織田信長の足跡の考察



■時代背景■
足利尊氏によって開かれ、金閣寺・銀閣寺代表される室町幕府は、
応仁の乱をきっかけにその力は衰えていった。
この戦いには守護大名の多くが参戦し、
幕府から支配を任されていた自分の領地は家来の守護代などに任せていた。
武士とはもともと荘園を守る、武装した農民のことであった。
農地を開墾したとしてもすべて京や豪氏の荘園となり、
荘園の管理者となるぐらいしかできなかった。
こうした領地をかえりみない間に領民の不満はつのり、政治は乱れ、
多くの守護大名が次々と家臣によってその座を追われた。


■足跡■
織田氏は越前国織田荘を本拠とする士族の出自といわれ、越前の守護斯波氏に仕えていた。
斯波氏は当時、室町幕府を支える三管領(斯波、細川、畠山)の家柄で、
将軍家に次ぐ有力な守護大名だった。
守護所下津(現稲沢市)の別郭として清洲城を築き、斯波氏の尾張守護代として尾張に赴任した。
文明8年(1476)下津城が戦乱によって焼かれ、清洲に守護所が移って尾張の中心となる。
その後清洲城系織田と岩倉城系織田に分かれ抗争を続けた。
この中で清洲織田家の三奉行の1人で地略に富む弾正忠信信禿が勢力を持ち、
ついに主家をしのぐようになり、その子信長に至って尾張を平定し、織田の主流となった。

応永年間(1394〜1427)この頃尾張守護斯波義重が清洲城を築く
文明8年(1476)尾張守護所、下津より清洲城へ移る
天文3年(1534)信長、那古野城で生まれる(ちなみに秀吉は那古野城下で)
弘治元(1555)守護代家を滅ぼし、清洲城へ入る
永禄2年(1559)岩倉城を攻略、尾張を統一
永禄3年(1560)今川義元を桶狭間にて破る
永禄6年(1563)小牧山へ居城を移し、町人の移動を行う
永禄10年(1567)稲葉山城主斎藤龍興をを急襲、美濃を平定、
    井ノ口から岐阜と、稲葉山を金華山と改め居城を小牧山より岐阜へ
永禄11年(1568)近江を平定、足利義昭を奉じ入京
永禄12年(1569)伊勢国を支配下に置く
元亀2年(1571)比叡山を打ち、南近江一向一揆を掃討
天正元(1573)足利義昭追放、室町幕府滅亡
    朝倉義景・浅井長政滅亡、越前を攻略
天正2年(1574)織田信忠、尾張の支配権を与えられる
    伊勢一向一揆を掃討
天正3年(1575)長篠の戦い
    越前一向一揆を壊滅させる
天正4年(1576)信長、安土城を築き、岐阜より移る
天正5年(1577)紀伊の雑賀・根来を討伐
天正7年(1579)丹波・丹後・備前・摂津を平定
天正8年(1580)播磨・但馬を平定、加賀一向一揆を掃討
    本願寺と和議を結ぶ-石山合戦終結
天正9年(1581)加賀・能登・因幡・淡路を平定、越中へ進攻、
天正10年(1582)武田氏滅亡
    甲斐・信濃・駿河・上野を支配下に置く
    備中高松城を攻略中に本能寺の変で信長、信忠父子死去
    清洲会議が開かれ、織田信雄が領主となる
天正12年(1584)小牧・長久手の戦い
天正14年(1586)信雄、清洲に移り、修理拡張を行う
天正18年(1590)秀吉、天下統一、尾張の領主となる
文禄4年(1595)福島正則、尾張に封ぜられる
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い
家康四男松平忠吉が武蔵忍より清洲へ封ぜられる
慶長8年(1603)徳川幕府成立
慶長12年(1607)忠吉死去により九男徳川義直が甲斐府中より封ぜられる
慶長14年(1609)家康、名古屋築城を決定
慶長15年(1610)築城開始、清洲より藩士・町人・寺社の移住(清洲越し)が始まる
慶長18年(1613)清洲越しほぼ完了
慶長19年(1614)大阪冬の陣
元和元(1615)大阪夏の陣、豊臣氏滅亡
元和2年(1616)義直、名古屋城へ駿府より入城


■清洲城■
京より東の最大都市を誇った城下町。
当時人口6〜7万人で稀有の繁栄を示し、「関東の巨鎮」といわれた。


■岐阜城■
石高の推移は、
斎藤道三の時代は50万石、信長の時代には250万石、織田信長の時代にいたって35万石となる。


■安土城■
安土城は琵琶湖に突き出た平山城。
軍事機能を持たず、道教・儒教・仏教・キリスト教を交え、
寺院様式・唐様式・南蛮様式をいっしょくたにした世界規模思想のものであった。

天主閣は多宝塔そのものみたいに思えました。
京都や奈良に行けばいくらでも規模の大きい建築物、高層建築物があります。
もしかすると、それを見習っているのかもしれません。
昇り竜や下り竜、仏教世界・道教世界を描くなど、大変に宗教的な建物となっていました。
ヨーロッパでのルネサンスに匹敵できるものだとも思いました。
実際に安土城跡に登ってみて、山麓から山腹にかけて家臣の屋敷が並ぶ様は、山寺のようです。
三重塔と山門だけが残ってるのはなぜだろう?

安土城の天主閣の全体模型が「安土町城郭資料館」に、
「安土城天主信長の館」には天主閣の5・6階部分を実寸で完全復原されています。

信長は戦いを好んでいたのだろうか。
何故天下統一を目指したのだろうか。
本当は戦いはキライなのではないか。
天主=仏であり、争いを悔い止める現世の仏となろうとしたのではなかろうか。
安土城はそのための建物ではないのか。
信長亡き後安土城を燃やし崩したのは信長の理想郷の断念であり、
夢破れて山河あり、兵どもが夢の跡のごとくに、
もしや、自らの手で(命で)壊したのではなかろうか。


引用資料 清洲城
       岐阜城
       安土城天主信長の館

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