青森史



今から2万年〜1万8000年前頃の青森は寒冷な氷河期を迎え、
海水面は現在より140mも低下して、日本列島は大陸と陸続きとなり、
津軽海峡の一部は北海道とつながる。

今から1万3000年前頃、日本列島の気候は温暖化し、針葉樹の森にかわり、
ブナ・コナラなどの落葉広葉樹の森が北方に広がる。


北海道を中心とした続縄文式土器文化圏と、本州以南の弥生式土器圏がまざっている?


埋葬して白骨となったものをもう一度掘り出し、"かめ"に入れて再び葬る
"改葬かめ棺墓"が縄文後期からおこなわれています。
改葬する際に、骨を洗い清める「洗骨葬」が行なわれたのではないかと考えられます。
「洗骨葬」は沖縄地方では近年まで行なわれていた風習です。

■奈良時代の青森県■
平城京遷都(710)に始まる奈良時代に朝廷は律令体制の強化をめざし、
地方に国・郡を設けました。
東北地方には陸奥国のほかに出羽国を置き、蝦夷征討を推進するための城柵を造営しました。
そして、8世紀には宮城県、9世紀には岩手県にまで朝廷の力が及びました。

本県は律令国家の支配下に含まれませんでしたが、在地の蝦夷の中には
それ以前から帰順して朝廷と朝貢関係を結んだ者(俘因 ふしゅう)がいました。
蕨手刀(わらびてとう)など古墳の副葬品はその関係で通じてもたらされたものと思われます。

■平安時代の青森県■
平安京遷都(794)に始まる平安時代はおよそ400年間続きました。
延暦16年(797)征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)
は蝦夷征討を目的に東北経営にあたり、胆沢城、志波城(ともに現在の岩手県)を造営しました。
その後、弘仁2年(811)征夷大将軍になった文屋綿麻呂(ぶんやのわたまろ)は
爾薩体(にさせ)・閉伊(へい)の蝦夷を平定し、岩手県北部から青森県東南部にまで
北進するようになります。

蝦夷征討には、東北地方を律令体制に組み込むことが最大の目的でしたが、
このような過程を経て中央の文物や技術が導入され、
東北地方の社会や生活を大きく変えていきました。

■鎌倉時代の青森県■
文治5年(1189)源頼朝による奥州藤原氏の討滅(渡峡=蝦夷へ逃れた?)、
同年暮れに起こった大河兼任(おおかわかねとう)の乱の鎮圧によって、
奥羽地方における鎌倉幕府の支配権が確立し、本県もその支配下に入りました。
津軽地方においては、御家人曽我氏をはじめ工藤氏、結城氏などが北条氏得宗領
の地頭代として補任(ふにん)されました。
また、土着の豪族であったと考えられる安藤(安東)氏も北条氏によって
蝦夷管領の代官に任じられました。
鎌倉時代末期の元亨2年(1322)から嘉暦3年(1328)にかけて、安藤(安東)氏一族の間で
津軽大乱と呼ばれる内紛がありました。
一方、糠部地方にあたっては、横溝氏、工藤氏などが北条氏得宗領の地頭代として補任されました。

■南北朝 室町時代の青森県■
元弘3年(1333)の鎌倉幕府の滅亡、翌年の建武の新政、
そして南北朝の対立という動乱は青森県にも大きな動揺をもたらしました。
津軽では曽我氏、工藤氏、安藤(安東)氏などが朝廷方と幕府方とに分かれて争い、
大光寺・持寄の合戦が起こりました。
一方、北畠顕家(きたはたけあきいえ)の陸奥国代として糠部に下向した
南部師行(なんぶもろゆき)は、南朝方に加わり根城を根処地として活躍します。
やがて、南朝方の譲位によって明徳3年(1392)に南北朝は統一されます。
この間に曽我氏は南部氏によって滅ぼされたものと思われます。
また、安藤(安東)氏も15世紀中頃まで海上交易でめざましい活躍をしますが、
南部氏との戦いに敗れ、永亨4年(1432)北海道に逃れました。
このようにして、南部氏は青森県全域にその勢力を及ぼすようになります。

■統一政権と北奥■
豊臣秀吉の発した「関東・奥惣無事令」は以後、この地域の領主間の戦争を私戦とみなし、
違反した大名を討伐の対象とするとした法令ですが、
これを契機に各大名らが豊臣政権に個別に従属していくようになります。
北奥では、南部信直が前田利家をとおして豊臣政権との接触を図り、
一方南部氏の支配からの自立をめざしていた大浦(のちの津軽)為信も
鷹献上をはじめとする猛烈な中央工作によって豊臣政権との間に臣従関係を結ぼうとしていきます。
この結果、秀吉は1590年7月、小田原に参陣してきた信直に「南部内七部」の支配を認め、
同年末に上洛してきた為信にも翌年始めにかけて津軽部の支配を認めたとされています。

こうして現在の青森県域には、南部氏と津軽氏による二つの大名領が成立しますが、
それは関ヶ原の戦いに勝利した徳川政権下においても変動はなく
近世を通じてその支配が続くことになりました。

■津軽家■
津軽家が江戸幕府から安堵された所領は、はじめ4万石だったが、
慶長5年(1600)の関が原の合戦に際し、東軍に参加した津軽為信は
美濃大垣城攻めの功績により翌慶長6年(1601)2千石の加増を受けた。

このとき与えられたのが上野国勢多郡の6ヶ村で、現在の新田郡尾島町・新田町(現・太田市)、
佐波郡境町(現・伊勢崎市)にあたる。
尾島…大館村、安養寺村、下枝村
新田…村田村、赤堀村
境町…女塚村


引用資料 青森県立郷土館

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