斎宮の解説



■奈良時代につくられた、最も古い歴史書■
日本書紀は720年に完成した歴史書です。その672年のところには壬申の乱のことが
詳しく書かれています。
この戦いは、大化の改新という政治改革をすすめた天智天皇がなくなった後、大海人皇子(おおあまのおうじ)と大友皇子(おおとものみこ)の二人が争ったもので、戦いの途中、大海人皇子は三重県を通り、今の朝日町のあたりで伊勢神宮を遠く拝み、勝つことを願ったとされています。戦いに勝った大海人皇子は、天武天皇になりました。

■最初の斎王、大来皇女 (飛鳥時代 最初の斎王といわれる人)■
天武天皇は、伊勢神宮の助けによって戦いに勝ったと考え、娘の一人を伊勢神宮に送って神に仕えさせることに決めました。その名を大来皇女(おおくのこうじょ)といいます。
身分の高いお姫様をむかえて、伊勢神宮の地位はたいへん上がり、天皇を守る神となったと考えられています。大来皇女のあと、伊勢神宮に仕える天皇の娘は、続いて送られるようになり、斎王の制度かはじまります。斎宮跡で見つかる最も古い遺跡はこの時代のものです。

斎宮とは、天皇が即位するたびに選ばれて伊勢神宮に仕えた斎王(いつきのみこ)の宮殿と、彼女に仕えた役所である斎宮寮を指す言葉です。
斎王は、未婚の内親王や女王から占いで定められ、野宮などでの足掛け三ヶ年の潔斎の後、伊勢斎宮へと群行します。

斎宮寮には長官以下の男の官人、斎王に仕える女官、その他数百人の人々がおり、桧皮葺や茅葺の建物が数多く立ち並んでいました。
斎王が伊勢の神宮におもむくのは、年に三度、6・9・12月の祭りの時だけでした。「伊勢物語」「大和物語」等々数多くの古典文学に斎王や斎宮が取り上げられ「竹のみやこ」の華やかな面影を今に伝えています。

■斎王の旅立ち■
天皇が即位すると、皇族の女性の中から選ばれて、伊勢に派遺され、伊勢神宮に仕える人、これが斎王の定義といえるでしょう。

最古の歴史書『日本書紀』の中でほ、垂仁天皇の時代に倭姫命(やまとひめのみこと)という皇女が天照太神を奉じて伊勢の地に神宮を定めたということが記されていますが、古い時代の斎王については、'伝承的な認録が多く、その実態はよくわかっていません。
実在した最古の斎王は、673年に就任し、泊瀬(はつせ)の斎宮を経て伊勢に入った、天武天皇の娘、大来(おおく)皇女で、「斎王」という言葉がはじめて見られるのは奈良時代のことです。

10世紀前半に編纂された『延喜式』は、律令の施行細則の集成で、この中に、斎宮に関する法をまとめた『斎宮式』があり、斎宮についての法は律令の中には見られないので、これが唯一の体系的な法令集になります。『斎宮式』によると、斎王が選ぱれて伊勢に旅立つまでの手順は次のようなものでした。

天皇が即位すると、斎王が占いで選ばれます。選ばれた新斎王は、まず自室で、世間から切り離された生活を送ります。次に日を選んで平安宮の中に用意された一室に移ります。この部屋を「初斎院(しょさいいん)」といいました。そして翌年の秋、京外の「野宮(ののみや)」という仮設の宮殿に移り、なお一年を過ごします。野宮の場所は『延喜式』の時代には、京の西の郊外、嵯峨野に置かれることがほとんどでした。こうした「お篭もり」は、斎王の清浄性を高めるものだったらしく、場所を移る前に、必ず禊(みそぎ)を行なっています。

そして翌年秋、伊勢神宮で9月15日から17日に行なわれる「神嘗(かんなめ)祭」に合わせて、斎王は旅立ちます。多くは葛野川(現在の桂川)で禊を行なった後、平安宮の中心の建物である大極殿に入り、天皇と対面します。天皇は「都の方におもむきたもうな」と声をかけ、斎王の額髪に櫛をさします。平安文学で「別れのお櫛」と言われる厳斎な儀礼でした。

■群行■
それは、近江国の勢多・甲賀・垂水、さらに伊勢の鈴鹿・一志の五箇所の頓宮(とんぐう)と呼ばれる仮設の宮で泊まりを重ねる五泊六日の旅でした。
斎玉が任をとかれて都に帰るのは、天皇が譲位したり、亡くなったり、斎王の肉親に不幸があった時などに限られ、天皇一代に一人が原則でした。
天皇の譲位による帰京は、往路と同じ道を、天皇が亡くなったり、肉親の不幸があった時の帰京は、一志から川口、伊賀の阿保、大和の都介、山城の相楽を経て木津川で難波に下り、禊を行なった後、山城の河陽に戻り、京に入るというものでした。
7世紀後半に成立したこの制度は、14世紀半ば、南北朝時代の嵐の中にその姿を消していきました。

■斎王のつとめ■
斎王の第一の務めは、もちろん伊勢神宮の祭に参加することでした。斎王の参加する祭は、9月の神嘗祭(かんなめのまつり)と、6月・12月の月次祭(つきなみのまつり)で、三節祭と呼ばれ、その構成はほとんど同じでした。これらの祭は内宮・外宮各二目にわたって行われ、内宮は16・17目、外宮は15・16目、斎王はいずれもその二目目に参加していました。

斎王は、太玉串(ふとたまぐし)と呼ぱれる榊の枝に麻の繊維を付けたものを宮司から受け取り、神宮の瑞垣御門(みずかきごもん)の前の西側に立てるのが主な任務です。この太玉串は、神の宿るもの(神籬(ひもろぎ))で、祭の最初に行われる神の来臨の儀式だと考えられています。平安時代の文献では、斎王は天照太神の御杖代(みつえしろ)と称され、御杖代とは杖の代わりに神を案内する者だ言われています。
神とともに諾国を回り、伊勢神宮を定めたとする伝説の斎王、倭姫命のイメージが、太玉串とともに現れる斎王の姿と重なるとする説もあります。

一方、斎宮では、『延喜式』によると、正月元目・7目・16目や5月5日、7月7目、9月9目と11月の新嘗祭(にいなめのまつり)には節会(せちえ)が行われており、年中行事や儀式を大切にする平安宮にならった生活が見られたようです。
また、伊勢神宮での祭の他にも、2月には農耕の開始を告げる祭である祈年祭(としごいのまつり)を行い、多気・度会の二つの神郡(神宮の支配を受ける郡)内の神杜に幣帛(へいはく)と呼ばれる贈り物を分配し、11月の新嘗祭で収穫を祝うのも、斎宮の重要な祭でした。
この他にも、火の神や占いの神の祭、斎宮寮の司の春・秋の祭や、6月・12月の大祓(おおはらえ)など、神祭りに関わる組織らしく、数多くの行事が行われていました。

■斎宮再現■
個々の建物の形状はわからない点が多いが、全て平屋とし、檜皮(ひわだ)、板、茅葺(かやぶき)とした。
内院の建物の基本的に檜皮葺、それ以外では、一区画に一棟、比較的規模の大きい建物が見られることが多いので、檜皮葺の正殿と考え、他は板葺とした。屋根の形状にも三段階のランク差をつけており、各宮司の長官の位階に応じてグレードに変化をつけている。高床式の倉は茅葺で統一した。

■掘立柱建物■
礎石を置かず、直接地面に柱を立てていた。
瓦はほとんど出土しない。瓦を置いてなかったようだ。
これらは当時の役所の建物としては異例なことで、伝統的な住居建築に近かった形と考えられる。

■斎王の衰退と消滅■
10世紀以降の斎宮については、発掘調査ではまだほとんどわかっていない状態です。
文献からも10世紀後半頃には、斎宮が次第に衰退し、天皇との血縁も遠くなり、ついに長元4年(1031)には、斎王の子(よしこ)女王が内宮の荒祭宮(あらまつりのみや)の託宣(たくせん)と称し、朝廷の伊勢神宮軽視と斎宮頭の横暴を訴えるという事件が起こります。

さて、承安2年(1172)に斎王惇子(あつこ)内親王が斎官で急死し、その後源平の内乱期になったことなどの理由で、文治元年(1185)まで斎王が置かれないという非常事態が起こりました。
鎌倉時代、斎宮は復活しましたが、事態は決して好転せず、承久3年(1221)の承久の乱で京方が鎌倉幕府に敗北してからは、天皇が即位してもすぐに斎王をト定(ぼくじょう)することが難しくなり、後深草天皇と亀山天皇の兄弟により、持明院統と大覚寺統に天皇家が分裂してからは、鎌倉幕府に依存を強める持明院統の天皇は斎王を置かなくなります。
こうした動きの中で、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、建武の新政で斎王制の復活を計画しますが、新政自体の崩壊により、斎王制度はついに終わりの時を迎えます。

■斎王の一覧■
伝承時代の斎王 斎王 天皇
豊鍬入姫(とよすきいりひめ)
倭姫(やまとひめ)
五百野(いおの)
伊和志真(いわしま)
稚足姫(わかたらしひめ)
荳角(ささげ)
磐隈(いわくま)
莵道(うじ)
酢香手姫(すかてひめ)
崇神・垂仁
垂仁・景行
景行
仲哀
雄略
継体
欽明
敏達
用明〜推古

時代 続柄 斎王 在任期間 群行 天皇


飛鳥


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奈良



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平安




















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鎌倉



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南北朝
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大来(おおく)
当耆(たき)
泉(いずみ)
田形(たかた)
[多紀](たき)
[智努](ちぬ)※
[円方](まどかた)※
久勢(くせ)※
井上(いのうえ)
県(あがた)※
小宅(おやけ)※
山於(やまのうえ)※
酒人(さかひと)
浄庭(きよにわ)※
朝原(あさはら)
布施(ふせ)
大原(おおはら)
仁子(よしこ)
氏子(うじこ)
宣子(よしこ)※
久子(ひさこ)
晏子(やすこ)
恬子(やすこ)
識子(さとこ)
掲子(ながこ)
繁子(しげこ)
元子(もとこ)※
柔子(やすこ)
雅子(まさこ)
斉子(きよこ)
徽子(よしこ)※
英子(はなこ)
悦子(よしこ)※
薬子(やすこ)
輔子(すけこ)
隆子(たかこ)※
規子(のりこ)
済子(なりこ)※
恭子(たかこ)※
当子(まさこ)
子(よしこ)※
良子(ながこ)
嘉子(よしこ)
敬子(たかこ)※
俊子(としこ)
淳子(あつこ)※
子(やすこ)
善子(よしこ)
子(あいこ)
守子(もりこ)
妍子(よしこ)
喜子(よしこ)
亮子(あきこ)
好子(よしこ)
休子(のぶこ)
惇子(あつこ)
功子(いさこ)
潔子(きよこ)
粛子(すみこ)
熈子(ひろこ)
利子(としこ)
c子(てるこ)
曦子(あきこ)
ト子(やすこ)
弉子(まさこ)
懽子(よしこ)
祥子(さちこ)
673〜686
698〜701
701〜706
706〜?




721〜?
?〜749
749〜?
758〜?
772〜?

782〜796
797〜806
806〜809
809〜823
823〜827
828〜833
833〜850
850〜858
859〜876
877〜880
882〜884
884〜887
889〜897
897〜930
931〜935
936
936〜945
946
947〜954
955〜967
968〜969
969〜974
975〜984
984〜986
986〜1010
1012〜1016
1016〜1036
1036〜1045
1046〜1051
1051〜1067
1069〜1072
1073〜1077
1078〜1084
1087〜1107
1108〜1123
1123〜1141
1142〜1150
1151〜1155
1156〜1158
1158〜1165
1165〜1168
1168〜1171
1177〜1179
1185〜1198
1199〜1210
1215〜1221
1226〜1232
1237〜1242
1244〜1246
1262〜1272
1306〜1308
1330〜1331
1333〜?
























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天武
文武
文武
文武〜元明
元明
元明
元明
元正
元正〜聖武
聖武
孝謙
淳仁
光仁
光仁
垣武
垣武
平城
嵯峨
淳和
淳和
仁明
文徳
清和
陽成
陽成
光孝
宇多
醍醐
朱雀
朱雀
朱雀
村上
村上
村上
冷泉
円融
円融
花山
一条
三条
後一条
後朱雀
後冷泉
後冷泉
後三条
白河
白河
堀河
鳥羽
崇徳
近衛
近衛
後白河
二条
六条
高倉
高倉
後鳥羽
土御門
順徳
後堀河
四条
後嵯峨
亀山
後二条
後醍醐
後醍醐

引用資料 斎宮歴史博物館

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