北海道の歴史 本州とアイヌ民族



鎌倉時代の蝦夷地は幕府の流刑地で、
自身も蝦夷とされる安藤氏(14世紀以降は安東氏)が
「蝦夷管領」としてそれを管理し、津軽の十三湊を本拠としていた。

安藤氏は流刑者の管理権だけでなく、
蝦夷と呼ばれる人々を支配する権限(蝦夷沙汰権)を幕府から与えられた。
元の樺太進出により13世紀後半以降、蝦夷地は北からの影響を受けるようになった。
中国の黒竜江中・下流域、樺太支配を中心とする山丹交易の始まりもこの頃と考えられる。

安藤(安東)氏に代表される中世の蝦夷地は遠隔地との交易が盛んで、
津軽や渡島半島南部の中世の館からは大量の中国製陶磁器や渡米銭が出土する。
安東氏は15世紀末には「夷千島王」と称して朝鮮国王に特産物の昆布をそえ新書を送っている。
3つの蝦夷集団のうち、和人流刑者の土着した集団は、とりわけ交易活動に力を入れて政治的成長をとげ、
道南沿岸地帯に館を築いて館主となり、アイヌ民族の生活領域をおびやかしはじめた。

15世紀中頃、津軽の戦いに敗れた安東氏の渡来と交易価格をめぐる対立が契機となり、
両者間の長期にわたる戦いが始まった。
館主らは蠣崎(かきざき)氏によってしだいに統一され、蠣崎氏の本拠となった。
松前を中心に和人社会が形成されていった。
16世紀の中頃、蠣崎氏とアイヌ民族の首長との間に講和がなされ、
約1世紀にわたる戦乱はやみ、蠣崎氏の政治的地位は確立した。

天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東・東北征服に応じ、
蠣崎慶広は上洛して秀吉に謁し「狄之嶋主(えぞのしまぬし)」の待遇を受けた。
つづいて慶広は秀吉の朝鮮出兵にあわせて肥前名護屋に参陣し、
文禄2年(1593)に秀吉から朱印状を与えられた。
ついで慶長9年(1604)松前慶広(1599年に松前と改姓)は徳川家康から黒印状を与えられた。
こうしてアイヌ民族と交易できる和人は松前藩だけとする体制が確立した。


アイヌ民族もけんか両成敗を行う。
罪の分だけお互いをたたく。
不貞を許さず、犯した場合は死刑はないが手厳しい処罰がある。
耳そぎ・鼻そぎ・指切断、最悪がアキレス腱を切る。

エトピリカ・ラッコはアイヌ語。

クマは人間を襲うときは、必ず一度立ち上がって覆いかぶさるようにしてくるので、
ヤリを胸にあたるだろうところに立ててクマの前にしゃがむと、クマは自重でヤリに刺さり、
トリカブトによってもまなく死ぬ。


引用資料 北海道開拓記念館
       道立北方民族博物館
       川村カ子トアイヌ記念館

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