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比左志の軌跡5〜明治大学グリーン・ヒルズ・ヴォーカル・グループ/相模女子大学合唱部



遺されているものは演奏会に関するものばかりであり、このページの記述は、確証のない推測の域も多いことを承知願います。補完情報となった唯一のものは、明治大学グリーン・ヒルズ・ヴォーカル・グループ会のHPによるものです。

グリーン・ヒルズ・ヴォーカル・グループ(G.H.V.G)は、生田校舎で学ぶ学生によって結成された。
明治大学といえばグリークラブが有名なのでそちらを説明すると、昭和25年に、交響楽団の合唱部として結成されたのが明治大学混声合唱団であり、常任指揮者の二俣松四郎氏を迎えて独立したのが明治大学合唱団である。その後、女声部の数に比べて男声部が多くなり、昭和34年には男声部と混声部の両方を行うようになったが、いろいろな困難から男声部は昭和36年にグリークラブとして正式に独立し、混声合唱団とは別々に活動するようになった。
明治大学G.H.V.Gの設立は昭和38(1963)年、発足は1964年であり、父・比左志が指導を引き受けたのは昭和43(1968)年からであろう。
その前年の昭和42(1967)年12月11日の明治大学混声合唱団第16回定期演奏会のパンフレットが遺されており、やはり何かしらの人脈があったのだと推測する。

さつき合唱団の発足は昭和41(1966)年5月である。母(元・五味夫人)は「yumoto氏はまだ明治の学生で、さつき合唱団に引っ張ってきた」と言っていたが、時間経過に齟齬がある。そのyumoto氏は昭和42年度の卒業(1968年3月)であり、yumoto氏卒業の次年度から指導を始めることになってしまう。
キー・パーソンはyumoto氏であるかもしれないし、別ページ(比左志の軌跡3)にも記したように混声合唱団「せせらぎ会」の常任指揮者であるtakagi氏もキー・パーソンであるかもしれないし、1968年12月8日の村谷夫妻によるピアノ声楽勉強会に出場していることから村谷達也氏もキー・パーソンだともいえるが、この関連性を紐解くことはできなかった。

明治大学G.H.V.Gでは、父・比左志の以前にすでに三名の指導者が招かれていた。

■ジョイントコンサート1回(1971.12.10.PM6:30、於・青山タワーホール)
DSCOVER G・H・V・G.(抜粋)
・・・生まれはやはり昔、昭和38年、・・・名付け親を田中佩刀と申しまして・・・
メッセージ(抜粋)
明治大学教授、会長:田中佩刀
グリーン・ヒルズ・ヴォーカル・グループ(緑ヶ丘の合唱仲間)が、麻田君らを中心とする人々の手によって創立されてから、かれこれ10年近くなります。学外から、木村雄先生、小菅八重子先生、本間雅夫先生、五味比左志先生、と優秀な指導者をお招きして、地道に練習を設けてまいりました。
明大生田校舎には工学部と農学部の学生諸君が勉強しているのですが、女子学生の数が少ないため、今までは主として男声合唱を練習しておりました。所が数年前から、相模女子大学合唱団の皆さんと合同練習ができるようになり、混声合唱も可能になりました。
・・・


相模女子大学合唱団と明治大学G.H.V.Gの交流は、明治大学教授の田中佩刀氏の紹介で始まった。昭和43(1968)年に相模女子大学で審議されたようすがうかがえる。
父・比左志が相模女子大学合唱団の指導も引き受けたのは昭和46(1971)年からである。

■ジョイントコンサート1回(1971.12.10.PM6:30、於・青山タワーホール)
衝撃の告白!秘・相女・G・H・V・G.交流史(抜粋)
田中先生の紹介で始まったこの交流も、今年で早や四年、・・・
一年目、相女の教授会に於て「交流は是か非か?」協議、、G・H・V・G.をグリーと誤解の上即承認、・・・
二年目、大学紛争で半分空白。
三年目、演奏会について論議混沌。・・・相女の定演にG・H・V・G.賛助出演。
四年目、G・H・V・G.指揮者相女を兼任。


相模女子大学合唱団では、父・比左志の前は早川史郎氏が指導していたと思われる。昭和45(1970)年の論議混沌があったとされる相模女子大学合唱団5回演奏会では、明治大学G.H.V.Gが賛助出演し男声合唱のみのステージで父・比左志が指揮をしている。明治大学G.H.V.Gにとっては発足以来これが初めてのステージでの演奏であった。


相模女子大学合唱団では、相模女子大学教授の玉木博氏が1965年以前から顧問として関わっている。早川史郎氏は、子どもの歌や遊び歌を通しての伴奏や音楽表現の指導法を専門としている方なので、幼児教育分野での講師か助教授か教授であったのだろう。
講師・助教授・教授のいずれにしろ、自らがサークルの指導を定期的に行うのは難しいだろうことは、明治大学教授の田中佩刀氏のメッセージから読み解くとわかる。そのことは下記で記す。だから田中氏は明治大学G.H.V.Gの会長であり、玉木氏は相模女子大学合唱団の顧問なのである。
そのようななかで明治大学との交流を持ち、相模女子大学合唱団の演奏会に賛助出演したことによりちょうどいい指導者を見つけたということで、指導を依頼されたのかもしれない。それが、父・比左志の相模女子大学合唱団の指導が昭和46(1971)年から始められた背景であると推測する。そして、指導は昭和51(1976)年度までであった。

■相模10回演奏会パンフ(1978.11.25)
メッセージ(抜粋)
合唱団顧問:玉木博
今回で、定期演奏会も10回を迎える事になった。合唱団とは、第1回定期演奏会以前からの付合いであるが、一昨年までは顧問として一歩離れた立場にあった。しかし、昨年から、指揮者として毎回の練習に共同体として行動を共にする事になり、つくづく思う事は、自分の音楽を合唱団員と共に表現する事の難しさである。それは、音楽をする心と、それを表現する技術の問題である。合唱団は、一つの生命を持った存在であり、生命のかよった心を持っているのである。その心と指揮をする者の心との一体化と、その心を表現する技術を養うことで、練習時間の大半をとられている。合唱音楽において、まず第一に、技術ではなく、音楽的感覚が問題であるとか、また、合唱指揮者と合唱団のありかたが最も重要なのであるとか言ったことは、当然な事である。 しかし、多かれ少なかれ、演奏することに存在する技術的な欠陥から、技術の必要性を無視する考え方が起こるならば、いくら、音楽的感覚を問題にしても、無意味なのである。確実な技術的能力という基礎の上に、はじめて音楽的感覚は豊かな実をむすぶことができるのである。しかし、現実にこの技術の習得には、時間と忍耐を必要とするが、徐々にではあるが、その成果が表れてきたことを喜んでいる今日、この頃である。更に、明治大学G・H・V・Gの諸君とは、夏の合宿から合同練習を始め、まだ日は浅いがその真剣な態度に敬意を表したい。
「最初からよくない合唱団があるわけでは決してない。ただ、よくない合唱指揮者がいるだけである。」この言葉を、私の心に命じ、少しでもすばらしい演奏会にしたいものである。
・・・
最後に、合唱指揮の第一人者である関屋先生から合唱指揮について、大変な勉強をさせて頂いたことを感謝しております。

相模女子大学では父・比左志に数年指導をさせてみたところだが、玉木氏とに音楽や合唱への考えの相違があったと解釈するのが妥当であろう。ここで関屋晋氏を持ち出すところが憎らしくこれ見よがし感がする。
別ページにも記すが、岡谷合唱団では1981年から関屋晋氏を常任指揮者に迎え入れている。その後2001年からは関屋晋氏の後任を、父・比左志の後輩のsawara氏が引継ぐ。sawara氏は父・比左志のCDを製作してくださった人である。人脈関係が入り乱れている。

合唱における個人レベルでの向上と団レベルでの向上、そして団の運営に父・比左志が苦悩してきたことは、さつき合唱団の機関紙から読み取れている。決して未熟さに甘んじていたのではなく、音楽を合唱を楽しく作り上げる仲間作りをメインとする指導に移っていったのだと推測する。さつき合唱団の活動から遠のき、学生サークルの指導に力を注ぎ、それもやがては挫折し、合唱活動自体から遠のいていったのだと思う。だから、退任後のさらに二年後の相模女子大学合唱団演奏会まで連続で聴きに行っており、玉木氏がどのような合唱を作り上げていくのかに興味津々であったのではなかろうかと感じる。さらには、10数年後のさつき合唱団30周年ミニコンサートに向けて記した『合唱団の目標としていたのは、ある程度高い水準の音楽を求めていたのは事実ですが、私個人としては、それに歌う仲間を大切にしたい、集いを楽しみ、楽しい合唱団にしたいと願って合唱団を育てて来ました。』という思いにつながるのであろう。

相模女子大学合唱団のあゆみ(抜粋)
1962年、相模女子大学合唱団発足
1963年、クラブ連合所属
1964年、常任指揮者を迎える
1965年、第1回定期演奏会
1966年、第2回定期演奏会
1967年、第3回定期演奏会
1968年、定演中止(学園紛争の為)
1969年、第4回定期演奏会(相女高等部声楽部と合同ステージ)
1970年、第5回定期演奏会(明治大学G・H・V・G.賛助出演)
1971年、第1回明治大学G・H・V・GとのJoint Concert
1972年、第2回明治大学G・H・V・GとのJoint Concert
1973年、第3回明治大学G・H・V・GとのJoint Concert
1974年、第6回定期演奏会
1975年、第7回定期演奏会
1976年、第4回明治大学G・H・V・GとのJoint Concert
1976年、第8回定期演奏会
1977年、第9回定期演奏会
1978年、第10回定期演奏会(明治大学G・H・V・G.相女高等部声楽部賛助出演)
1979年、第11回定期演奏会(明治大学G・H・V・G.賛助出演)
・・・

明治大学G.H.V.Gのあゆみ(抜粋)
1964、明治大学グリーン・ヒルズ・ヴォーカル・グループ発足
1971.12.10、第1回ジョイントコンサート、於・青山タワーホール
1972.12.9、第2回ジョイントコンサート、於・青山タワーホール
1973.12.8、第3回ジョイントコンサート、於・青山タワーホール
1975.1.11、第1回定期演奏会、於・科学技術館ホール
1976.1.10、第2回定期演奏会、於・安田生命ホール
1976.6.25、第4回ジョイントコンサート、於・新宿安田生命ホール)
1977.1.14、第3回演奏会、於・砧区民会館
1978.1.15、第4回演奏会、於・砧区民会館
1979.1.14、第5回演奏会、於・ヤクルトホール
1979.6.23、、四大学合唱連盟第1回コール・ブリューデン定期演奏会、於・日本教育会館ホール
1980.1.11、第6回演奏会、於・中野文化センター
1980.6.21、四大学合唱連盟第2回コール・ブリューデン定期演奏会、於・日本教育会館ホール
1981.1.17、第7回演奏会、於・砧区民会館
・・・

父・比左志の両団の指導期間
明治大学G.H.V.Gは1968年〜1980年春まで
相模女子大学合唱団は1971年〜1977年春まで
ちなみに、さつき合唱団創立は昭和41(1966)年、さつき合唱団第1回演奏会は昭和43(1968)年で、その第1回の進行表が、第1回明治相模ジョイントコンサートのパンフに挟まれ遺されていた。参考にしたのだろう。また、演奏会のその時々では何を聴いていたのかを、別ページ(ラジオ番組録音年表)で参照しながら思いをはせてみてもいいかもしれない。
両団ジョイントコンサートの開催を続けることで第4回では、OB合唱団である相明合唱団を立ち上げた。このときOB合唱の実質は演奏会に向けた活動しかできていなかったが、資料によると週によっては、明治、相模、合同、OBと4ヶ所を指導してまわっていた。


精力的に活動してるが、順風満帆ではなかった。さつき合唱団が昭和46(1971)年6月の<知られざる名曲をたずねて>連続合唱演奏会に出演する前後で、父・比左志の目指すものに変化が生じている。
それは、さつき合唱団の課題が発声にあるとして発声を中心に練習したことでハーモニー作りはあまりできず、昭和44年のコンクールでは音程が安定せずつられて移調してしまうという失敗も経験する。さつき合唱団団内機関紙(No.18-1970.01)で、『さつきのような少人数では透明なハーモニーを作る事はなかなか難しい』と感想を述べている。
そして、昭和47年以前のどこかの時点で、父・比左志の話では学生の指導をしていてということだが、真偽はともかく、無理な歌い方をしていて声をつぶしてしまった。

さつき合唱団第5回演奏会まではバスで出場しているが、第6回(昭和48.03)からはテノールに転向して出場している。
そもそもは、高校の音楽クラブではパートは3rdと表記されていたので、この変遷がよく判らないのだが、テープに残されている声を聞くと、人前結婚式(昭和44)のときは元の声(つぶす前)であり、だけど声質はそれほどバスらしい声ではないように思う。それが、昭和50(1975)年7月26日のラジオを録音していたときに電話が鳴って話していた声では、すでにつぶした後の声である。出せる音程域が狭くなり、その声もすぐに疲れて出なくなるようで、満足に歌えなくなった。
さつき合唱団の演奏会には第7回(昭和49.03)までしか出場していない。そんな声になったからか、自身の合唱活動よりも学生の指導に心血を注ぐようになったのだと推測する。昭和51(1976)年中は、明治第2回演奏会・第4回ジョイント・相模第8回と三つの演奏会を開催し多忙を極めた。
演奏会パンフの指揮者紹介では、気さくだとか暖かさだとかを記述され、団内機関紙では自らも、やさしく温和しく見られるとか記述してしまうのは、外面とかだけではなく素質は実際にそうなのであろう。しかし、別ページ(五味比左志について)で記したように家庭では感情を爆発させることが多々あった。自身の度重なる挫折とともに仕事をして一家を支えなければならない状況に対峙して、母(元・五味夫人)は自宅近くの音楽教室で個人レッスンを受け続け、それから合唱団を立ち上げて自らの合唱活動を再開させることに、ねたみ苛立つことも増えていったのかもしれない。そうして父・比左志は引き換えのようにして仕事にのめりこみ、写植や印刷の仕事を通して合唱との関わりを深くしていったのかもしれない。

30歳台半ばでこれほどのことをしており、その裏付けとなる知識も技術も短大以上のレベルではなかろうかというのは、遺品を読み込むほどに感じる。父・比左志退任後の、明治大学G.H.V.G第7回演奏会では6回演奏会を真似てか、作曲家からのメッセージを取り寄せたりポピュラー曲を歌ったりしている。ここまでは真似できても、楽譜は他の合唱団から調達したようで、さすがに指導者自らが編曲し書き下ろすことはできなかった様子である。
自身の歌うことや合唱団を育てることに満足のいく結果が得られなかったのだとしても、父・比左志が、高校生のころから音楽に関しては半端ではない程の勉強と努力をし、時間を惜しまずに事に当たってきたその姿勢は、並みのアマチュアには真似のできないことであっただろう。私(息子)自身の人生を振り返っても、やはり父・比左志とは似たもの同士なので、そのように感じる。
演奏会パンフでの曲目紹介の記述も、調べればこのように書くことができるであろうが、それにしてもよく調べたものであり、今のように情報にあふれているわけではない頃に、情報の出典元を探すことができるということであり、よく知っているなと思う次第である。村谷達也氏からの教えによるものだろうが、作曲者にコンタクトをとるほどに極め、曲調も詩の内容も十二分に理解しようとする姿勢と、それだけではなく、自らが編曲も行って団を指導し指揮し、演奏会ではステージ演出もこなし、ときにはこれらパンフやポスターのデザインも手がけるなど、その情熱とマルチぶりには、演奏会パンフで学生が他己紹介しているように、脱帽に値する。

学生を指導することをやめてから十数年経ち、今度は私(息子)が大学の合唱サークルの演奏会に出場するのでそれを聴きに行った。大学生の演奏会ということで、十年などあっという間、ちょっと前のことであっただろう。父・比左志の心境はワクワクであり、暖かく見守り、やはり血筋だなと思っていたに違いないと推測する。

■四大学合唱連盟第2回コール・ブリューデン定期演奏会(1980.6.21、於・日本教育会館ホール)
男声合唱組曲「はじめに青い海があった」
木村文男氏が1980年9月の半ばから指導をしていることから考えると、この演奏会では名は記載されてはいるが、父・比左志は、指揮をして出場したのか?、それとも出場するつもりで出れなかったか?、わからない。だが、この時期に何かがあったのは間違いないだろう。そして父・比左志は退任する。

どのような経緯で指導を引き受けたのかも、そして何をきっかけにして指導から身を引いたのかもわからない。わからないが、退任する頃の心境を推し量ることができる。

■明治7回演奏会(1981.1.17(土)、於・砧区民会館)
御挨拶(挨拶)
・・・今年は、部員数も40名近くなり、指揮者に木村文男先生をお迎えして、昨年より少なくとも一歩前進した状態で、今宵、皆様にお会いできると信じております。
最後になりましたが、この演奏会を開催するにあたりまして、昨年まで御指導下さいました五味比左志先生はじめ諸先生、賛助出演して下さる相模女子大学合唱団の方々、ポピュラー・ステージの楽譜を提供して下さった早稲田大学コール・フリューゲル、慶応大学ワグネル・ソサイティー、東北学院大学グリー・クラブをはじめ関係者の皆様に厚く御礼申し上げると共に、今後ともより一層の御指導を賜りますよう心から御願い申し上げます。

常任指揮者:木村文男
・・・私とG・H・V・Gとの付き合は、昨秋9月の半ばからと、まだ短いもので、・・・音楽的にはまだまだという段階で、発声ひとつとっても、克服しなければならない問題が、多々あります。・・・
木村文男氏は声楽家・合唱指揮者であり、1977年まで慶應義塾ワグネル・ソサィエティー女声合唱団で指揮をしている。
木村文男氏は、四大学合唱連盟コール・ブリューデン定期演奏会では第1回2回とも、「東京理科大学グリークラブ」で出演指揮している。演奏会パンフでのプロフィールには『つい先頃まで、ワグネルの女声で、指揮をなさっていらっしゃいましたが、今はビクター少年合唱団の指揮者として、北村協一氏と共に御活躍中』とある。
ちなみに、玉木博氏も声楽家・合唱指揮者で、日本声楽発声学会会員である。

プロの両者から見れば、声をつぶしてしまう父・比左志などは「まったくなってない」と素人視していたことだろう。
そんな八方塞の挫折感が漂っていたかもしれない父・比左志にも、救いの一筋の光が見えたのではないか、そのような気がする。

会長:田中佩刀
所感(抜粋)
何十万、何百万というお金をかけて素晴らしい音響装置を拵えて音楽を楽しんでいる人たちが有るが、あの人たちの楽しんでいるのは、音なのか、音楽なのか、と思う。
・・・勿論、再生の音質が良ければ良いほど、いいに決まっているが、・・・
とまあ、金の無い者の負け惜しみを言いつつ、雑音の多いLPやテープを聴いたり、テレビのリサイタルに見とれたり、自分で楽器を鳴らしたりして、音楽を楽しむ毎日である。
田中佩刀氏の人となりを各演奏会パンフから読み解いてみる。太平洋戦争が終わったときは高校生で洋楽(クラシック)を貪るように聴き、田中氏の父の友人の梁田貞氏について声楽を学んでいる。大学の勉強が忙しくなりその後社会に出て、自分で歌うことなどなくなったが、いつも音楽を聴いて暮らす生活をしていた。自身で西洋音楽の愛好者と申し、ピアノ演奏もこなし、ドイツ人の友達の紹介で、西ドイツの指揮者ハンス・ドレヴァンツ氏と夫人が来日された際には約1ヶ月にわたり家族ぐるみでお付き合いもしている。田中佩刀氏の専攻は、江戸時代の儒学、俳文学、語源研究だが、そのような氏だから頼まれるままにG.H.V.G発足時から会長を引き受け、初期には学生の練習に顔を出すこともあったようだ。

そのようなバックグラウンドのある田中佩刀氏のこの第7回演奏会に向けての所感は、意味深である。
発声が良いに越したことはないが、「音」ではなく「音楽」であり、「音楽を楽しむ」ことを求めるのだと表出したと解釈する。そのことは第6回演奏会でのメッセージで『日本の洋楽の歴史を顧みるとき、・・・今までの洋楽教育が、楽譜を演奏するための教育であって、音楽を必ずしも教育しなかった』と記述していることからも裏付けできるだろう。

「歌うとは何か」。その本質を問いかけるのは、明治第1回演奏会の曲目の選択からして現れているように思う。曲目紹介で、ビートルズ曲集については『ジョン・レノンはかつて「僕らの音楽を理解している人は世界に百人といない」と語りました』と引用して代弁し、黒人霊歌については『家畜にも劣る虐げられた生活の中で彼等を救ったのは、生活の中に存在する歌であった。何の望みもない生活の中で彼らは救世主の現れるのを夢見、そして神への救いと祈りとをこめて生まれたのが、黒人霊歌である。(要約)』と説明して歌は生活の一部なのだ言い、月光とピエロについては『この曲は敗戦の混乱時に作曲されたもので、堀口大学のピエロをうたった詩を集めています。そして、深い悩み、遂げられぬ恋、耐えがたい絶望。 ピエロはそれでも異様な衣装に身をつつみ、真白く顔をぬりつぶし、こっけいな身振りと笑顔をつくり舞台に立たなければならない。ピエロならずとも、人間はいつの時代でもこのような悲しい一面を持っているのではないだろうかと氏自身書き添えています。(抜粋)』と、『人々は明日の糧を求めてさまよい絶望のふちに立たされても(第5回演奏会曲目紹介から抜粋)』伝えたいこと訴えたいことを歌で表現することを目指したと解説したようである。

それに応えたかのように田中佩刀氏からのメッセージでは、明治第2回演奏会から『音楽は誰にも通ずる言葉であり、音楽を愛する心は、人と人とを固く結びつけると思います。』、明治第3回演奏会から『音楽に結びつく思い出は懐かしいし、思い出に結びついた音楽は美しい。』、明治第4回演奏会から『音楽を聴いて浸る時間は私の最も幸せな時間になっている(要約)』、明治第6回演奏会から『演奏技術の職人は生まれても、今なお音楽家は少ない』、と言葉を添えている。だからこそ第7回演奏会でのメッセージか意味深に受け取れる。

音楽ではなく画家の古澤潤氏の言葉です。『もともと絵を描くということは人間の持って生まれた活動なのです。言葉もちゃんと話せない、もちろん字も書けない幼児がクレヨンで書く線は、人間の活動の原点であり、外に向けての最初の意思表示とも言えるのではないでしょうか。みんな小さいときは絵を描いてきたのに、いつの間にか遠ざかってしまいます。障害のある人も同じではないでしょうか。絵を上手に描かせるという気持ちは持ちたくないものです。「なにものにも縛られず自由に表現することのすばらしさ」なのです。』
障害を持つ人が描いた絵を長きにわたって見てきた氏の言葉は、その絵を描くという活動の原点を見ようとしていると言え、これは先の田中佩刀氏のメッセージに通じる。

明治大学G.H.V.Gも相模女子大学合唱団も、父・比左志の退任後の活動記録を読むと、コンクールで上位を目指すような団に質的に変化していったように見受けられる。芸術分野に限らずスポーツにしても何にしても、人と競って上達することを目標とする人もいれば、楽しみや喜び、充実感やリフレッシュ感を求めている人もいる。そうした自己実現が趣味の活動である。
昭和56(1981)年度にPTAのママさんコーラスを半年ほど指導したことを例外として、昭和54(1979)年度までで指導をする立場から退いた。指導を辞めたというのは関屋晋氏の真似をやめたということにつながり、合唱活動から身を引いたことの背景だと推測する。
音楽を、趣味で行う人と仕事で行う人とでは隔たりがある。別のページで父・比左志が関屋晋氏に憧れていたのではないかと記したが、この1980年前後ではもう別の道、つまりは音楽を趣味で行う以外では写植や印刷といった仕事を通して行うことに突き進もうとしたのだと推測する。1979年9月に、北区のアパートから荒川区の新築マンションに事務所を移転させる。1982年4月14日に契約発注した写植機PAVO-JVが同年8月17日に納入され、480万円の返済のためにも仕事に精を出すということでもあり、こういった経緯から仕事が忙しくなり週末にしか自宅に戻らない生活になった時期と符合する(これらも別ページに記述)。

それから10年も経たず、母(元・五味夫人)は私(息子)を音楽の学校に進ませようと推していた時期があったが、私は早々に「音楽は趣味だ」と言い放った。父は何も言うことはなかったが、内心では苦笑いしていたのかもしれない。
10年も前の記述(比左志について)をネットで取り上げてくださった人もいるが(子が親を語る…2つの例、https://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-018f.html)、遺品を見続けていたら別の解釈や推測が「天から降りてきた」ように現れ、今また別の思いが湧き出たことをこのサイトに書き込んでいる。

下記は学生からの他己紹介である。自分でも経験があるが、演奏会パンフの記述は、少し言い回しを変更するくらいで毎年使い回しである。なので、一番最初と最後を記載する。

■ジョイントコンサート1回(1971.12.10.PM6:30、於・青山タワーホール)
指揮者プロフィール(抜粋)
五味比左志
私達合唱団員が常日頃の練習中に感じて居る指揮者の辛苦にあえて目をつぶり、今、指揮者の条件を書くとすれば、
1耳が良いこと。
2音楽的、詩的要素が充分有る事。
3指導力が有る事。
4肉体的、精神的強靭さを持つ事。
等であろうか。当然まだまだ沢山有る事と思いますが、私達合唱団員各人の意見を聞く事にします。
1の耳の点は?「抜群!だって都合の良い時は、地獄耳!当然都合の悪い時は……分るね!」
2の要素の点は?「詩的面では、いささか疑問の余地も有るけど、それを顔でカバーして居るから!練習中の、あの豊かな表情をかもし出す顔を見れば分るよ!うん!」
3の指導力の点は?「あるある!殊に合宿なんかで、女の子の話しをして居る時の経験豊かな指導力は、やっぱり抜群!」
4の強靭さの点は?「俺達の失敗の連続にも耐えて笑い乍ら、しつーーこく迫ってくるからやっぱり強ーーいのかな?」
以上の様な意見が主流ですが、やはり、先生も人の子人の親!そう満一歳の子供も居る。子は親の鏡とか、会場のどこかに居るのでは!是非、皆様の参考に探してみて下さい。
・・・


■明治6回演奏会(1980.1.11、於・中野文化センター)
常任指揮者:五味比左志
合唱に関する豊富な知識と経験による的確で無理のない御指導は、部員一同の信望を集めています。現在では、クラブ員1人1人の声を知り尽くし独特のハーモニーを創り上げ、そして、1人1人の性格も知り尽くし、クラブの調和を図って下さいます。また先生は、指揮者としてだけではなく、編曲者・演出家としてもすばらしく、毎年私達G・H・V・Gのために趣の異なった楽しいミュージカルを合唱にアレンジして下さいます。ここに第6回定期演奏会がもてるのも、偏に先生のおかげと感謝しています。

(記2016.01、改2023.12)


五味比左志〜合唱とともに〜