閉じる
比左志の軌跡3〜父・五味比左志の出身地・岡谷と関わりのある合唱団〜(混声合唱団「せせらぎ会」/やまびこ男声合唱団/ノッホ・アインマール男声合唱団)



旧制岡谷中学校ならびに岡谷南高等学校の創立50周年記念式典が平成3(1991)年10月20日に行われた。岡谷工業高等学校では、創立80周年記念式典が前日の19日に行われた。
南高の式典に併せた記念行事として、当時活躍目覚しかった南高男聲合唱の出演要請を受け、20人で出演し演奏会も行われた。岡谷南高校五十年史によれば、音楽クラブの最盛期は昭和33〜37年度と記されている。これは、渡辺功氏の同校在籍が昭和29(1954)年から37年度(1962)までであることから、渡辺功氏の功績と言っても過言ではない。
これを機に岡工OBも加わり名簿を整理し、時々集まって親睦会ならびに合唱を楽しみたいという希望が揚がり、岡工・岡南OB男聲合唱団を発足し、親睦会や練習が進められた。名簿は、岡工が昭和28年度卒〜39年度卒、岡南が昭和34年度卒〜40年度卒の約130人分であった。
okaya-30781
okaya-30784

岡谷工業高等学校の昭和28年度卒の大先輩に、昭和29年に当地に設立し混声合唱団「せせらぎ会」の常任指揮者であるtakagi氏がいる。せせらぎ会でもやはり、岡谷に合宿に来る大学サークルと関わりを持ち、なかでもおそらくは明治大学グリークラブだと思われるが、昭和36年の演奏会に賛助出演、昭和37年の演奏会は招待されて東京の共立講堂で合同演奏会を行っている。
このようにしたtakagi氏と明治大学との接点から、父・比左志と明治大学G.H.V.Gや田中佩刀氏との接点へと、つながるのか、否、つながらないのかはわからないが、見えない糸があるように思える。明治大学G.H.V.Gの設立は昭和38年、父・比左志が指導を始めたのが昭和43年であろう。

渡辺功氏が1945年から合唱の指揮指導を始めて50年を迎え、50周年記念演奏会をかつての合唱仲間で開催する企画が、当時氏が常任指揮をしていた混声合唱団「松本コール・クンスト」の団長より平成7年2月に岡工・岡南OB合唱団に寄せられた。3月5日が返答の期日であるため急ぎ情報が回され、父・比左志の元には2日24日にFAXが送られてきた。そうして松本コール・クンストを中心として各団から171人が集まり、平成7(1995)年11月18日に演奏会を、18日にレセプションを催した。

渡辺功氏指揮者五十周年記念演奏会で岡工・岡南のOBが集まったことをきっかけにして「渡辺賢二・功両先生を囲む男声合唱の集い」を企画する。その主旨は、@諏訪地方に合唱音楽の種を蒔き、私達を育ててくれた渡辺賢二・功両先生のご指導に感謝する気持ちを、演奏会の形で顕す、A昔懐かしい男声合唱の素晴らしい響きを、仲間が集まって復活させる。

両校の音楽クラブOBは全国に三百人以上おり、公演に出演できそうな人に声をかけ、76人が参加した。

この「男声合唱の集い」は、岡工・岡南OB男聲合唱団を発足させた後にかなり具体的に企画されていた「渡辺両先生をかこんで 男声合唱の夕べ」が発端となっている。
okaya-31640

この企画で、首都圏にいるメンバーの窓口(事務局)を父・比左志が担う。この「男声合唱の集い」の企画がやまびこ男声合唱団の発足につながり、平成9(1997)年8月23日に演奏会が開催された。この演奏会に向けて、東京近郊に住む十数人が自主練習をしたのがきっかけとなって同時期にノッホ・アインマール男声合唱団も発足する。よってノッホ・アインマール男声合唱団の第一回演奏会は、父・比左志が倒れたと知れ渡ってから演奏会開催まで一週間であったが、渡辺功氏が指揮を振り、岡谷から多数が応援に駆けつけ開催された。身内の一大事としての心情からであろう。
okaya-31912


岡谷市は、富岡製糸場のある富岡市と姉妹都市であり、生糸の生産では群馬を抜いていた時期が多い。そのようにして明治以降は製糸産業で栄えたが、価格の暴落以後は次第に、製糸産業で用いた建物を利用して別の産業に転換していった。戦時期はそれら建物が軍需産業に当てられた。大戦後はそれらが製造業へ精密機器工業へと変化した。
地方の小さな町といえども、やはり蚕糸製糸で栄えた町である。というのは、東京や、ときには海外に目を向けてきたことのある歴史から、ただの田舎ではなく、商業や教育や文化では先行地なのだと考える。
もともとは中山道なり東山道なりで中央(奈良・京都、江戸)とつながる地であることは、筆者当地の群馬県も同じである。群馬県も養蚕の地であり製糸織物の地である。岡谷合唱団がというより、諏訪圏域の人たちが中央(東京)を見て素養を培ってきたものだといえる。
諏訪は精密機器の地となり、愛知県豊橋市は玉糸製糸の産地で、織機を製造販売していたのがトヨタになり、パチンコが名古屋と群馬県桐生市とに縁が強かったり、こうして各地のその後の発展が、蚕糸製糸と無関係だったとはいえないのだと思う。群馬県下の富士重工業は元は航空機製造でありルーツは異なるが、富士重工業の前身の中島飛行機が解体された折には、桐生や伊勢崎などの繊維産業が周辺にあったことから、戦後はニット編みが盛んになった。こうして、長野と愛知と群馬には近しいものを感じている。
商業に次いで教育についてだが、少子化や学校経営上の課題や予算や地域経済の停滞や地域人口の変動によって学校の存続が左右され地域差があるので多くは述べないが、私観ではあるが、私立公立を問わず、女子高校の存続の長さがその地の教育の熱心さに現れると筆者は考えている。

渡辺賢二氏にしても渡辺功氏にしても音楽を専攻して勉強してきたわけではない。それでも、新任の教員が取り組み始めた合唱活動のレベルは高かった。団を牽引していくためには音楽の知識も技術も相当必要で、全国レベルに追いつくためには諏訪の地にいては事足りず、織田信長が全国を見据えて京を目指したように、父・比左志が自身の向上を目指して東京に向かったのは、当然の道理であったのだろうと推測する。
このようにして岡谷と東京で、父・比左志の合唱活動と合唱にまつわる仕事が渾然一体となっていた。この岡谷での父・比左志の足跡は、その後の活躍を理解したうえでなかったならば、取りこぼしが多くて理解が十分にできなかったように思える。
こうして筆者(息子)が群馬に住むようになったのは、この地に呼ばれたのだと思っている。首都圏に住んでいたら、また、遺品を一つひとつ精査していなければ、あるいは齢を重ねていなければ、ここまでの理解が増さなかったであろう。
okaya-33000

(記2016.06、改2023.12)


五味比左志〜合唱とともに〜