三内丸山遺跡



■三内丸山遺跡■
青森県は、県総合運動公園の拡張に伴い、
平成4年度から三内丸山遺跡の埋蔵文化財発掘調査を行なってきました。
発掘が進むにつれて縄文時代の常識を超える出土品が続々と発見され、
約1,500年以上継続して営まれた日本最大の縄文集落跡として
全国的に例のないきわめて貴重な遺跡であることが明らかになりました。

特に平成6年7月に大型掘立柱建物跡が発見されたことで一気に保存を求める声が大きくなり、
青森県は平成6年8月に建設中であった野球場の工事を中止し、この遺跡を保存をする事を決定、
その後、周辺の発掘調査を行ない、一体の集落を形成していたと考えられる
39ha(開園面積は12.3ha)を遺跡の保存・活用区域としました。

現在、短期的な整備計画のもとに特徴的な建物の復原、
出土遺物・遺構の公開を行なっています。

今後、遺跡の調査・研究の成果に基づき本格的な整備を図ることにしています。

■三内丸山遺跡■
三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、江戸時代から知られている有名な遺跡です。
これまでの発掘調査で、縄文時代前期から中期(約5500年前〜4000年前)の大集落跡や
平安時代の集落跡(約1000年前)、中世末(約400年前)の城館跡の一部が見つかっています。

特に縄文時代の大集落跡からは、たくさんの竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、
掘立柱建物跡、大量の遺物がすてられた谷(泥炭層)、大規模な盛土、大人の墓、
子供の墓、土器作りのための粘土採掘穴などが見つかりました。

また、谷から見つかった動物や魚の骨、植物の種子や花粉からは、
当時の自然環境や食生活などを具体的に知ることができます。

さらに、ヒスイやコハク、黒曜石は遠方との交易を、
漆器は専門的な技術をもった人々がいたことを物語ります。

このように、三内丸山遺跡は、縄文時代の人々の生活を具体的に知ることができる貴重な遺跡で、
平成12年11月に国の特別史跡に指定されました。

青森県では、縄文時代の「むら」を体験できる公園として、三内丸山遺跡の整備を進めています。

■大型掘立柱建物跡(おおがたほったてぱしらたてものあと)■
地面に穴を掘り、柱を立てて造った建物跡です。
柱穴は直径約2m、深さ約2m、間隔がすべて約4.2m、中に直径約1mのクリの柱が入っていました。
地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐食しないで残っていました。
6本柱で長方形の高床の建物と考えられます。

この建築物については、建物説と非建物説がありますが、
青森県では調査の知見から建物説に立った復原をしました。
また用途についてもよくわかっていませんが、祭祀的な色彩の強い複合的な目的をもった
非日常的な公共の施設を想定しました。

■子供の墓<埋設土器>■
子供の遺体は、丸い穴を開けたり、口や底を打ち欠いたりした土器の中に入れられ、
住居の近くに埋葬されました。
これまでに、880基ほど調査されました。
また土器の中から、握りこぷし大の丸い石が1〜2個出土するものが多く、
埋葬時の習慣にかかわるものと考えられます。

■谷<泥炭層>■
この谷はゴミ棄て場として使われていました。
水分が多く空気からさえぎられていたので、土器、石器の他に、
通常では残らない木製品や漆器、動物の骨、魚の骨、ウロコ、植物の種子、
木の実、寄生虫卵などが良好な状態で残っています。

また、谷の中央部から北の川に向かって、幅約2m、長さ約60mの遵路が造られていました。
この道路には、土留め用の杭を打ち込んだり、崩落防止のために土器を貼りつけたところもあります。

■北盛土(きたもりど)■
竪穴住居や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器、石器などの
生活の廃棄物をすて、それが何度も繰り返されることによって周囲より高くなり、
最終的には小山のようになりました。
ここでは、こわれた土器が一面に敷き詰めらた様子が見学できます。

■大人の墓<土坑墓(どこうぼ)>■
大人は、地面に掘られた楕円形や小判型の穴に埋葬されました。
大人の墓は谷の東側に、同じ方向を向き、南と北の二列に並び、
道路をはさんで向かい合うように配置されています。
約220基が調査されており、中からヒスイ製ペンダントが出土した例があります。

■掘立柱建物跡(ほったてぱしらたてものあと)■
地面に穴を掘り、柱を立てて屋根を支えた建物跡です。
高床の倉庫と考え、復原しました。

■大型竪穴住居跡(おおがたたてあなじゅうきょあと)■
長さが1Om以上の大型竪穴住居跡が10数棟調査されました。
復原されたものは、最大のもので、長さが32mもあります。
とある大型竪穴住居跡は、縄文時代前期末(約5000年前)のもので、
規模は、長さ15m、幅10mです。
ほぼ中央に炉があり、6本の柱で屋根を支えました。
集会所、共同作業所、冬期間の共同家屋などの説があります。

■竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)■
縄文時代の家は地面を掘り込んで床を造りました。
中央には炉があります。
これまでに、約700棟が調査されました。
掘り込んだ床の形や家の構造は、時代によって、変化があります。
特に炉は、地面を掘りくぼめたもの、土器片を敷き詰めたもの、石で囲ったものなどがあります。

■南盛土(みなみもりど)■
北盛土と同じように、生活の廃棄物をすて、約1000年間で小山のようになりました。
土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと考えられます。
中から、大量の土器、石器の他に、土偶やヒスイ製の玉なども出てきました。
また、焼いた時に失敗した土器も棄てられていました。


引用資料 青森県総合運動公園遺跡ゾーン

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