絹の道(東京八王子)



■養蚕と製糸■
蚕を飼育し、繭を結ばせて糸をとる方法は、古代に日本へ伝わったが、本格的な養蚕は江戸時代に始まる。長い鎖国政策の中で、日本人が独自に改良していった養蚕と製糸の技術は、開国を迎えたとき、諸外国の製品にも劣らない水準に達していた。また、鎖国のために生産の価格が他国よりきわめて低いことも特徴とされていた。

■幕末期の商業活動■
19世紀に入ると、江戸を中心とする商業活動は、各地の市や宿場町を通じて、その周辺の村を巻き込んでいくことになる。農業のみでは生活が苦しく、現金が手に入る仕事を求めて、人々は農業余業に精を出すようになる。

■絹の道と鑓水商人■
安政6年(1859)の横浜開港から、日本は欧米諸国と貿易を始め、外国からは、毛織物・錦織物などが、日本からは生糸・銅・茶などが主要な輸出入品となった。生糸は輸出品の花形といわれるほど、毎年伸びつづけていった。そうした中で明治始めの鉄道開通まで、八王子近郷はもとより、養蚕地帯をひかえた長野・山梨・群馬方面からの輸出用の生糸が、この街道(浜街道あるいは甲州往還)を通って横浜へと運ばれた。八王子の市(いち)に程近い鑓水には生糸商人が多く輩出し、財力もあって地域的文化も盛んとなり、多摩丘陵の一寒村にすぎなかった鑓水村が、遠くアメリカやヨーロッパから「江戸鑓水」と注目を浴びたことがあった。

■生糸貿易■
激動の明治維新を経て、ようやく国家の体制が整ってきた日本も、欧米諸国との国力の差は歴然としていた。明治政府は、強力に富国殖産政策を押し進め、列強諸国の仲間入りをはかっていく。この手段のひとつとして、生糸を輸出し、外貨を得ようとした。品質がよく、大量に生産できる機械製糸への転換がはかられ、やがて大製糸工場へと発展していく。それは大資本を持つ者が成功し、零細な家内製糸は次々と衰退していくことを意味していた。そして、鑓水商人も活躍の場を失うことになっていった。

この「絹の道」という名称は、地域の研究者が昭和20年代末に名づけたものであり、昭和47年に御殿橋から大塚山公園までの区間を指定を受けた。

■大塚山公園■
明治8年(1875)に東京浅草の花川戸から勧進された道了堂跡地につくられた。道了堂は生糸商人として活躍した鑓水の豪商達によって建立され、多くの人の信仰を集めたといわれる。

■鑓水村■
鑓水は、多摩川の支流大栗川の源流にあたり、民家は多摩丘陵をとりまくようにふもとに立ち並んでいた。その多摩丘陵の斜面に竹槍状にとがらした青竹を打ち込み、飲料水を得る方法を「やりみず」といい、これが由来といわれている。
鑓水村には幕府直轄地(御林)があり、品川のお台場築造時に松木丸太の伐採・運搬が行われた。鑓水村だけでできるものではなく、近隣50ヶ村から助郷人足が集められた。


引用資料 絹の道資料館
       八王子市教育委員会


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