徳川家康と駿府城



今から650年ほど前の室町時代に今川範国(のりくに)が駿河国の守護に任じられ、以後駿河国は今川氏の領土の一つになります。

今川氏全盛期9代義元の時代に、徳川家康(幼名 松平竹千代)は人質として19歳までの12年間、駿府で生活しています。後に戦国大名、そして天下人へと成長していく過程で臨済寺の住職太原雪斎(たいげんせっさい)などから種々の教えを受けており、家康の人間形成の上で非常に重要な時期を駿府で過ごしています。

戦国争乱の中、永禄11年は(1568)10代氏真(うじざね)は甲斐の武田信玄に攻められて掛川に落ち、駿府の町は焼き払われます。さらに、天正10年(1582)には徳川家康が駿府の武田勢を攻め、再び戦火に遭った中世駿府の町はほぼ壊滅状態になりました。

駿河国を領国の―つとした徳川家康は、天正13年から居城として駿府城の築城を始め、天正17年に完成させます。現在の二/丸以内の部分です。しかし、家康は翌年関白豊臣秀吉の命によって関東に移封(国替え)され、豊臣系の家臣中村―氏(かずうじ)が城主となります。

豊臣秀吉亡き後、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開きました。

慶長10年将軍職を2代秀忠に譲った家康は、その翌年駿府を「大御所政治」の拠点の地と定めて再び戻ってきました。天正期の駿府城を拡張(三ノ丸)修築し、駿府の町割りや安倍川の治水事業に取りかかり、現在の静岡市の市街地の原型が造られたのです。

そして、家康自らは、晩年も「大御所」として天下の実権を掌握し、駿府は江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えたのでした。

派生資料 八王子往還(小峰公園・東京都あきるの市)
建武4年(1337) 初代今川範国、駿河国の守護に任ぜられる(建武5年説もある)。駿河国は、今川氏の領国となる。
天文18年(1549) 徳川家康、今川氏の人質として駿府で生活。(永禄3年まで)
天正14年(1586) 徳川家康、公式に駿府に入る。
天正17年(1589) 天守閣を始めとする二ノ丸までの駿府城完成。
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで徳川方勝利。
慶長8年(1603) 徳川家康、征夷大将軍に任命され江戸幕府を開く。
慶長11年(1606) この頃より、駿府の町の町割りや安倍川の治水工事を始める。家康は隠居城として新しい城の建設を川辺町付近に計画するが、従来の城を南・東・北に拡張することに変更。
慶長12年(1607) 駿府城本丸、二ノ丸の修築をはじめる。本丸は完成するが12月に出火し、御殿を始め天守閣など本丸のすべてを焼失する。直ちに再建にかかる。
慶長13年(1608) 本丸御殿等完成。
慶長15年(1610) 天守閣完成。
元和2年(1616) 徳川家康死去(75才)。久能山東照宮に埋葬される。
寛永12年(1635) 城下より出火、城内に延焼し天守閣・御殿・櫓・塀等大半を焼失。
寛永15年(1638) 御殿・櫓・城門等が再建されるが、天守閣は再建せず。
宝永4年(1707) 宝永大地震により駿府城の石垣等倒壊し、建物も1/3焼失。
宝永5年(1708) 駿府城の修築工事を行う。
安政元年(1854) 安政の地震により駿府城内外の建物、石垣などほぼ全壊する。
安政4年(1857) 修復工事を着手し、安政5年完了する。
明治2年(1869) 「駿河府中」を「静岡」と改称。
明治3年(1870) 二ノ丸冠木門払い下げ。以降明治9年までに大手門以下各城門が払い下げ、取り壊される。
明治29年(1896) 駿府城跡を陸軍省に献納。
昭和24年(1949) 静岡市、駿府城跡の払い下げを受ける。

引用資料 駿府城二之丸、東御門・巽櫓


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