めぐった旧道の考察



■宮路山■
予定外で、宮路山に登りました。
頂上に登ってもカスって、三河湾は何も見えませんでした。
選んだ下りの道は、険しい道でした。

標高362mの宮路山は、
応永20年(1413)に東海道ができるまで、この山を超える道が主要な道でした。
「秋来てぞ 見るべかりけり赤阪の 紅葉の色も 月の光も」(藤原盛忠)と詠まれているように、
いにしえより紅葉の名所として名高く、
万葉集、十六夜日記など数多くの歌集や紀行文にその名が登場します。


■御油の松並木■
御油にてR1と旧街道を歩きました。
R1又は旧街道は、都内と京都と三島でも歩きました。
全部つながっているんですよね。
御油の松並木の松は若木が多かったです。
松並木が残ってる旧道を通ったのは日光と、土浦だけでした。
土浦はほんとちょっと残ってるだけ。

御油の松は、1604年〜1607年にかけて整備・植林されたものらしく
その後は幕府の命で住民によって手入れがされていったようです。
この辺が昔の面影を残しているのは
御油・赤坂・藤川・岡崎の四宿が鉄道施設に反対したため開発が進まなかったそうです。

この御油で東京北区の人と出会いました。
私も小さい頃住んでいたので驚きました。
この人は自転車で東海道を走っているそうです。
箱根の山はさすがに歩いて通ったそうです。
奥の細道の跡を全部たどっているとのことです。
今回は伊賀上野まで行くそうです。


■美濃不破関■
関より東を「関東」、関より西を「関西」と呼んでいたと言われている。

壬申の乱(672年)の際、
大海人皇子(おおあまのみこ)の舎人(とねり)であった美濃出身の
村国連男依(むらくにのむらじおより)らが「不破道」を塞いだことが、
『日本書紀』に記されてれている。
不破道の重要性から天武天皇は、乱の翌年ここに関所を置き天下の変乱に備えた。
北陸道の越前国の愛発(アラチ)・東海道の伊勢国の鈴鹿・東山道の美濃国の不破に関所を設けた。
この三つの関を三関(サンゲン)又は三関国という。
三関は律令国家の「備非常」えるために設置された。

不破関には美濃国府に勤務する国司四等官が分番守固し、
兵士が配置されて国家の非常事態に備えていた。
一方、不破関を通行する人々に対しては、
過所(通行証明書)により検判を実施するなど警察的機能もはたしていた。
不破関は藤古川の左岸に自然の要害の地を利用して設置されており、
その大きさは北限土星が460m、束限土星が432m、南限土星が112mである。
ほぼ中央部を東西方向に東山道が通り、
その道に接して北側に築地塀で囲まれた約1町(108m)四方の内部が構えられている。
この内部が不破関の中心であり、瓦葺きの建物が数多く建っていた。
延暦8年(789)7月14日、三関は突如として停廃された。
三関は国家の非常事態に備えるためであったが、
現実にはその維持に大きな負担がかかっていたことは確実であり、
長岡京・平安京の造営という大事業の推進のためにも三関の停廃が必要であったと考えられている。
しかし、平安時代になっても天皇の崩御や重大事件の際には固関使(こげんし)が発遣され、
やがて儀式化しながら固関の儀が江戸時代末まで執行されている。
律令制の不破関が停廃された後、いつの頃か再び不破関が復活する。
東山道を通行する人荷から関銭を徴収するようになったのである。
鎌倉時代の関銭徴収の不破関がどんな規模と構造であったかは不明であるが、
発掘調査の出土品中にも中世の陶器・土師質土器や中国銭などがあり、
相当大きな規模と施設をもっていたことが推測されるのである。


■伊勢鈴鹿の関■
関が歴史に登場するのは7世紀。
この地に「鈴鹿関」が設けられたのが始まりで、これが地名の由来となった。
鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、
また伊勢別街道や大和街道の分岐点として江戸時代を通じて繁栄した。
もともとは地蔵院を中心に栄えた門前町で、東海道が敷かれたときに今の場所に移った。
鈴鹿峠を超えて京都へは19里半(78キロ)である。
また大和街道は加太(かぶと)超えして伊賀から奈良に至る。
東の追分にある鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしとなっている。
伊勢神宮外宮までは15里(60キロ)ある。
伊勢鈴鹿の関が置かれていた位置や規模、当時の「関」の様子などははっきりとわかっていませんが、
現在の関宿の位置にあったと考えられています。
江戸時代には、東海道53次の江戸から数えて47香目の宿場町として、
参勤交代や伊勢参りの人々などでにぎわいました。
現在、旧東海道の宿場町のほとんどが旧態をとどめない中にあって、
唯―歴史的な町並みが残ることから、昭和59年、国の重要伝続的建造物群保存地区に選定されました。
関宿の範囲は、東西追分の間約1.8牛口メートル、25へクタールに及び、
江戸時代から明治時代にかけて建てられに古い町家200軒あまりが残っています。

関宿の切屋の特徴
関宿の町屋は、最も古いものは18世紀中頃の建築で、明治時代中頃までのものが半数以上をしめます。
平入(ひらいり)の二階建が一般的ですが、二階前面を土壁で覆つに塗龍(ぬりごめ)のものが目を引きます。

出格子と幕板
庇の下に取リ付けられた幕板は、風雨から店先を守る霜除けです。
座敷の前の出格子窓は、明治時代以降に取リ付けられたものです。

馬つなぎの環金具
玄関の柱に打ち付けられた馬をつないだ環金具。
土台などの低い位置にあるものは、牛をつないだものです。

ばったり(揚げ店.店棚)
店の前に取リ付けられた、上げ下げができる棚のこと。
商品を並べたリ、通りを通る人が座ったりしました。

虫籠窓(むしこまど)
町屋の正面二階にある、漆喰で塗籠(ぬりごめ)た竪格子窓のこと。
関宿にはさまざま形の虫龍窓があります。

庵看板
瓦屋根のついた立派な看板。
看板の文宇は京都側が漢宇、江戸側がひらがなになっています。
旅人が向かう方同を間違えないための工夫だと言われています。


■熊野街道■
旧道好きにとっては南紀はたまらん!
熊野街道であるR42は、R246(大山街道 )同様「これ旧道だ!」とすぐ分かる脇道が多いです。


引用資料 宮路山ハイキングマップ
       御油の松並木資料館
       関ヶ原町観光協会
       不破関資料館
       関町教育委員会
       関町イラストマップ

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