躍されている松本室内合奏団の皆さんをお迎えして、記念演奏会が開催できますことは、合唱団にとりまして至上の喜びであります。・・・

佐原武氏
1961年、岡谷合唱団指揮者の渡辺功氏の勧めで入団、以後パートリーダー、技術部長を歴任。1981年、関屋晋氏を常任指揮者に招くと同時に岡谷合唱団の団内指揮者となる。2001年関屋晋氏の退任ののち岡谷合唱団の正指揮者となる。声楽を吉江忠男、久米聖一、指揮を渡辺功、関屋晋の各氏に師事。

この「第47回定期演奏会 創立50周年記念」では、父・比左志の編曲が採用された。これはsawara氏からの恩恵であり、他の合唱団の演奏会でも採用してくださった。
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岡谷合唱団の長い歴史のなかでは表にも裏にも現れなくても、裏の裏では連綿と、父・比左志の東京での活動と岡谷合唱団とが複雑に絡み合っていると言っても過言ではなく、岡谷合唱団の東京出張所のような体を成すこともある。父・比左志の先輩後輩や恩師がいる岡谷合唱団と、岡谷合唱団側から長野県合唱連盟や全日本合唱連盟を通して築いた実力指揮者や作曲家とのつながり、東京での父・比左志の活動とそれに連なるつながり、それらがトライアングルをなして交錯している。
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(記2016.06、改2023.12)


五味比左志〜合唱とともに〜