めぐった古戦場の解説



■壬申の乱■
天下分け目の合戦といえば、関ケ原合戦の代名詞さえなっているが、遠く1300年余の昔、今一つの天下分け目の合戦が関ケ原を舞台に行われている。この戦いは、天武天皇(大海人皇子)と弘文天皇(大友皇子)を中心とする新旧二大勢力の決戦であって、文字通り天下分け目の合戦であった。

戦況は、藤古川(関の藤川)を挟んで、束に天武天皇、西に弘文天皇の軍が対陣して戦端が開かれた。不破の道を塞いだ東軍は優勢で、西軍に利あらず、連戦連敗し、遂に近江の瀬田の決戦で敗れ、大津長等の山前で弘文天皇は自害された。天武天皇軍の大勝利となった。
合戦時の本営であった、野上の行宮を発ち、飛鳥岡本宮に帰られ、翌年飛鳥浄見原宮で即位され天武天皇と称された。


■桶狭間の戦い■
現在の桶狭間は、住宅地の一角の公園と、寺とだけになりはてています。ここの地名は桶狭間でなく、田楽狭間が正確なのだそうです。戦国時代というのは、上洛し、京(天皇)を味方につけることを競っていました。この戦いで破れた今川氏、設楽原の戦いで破れた武田氏も、上洛する途中だったのです。

永録3年(1560)5月19日(太陽歴の6月22日)に行われた駿河・遠江・三河の領主今川義元と、尾張の領主織田信長との争いを桶狭間の合戦という。その概要は次の通りである。

東軍、大将今川義元(42オ)駿河・遠江・三河の百万石の領主、軍勢2万5千人。今川国氏以来11代目を数える守護大名。西軍、大将織田信長(27オ)尾張半国17万万の領主、父信秀の跡をつぎ勢力拡大しつつあった戦国大名。

戦国時代の常として、各領主は隣国と戦い、領地の拡張に明け暮れていた。今川義元は、父祖以来の余勢を駆って尾張を平定し、美濃、近江を抜き京に上り、足利幕府13代将軍義輝を助けて中央進出を実行しようとした。これに抵抗して織田信長がほとんど勝目のない戦いを挑んだのが桶狭間の合戦の原因である。

今川義元の主カ部隊は永録3年5月12日、長男氏真を留守居と定め、府中(静岡市)を出発した。17日岡崎に、18日に宇頭今村を経て沓掛城(豊明市)に入り、織田勢攻撃の準備をした。このころ織田方にあっては昼夜をわかたず軍議が開かれ、あまりの勢力差に家臣団は籠城説に傾いていた。しかし信長は死を覚悟して出撃を命じたのである。信長は5月19日未明、清洲を出発したが、後には200騎ほどしか従わなかった。熱田に来た頃には斬次数を増して1,000余騎ほどになっていた。熱田の宮を出で東南に望めば、鷲津、丸根(信長方の最前線の砦)の方角にあたって黒煙天に連なるを見た。おそらくこの両砦が陥落したものと見られた。おりしも海岸は満潮のため人馬が通過し難いので、信長は道を転じて井戸田、桜、戸部、笠寺、野並、鳴海を経て善照寺砦附近まで来た。その頃追々兵方を増し3,000人ほどになった。行くことしばらくして信長の家臣梁田政綱から今川義元が沓掛城を発し、大高城に向ってすすみ、田楽狭間(豊明市)に休息しているとの情報がもたらされた。信長は一挙鎌倉街道を途中より南下し、田楽狭間より西北方約500メートルの太子ケ根(現在の大将が根)の北谷に到着した。斥候を太子ヶ根山上に放って今川義元の本陣を発見した。(午後2時頃)この日の天候は、大層朝から蒸し暑かったが、昼頃より空に一点の黒雲現れみるみる一面に漲り、風は西より東に向って吹き、さらに雷鳴を交える大豪雨となった。一万義元の本陣は桶狭間(現在の名古屋市緑区有松町桶狭間)の北方の松原一帯に休息し、緒戦の勝利の報告を聞いていた。その頃俄かにタ立となり狼敗しているところへ、信長は豪雨と雷鳴に乗じ、義元の本陣の後方丘陵を迂廻し、木陣背後の丘をよじ登り、山上より一気に義元の本陣になだれ込んだのである。今川勢は、最初は信長勢の奇襲に意表をつかれ浮足立ったが、奇襲と知るや300余騎で義元の周囲を囲み防戦につとめた。やがて50騎ほどに減ったとき、信長の家来の服部小平太は、槍を構えて義元に近づきその脇腹を刺した。義元は佩刀松倉郷の大刀を抜き放ち、小平太の槍の干段巻より切り落し、その切っ先は小平太の向脛を斬り払 った。このとき同じく信長の家来毛利新助は義元の背後から組みつき、短刀を以て義元の首を討ち取った。時に牛後3時頃と推察される。戦闘はなおしばらく続いたが、御大将討たれるのを知らせが今川勢に広まるや、今川方の諸将は今はこれまでと兵をまとめて戦場を離脱していった。(午後5時)信長は、義元の首を高くかかげ熱田神宮に詣で牛後7時頃には居城清州城に凱旋した。この合戦に死した者、今川勢2,500、織田勢800ほどであった。


■長篠城の戦い■
戦国時代に、長篠城をめぐる戟いは三回行なわれましたが、ふつう「長篠の戦い」という場合は、天正3年(1575)5月の戦いを指します。そしてこの戦いは、前の部分の「長篠城の戦い」と、後の部分の「設楽原の戦い」の二つに大きく分けられます。

甲斐の武田軍にとって長篠城は、信州の山あいを通って三河の平地へ出る所にあり、やがて京都を望むためには、とても大事な拠点となる城と考えられていました。それに、元亀2年(1571)にはいったん武田方に属したものの、二年後の天正元年には徳川方に降った城でもあります。ぜひこれを奪い返そうとして武田勝頼(かつより)は、15,000の大軍を引きつれて城を取り囲みました。5月8日から毎日のように攻撃を仕かけましたが、奥平貞昌(さだまさ)以下500の城兵はよく戦って防ぎました。しかし、少人数で城を守るにも限りがあるため、貞昌は、救援の使者として鳥居勝商(かつあき)を岡崎へ向かわせました。徳川家康はその報告を受け取ると、かねての約束通り織田信長の助けを借りて、5月17日には設楽原へ出陣し、長篠城救援の気構えを見せました。

■設楽原(したらがはら)の戦い■
設楽原は葦だらけのなんてことない谷津田でした。

武田信玄の後をついだ勝頼は、天正3年(1575)5月、15000の軍を率いて長篠城を囲んだ。城主奥平貞昌(後の信昌)は21歳、500の域兵と共によくこれを防ぎ、鳥居強右衛門の働きもあって、織田・徳川の援軍3万8千は設楽原に進撃し、連吾川にそって陣地を築き、武田軍の進撃を待った。日本最強を誇る武田軍の騎馬隊の壮絶な突入も、連合軍が放つ3000挺の鉄砲の前に敗れ、多数の名将勇士を失った。この戦いによって武田氏は没落し織田・徳川の勢力は絶対的なものになった。まさに関ケ原・小牧長久手の戦いと共に、日本史上重大な意味を持つ戦いであった。

1508(永正5)今川氏親に属する菅沼元成は長篠城を築く。山家三方衆長篠菅沼氏。
1560(永禄3)織田信長、今川義元を桶狭間に襲って倒す。
1561(永禄4)城主管沼貞景、今川氏真を見限って松平元康(家康)に徒う。
1569(永禄12)菅沼貞景、徳川家康に属して今川氏の掛川城を攻め天王山て討死。
1571(元亀2)長篠城は武田軍(秋山、天野)に攻められて降参し武田信玄に属す。
1572(元亀3)城主管沼正貞は、武田軍に属して三方原で徳川家康軍と戦う。
1573(元亀4〜天正元)野田城を落した信玄は長篠城で休養、
   三河から伊那路へかかるあたりで死去。4月12日、53歳。
   徳川家康は長篠城奪回、城主管沼正貞は家康に内応したとして武田軍に捕らえられる(8月)。
   武田軍に属していた奥平貞能、貞昌父子は離脱して徳川軍へ投じる。
   奥平氏の人質を武田軍処刑。(9月)
1575(天正3)2月、徳川家康は長篠城を奥平貞昌(21歳、後の信昌)に与えた。
   貞昌は急ぎ城郭の修理補強を行う。
   5月、武田勝頼来襲、猛攻に耐えて家康の期待に応える。
1576(天正4)長篠城を現在の新城市へ移築。
   家康は、長女亀姫を信昌(貞昌)に嫁がせ、かねての約束を果たす。

1575(天正3)5月の動き
6・7日 武田勝頼、吉田城(豊橋市)に迫って小ぜりあい。
8日 武田勝頼(15000)長篠城(奥平貞昌、500)を囲み攻撃開始。
10日 大手門付近で戦闘、城兵門外突出。
11日 豊川対岸の武田軍、筏て野牛郭を攻撃。城兵も多数死傷するが撃退。
12日 武田軍、本丸四隅に横穴を掘り侵入、城兵は逆襲して退ける。
13日 武田軍は瓢郭を攻撃、夜、瓢の共は本丸へ引き上げ。
   大手門方向に建てた望楼を城兵は銃撃で破壊。
14日 武田軍総攻撃を城兵死守。鳥居強右衛門、奥平貞昌の命を受け脱出。
15日 強右衛門は岡崎に到着し家康に言上。織田信長も岡崎到着(泊)。
16日 強右衛門は武田軍に捕われ、城中へ援軍到来を告げてはりつけにされる。
18日 織田(38000)、徳川(8000)軍設栗原到着、布陣し陣地構築。
19日 武田軍は軍議、勝頼は諸将の諌言(かんげん)を容れず、設楽原の敵陣攻撃を決定。
20日 武田本隊は城の包囲を解き設楽原へ、徳川軍酒井隊は鳶が巣方向へ。
21日 設楽原で激突、勝頼は多くの将士を失い残兵に守られて敗走。

設楽原へ到着した織田・徳川連合軍は38,000、連吾川の西側に陣をしき、馬防柵(ばぼうさく)を念入りに作り始めました。当時日本一と恐れられていた武田の騎馬隊を迎え撃つために、信長が考え出した戦法です。つまり、武田軍を柵の前へおびき寄せ、隠し持った鉄砲3,000挺を撃ちかけて 一気に勝敗を決しようとする方法てす。このために信長は、はるばる岐阜から柵木を持ち運ばせていました。一方、武田勝頼は軍議の結果、一部を長篠城監視に残しておき、大部分の軍勢を引きつれて、豊川を渡り設楽原へ出陣しました。そして連吾川東岸の台地に、敵陣地を見おろすようなかっこうに陣をしきました。

この時の両軍陣地のあらましは、次の通りです。
(武田軍) ―北の方から―
馬場信房の右翼隊
内藤昌豊の中央隊  武田勝頼の本陣(才ノ神)
山県昌景の左翼隊
(織田・徳川連合軍) ―北の方から―
佐久間信盛の丸山陣地
徳川家康の八劔山陣地  織田信長の本陣(茶臼山)
大久保兄弟の小川路陣地

後詰として木下秀吉・岡埼信忠・北畠信雄(のぶかつ)。鳶ヶ巣山奇襲隊として酒井忠次、その別働隊の設楽貞道。

設楽原決戦の行なわれた5月21日は、今の暦でいうと7月9日に当たります。ちょうど梅雨明けのころで、野山には夏草が生い茂り、田んぼに稲の苗も植えつけられて、カッコウやカエルの鳴き声がのどかに聞こえていました。前夜から、ひそかに豊川を渡り吉川を通って、鳶ヶ巣山を目指していた酒井忠次は、夜明けとともに武田軍陣地に襲いかかりました。その喚声がはるかに聞こえてきたここ設楽原では、しばらくたってから、勇猛を誇る武田騎馬隊が連合軍陣地に殺到することで、戦いの幕が開けられました。しかし慎重に作戦をたて、準備をして待ち構えていた連合軍の前では、さすがの武田軍も、いつもの戦とはずいぶん勝手が違う様子でした。柵の手前には、狭いながらも連吾川があり、川をはさんでは、田植えを終わって間もない泥田が続いています。それらを越えて、やっと柵に近づいたかと思うと3,000挺を三段に分けた鉄砲隊からは,間断なく銃弾が飛んできます。はげしい攻撃が繰り返される度に、死傷者の数が増えるばかりてした。しかしそうはいっても、やはり天下無敵とうたわれた武田軍です。どこでも、勇敢な戦いぶりを示しました。中央部の八劔山村近では、柵に取りつき大音声をあげて壮烈な最期をとげた土屋昌次、また三重の柵を乗り越えて敵陣に突入した一部甲州武者の活躍が、むしろ連合軍側で感動をもって伝えられていました。ざらに北方の九山陣地では、佐久間信盛の固い守りを突き崩し、 取りつ取られつの死闘を操り返した馬場信房、そして豪勇の真田信網・昌輝兄弟。南の勝楽寺前においては、大久保忠世・忠佐兄弟の軍に攻撃を仕かけてゆく山県昌景率いる赤具足隊の駈け引きを心得た勇戦ぶり等々、いちいち挙げたらきりがありません。

やがて正午も過ぎて2、3時間たつと、武田軍の劣勢はもはや明らかとなりました。柵より討って出る敵方に押されて、じりじりと後退を始めました。この上は、せめて大将武田勝頼だけは無事国元へ落ちのびさせたいと、馬場信房が最後の力を振りしぼり、銭亀付近での殿(しんがり)の戦に果てると、朝からのはげしい戦いも、ようやく終幕を迎えました。武田軍10,000、連合軍6,000、これがたった一日、10時間足らずの戦闘に失われた尊い人命です。

設楽原に住む材人たちは、戦いの行なわれていた間、じっと息を潜めるような思いで小屋久保に避難していました。やがて戦いが終り、家に帰って行ったのは、おびただしい死者のねんごろを葬ることでした。その場所は、今も慰霊の丘として知られる信玄塚で、毎年お盆に行なわれる「火踊り」は、死者を供養するための火祭りで、400年余も連綿と受け伝えられています。

設楽原の戦いの結果、武田軍の勢力は急に弱まり、7年後に甲斐の天目山で滅ぶきっかけとなりました。また、鉄砲を集団で使うやり方が各地で普及し、戦法や築城法に大きな影響を与えました。


■関ヶ原の戦い■
戦国時代の総決算とも言える関ケ原合戦は、日本全土の各武将たちが生命をかけ、それぞれに二分し、東軍の大将徳川家康と西軍の大将石田三成が衝突したいゆる天下分目の合戦である。三成は大垣を決戦の地と考えていたが、美濃赤坂にいた家康は野戦を望み、関ヶ原を通って大阪へ攻めに行くという軍令が流され三成はそれにのり、関ヶ原での決戦となった。時は慶長5年(1600)9月15日、夜は明けたが前夜からの濃霧のため見通しがきかない。午前8時頃になってようやく霧が晴れたので、井伊・松平が先ず進出して字喜多の隊に向って、戦端の火蓋が切られようとしたが、これを見た福島の隊は遅れてはならないと、宇喜多の隊に戦闘の火蓋を切った。かくて戦機を得た東軍右翼の黒田・竹中・細川等の隊は一斉に石田・小西の隊を攻撃。左翼の藤堂・京極の隊も大谷の隊と交戦。関ケ原全体は、戦いの中に包まれ戦いは一進一退、西軍がやや有利に戦う。家康は、最初挑配山にあったが、午前10時頃陣場野へ陣を進め、全軍に指揮をした。松尾山の小早川秀秋は、正午ごろ反旗をひるがえし、大谷の隊を衝いて来た、次いで脇坂・朽木・小川等が小早川に同調し、三面攻撃を受けた、平塚・戸田は相次いで討死し大谷吉継も遂に自害して果てた。小早川の裏切りで大谷の隊が潰滅すると、形勢は逆転し、次いで小西・宇喜多の隊も敗走し、石田の隊もよく奮戦したが、遂に敗走した。最後に残った島津維新は、僅か200に足らぬ兵で、維新をなかに―団となって、敵中強行突破をし帰国した。時に牛後3時であった。南宮山の西軍3万の兵は、家康に内応した、吉川広家に阻まれて参戦の機会を逸してしまった。

小早川秀秋は関ヶ原後15万3千石加増されて備中岡山城城主となったが、2年後に死亡しお家断絶となった。毛利秀元は領地滅封、吉川広家は毛利家中から冷眼視される。


引用資料 関ヶ原町歴史民俗資料館
       関ヶ原町観光協会
       高徳院
       長篠城址史跡保存館
       

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