松浦武四郎について


弘化・嘉永期(1845〜1849)に個人として蝦夷地に渡っている。初航は弘化2年、請負商人の世話で東蝦夷地・知床半島を回った。翌年に再航し、樺太詰になった江刺の医師・西川春庵のもとで西蝦夷地と樺太を探検した。三航は二年後、請負商人の船に水夫としてもぐりこみ、シコタン、クナシリ、エトロフを回った。地誌はもちろん、体験したこと、聞き取ったことを各渡航ごとに日誌の形で記し、書き写したものを水戸藩主・徳川斉昭や幕府に献上し、蝦夷通として有名になった。

嘉永6年(1853)6月18日、武四郎を吉田松陰が訪れ、以後親しく交わる。武四郎は松陰と国防問題について意見交換をしたり水戸藩主斉昭の側近、藤田東湖と合わしたりしている。

安政期(1856〜1858)には幕府の役人として三回探査に入った。役人としての仕事に励むとともに、地誌の記録、地名の採集、圧制化でのアイヌの状況をつかむのに努力する。特に人口の減少には心を痛め、その原因である「場所請負制度」の廃止、幕府の「撫育同化政策」の転換を求めて上司に数多くの提言をした。このときの日誌は順に『廻浦(かいほ)日誌』『丁巳(ていし)日誌』『戊午日誌』と呼ばれた。またこの探査では「野帖」に数多くのスケッチと地図を残し、その後の地図制作の基礎資料となった。

「場所請負制度」
商人がお金を松前藩の上級家臣におさめて、上級家臣が持っている蝦夷地の領地(商場)の経営を領主に代わって商人が行なう制度。

「撫育同化政策」
江戸幕府は、ロシアの進出に対抗するため、東西蝦夷地を直接支配して、アイヌ(アイヌ語を母語とする人々)を和人化しようとする政策。

丙辰・丁巳・戊午の日誌をまとめてできたのが『東西蝦夷山川取調図』である。安政6年〜明治10年(1858〜1877)にかけて地域ごとにまとめて刊行した「普及版」のシリーズは、『石狩日誌』『後方羊蹄(しりべつ)日誌』『知床日誌』『十勝日誌』『納沙布日誌』『夕張日誌』『久摺(くすり)日誌』『天塩日誌』『東蝦夷日誌』『西蝦夷日誌』からなる。『恵土呂府(えとろふ)日誌』『渡島(おしま)日誌』は下書きのままであった。

案内役のアイヌの説明や、行った先々でのアイヌとの交流の中で、非常に多くの地名を採集した。北海道の地名のおもなものは、ほとんどがアイヌ語からできたものである。地形把握を中心に、先住民であるアイヌの知恵が反映されている。地名は地域住民の生活であり、文化でもある。明治2年、蝦夷地開拓御用掛に命ぜら、採集した地名をもとに北海道国名撰定上申書を提出し、道名・国名・郡名の制定に力を尽くす。


参考資料 北海道の歴史 開拓期
引用資料 松浦武四郎記念館

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