網走監獄の解説



博物館網走監獄も修学旅行で来るのね。
それにしてはずいぶん人数が少なかった。
1クラス分のようだった。

明治以前の北海道は流刑地とされ、
流刑者と一部の商人とアイヌ民族によって、少し開拓されているぐらいの未開地だった。
維新後は元士族出身の戦犯者が多く移送された。
収容人数をはるかに超える受刑者を受け入れるのに、
進路がなく、輸送手段が船しかない状況で、まず開拓に道路建設の必要性を認識していた。
中央道路と呼ばれる旭川・網走間の建設は2年必要といわれていたところ、
昼夜を問わず建設し、わずか半年で完成させた。
この年は雨が多く、造ったばかりの道路は雨でぬかるみ、
常に先へ先へと移動する作業場に物資供給が間に合わず、
それと過酷な労働によって多くの死者を出した建設であった。
そういう作業に受刑者労働が一番最適という見解だった。
炭坑も同じである。
最初はアイヌ民族にさせようと考えていたが失敗し、受刑者がこれを行った。

-30℃になる日もあり、そんな時も房内は0℃くらいにしかならない。
寝巻きはバリバリになっているので、
寒風摩擦をしてから着ないと、カゼ及び肺炎を起こすそうだ。
自殺防止のため布団を頭からかぶって寝てはいけない規則だが、
頭を出していると、自分が吐く息で頭が凍傷になる。

刑務所の外務所は、主に道路と耕地の開拓、一部鉄道・空港、戦争時は南方に行って空港も造っている。
主要な内陸道路の開削は囚人を使役して行われた。
明治20年頃に1400Kmにすぎなかった道路が末期に1Km万に、大正末期には4万Kmに達した。


引用資料 博物館網走監獄

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