中国旅行記 石見銀山の解説



■石見銀山の発見■
石見銀山は露出した山肌の銀を発見したことが始まり。大永6年(1526)博多の商人神谷寿禎が銀山開発を始めたと云われる。新しい銀の精錬法である「灰吹法」を導入し後、産銀量は飛躍的に増大した。その頃は全国的には戦国時代であり、石見国周辺の戦国大名である周防・長門の大内氏、出雲の尼子氏、安藝の毛利氏が勢力を争っていた。石見銀山のある佐摩村には山吹城(要害山)が築かれ、石見銀山の砦となった。結局、永禄5年(1562)には毛利氏が石見国を平定し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いまで毛利氏が支配した。 戦国時代に鋳造された石州銀については、秀吉・家康の戦いにも重要な軍資金として活躍する。豊臣秀吉が朝鮮出兵の時に造らせたといわれている「石州文禄御公用銀」のほか、萩藩毛利家に蔵されてた石州銀で完形・切銀あわせて44枚などが現存する。 

■江戸時代以降の石見銀山■
関ヶ原の戦い後、石田三成方の毛利輝元は周防・長門に移された。勝利した徳川家康は、まず石見銀山周辺7ヶ村に「禁制」を発給し、銀山の直轄支配の体制をつくった。以後江戸時代約260年間、石見銀山は幕府直轄領(天領)として支配された。江戸時代初期に石見銀山は最盛期をむかえた。その後、坑道が深くなるにつれて湧水処理や間歩の修復などにも経費がかかるようになり、産銀量は衰退の一途をたどる。明治維新後、しばらく官営だったが明治5年(1872)浜田沖地震により多くの間歩が水没し休山となる。明治20年(1887)に藤田組によって経営再開し、銅を中心に産出したが、大正12年には休山となった。

■日本銀の動きとその役割■
日本の対外貿易史では銀の果たした役割が重要である。16世紀初め頃まで日本は銀の輸入国だったが、石見銀山に灰吹法が導入された後一転して銀の輸出国に変わった。『朝鮮王朝実録』によれば、日本の銀の流入により密貿易が横行し、これを規制するほどだった。村井章介氏によれば、日本ー朝鮮ー中国の密貿易ルートにより銀が動かされ、「灰吹法」も朝鮮の規制の中をくぐり抜けて日本に伝わったという。 
一方西欧諸国では15〜16世紀に新大陸を発見すると、スペイン・ポルトガルがアジアに拠点を築き、香料をヨーロッパへ輸出する貿易をはじめた。ポルトガル人は1543年種子島に漂着し日本に鉄砲を伝えたが、
その頃日本では石見銀山をはじめとする鉱山の開発により大増産が始まり、世界でも有数の産銀国になっていた。スペイン・ポルトガルは中国との交易を目指していたが、中国では海禁政策をとっていたため銀は密貿易によって動かされた。その密貿易集団を後期倭寇と呼んでいる。倭寇とは中国人、朝鮮人が海賊行為を行う日本人に対してつけた呼称だが、後期倭寇の内実は中国人・日本人・西欧人などを構成員とする多民族集団だった。
スペイン人・ポルトガル人はこの集団に参入することで中国との交易を行うことが出来た。日本からは応永8年(1401)から天文16年(1547)まで遣明船が中国へ渡り、公・私貿易をおこなっていたが、最後の二回は銀を積載していたといわれている。
やがてイギリス・オランダが後に続き日本との交易を始めるが、17世紀はじめ頃の外国の文献『コックス日記』などには、ソーマ銀と呼ばれる上質の銀が輸出されていた記録がある。石見銀山のある場所は当時佐摩(さま)村と呼ばれていたことから、小葉田淳氏はソーマ銀を石見銀山で作られた銀と解釈した。
その頃日本の銀産高はおよそ20万sで、世界の銀産量の3分の1、石見銀山では世界の産銀量の5分の1を産出したといわれている。16世紀後半〜17世紀初頭は世界でも有数の銀山だったといえる。

現在石見銀山内部は「石見銀山龍源寺間歩」で見ることができる。龍源寺間歩は正徳5年(1715)に開発され、石見銀山では大久保間歩に次ぐ大坑道。江戸時代の開掘の長さは約600mに及ぶ。ノミで掘った跡が当時のままの状態で残ってる。

■おまけ■
ケイ化木は10年ぐらいでもできるそうだ。

引用資料 石見銀山龍源寺間歩
       石見銀山資料館


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