おわりに

最後の第三章はあわてて書いたものであるため、筋が通り、そして説明しきれているであろうか、不安な代物となってしまった。しかも、自分の頭の中でしっかりと整理がつき終わったのではないので、なおさらそうであり、もう少しよく考えればさらにいい考えが湧きあがりそうな感じがある。何はともあれこの第三章を書くにあたり、より探く『般若心経』及ぴ、苦とは、空とは、さとりとは何であるのか、わたしなりに考えることができた。これはひとえに、U先生の助言のおかげである。

さて、卒業論文で何を書こうかと決める際に、はじめは親鸞の『歎異抄』でも書こうかと思っていたが、文献を『執異抄』についてだけに求めるのは難しく、他に資料や参考文献を多々必要なことがわかり、取りやめた。 『歎異抄』のように短く、よく知られ、貸料が探しやすく、植段も手頃に買えるものは、と本屋を見てわたっていたら、眼についたのが『般若心経』であった。漢文で、仏教用語だらけで、予備知識もなく、これは何であるか全くわからないものであったが、とにかく前述のとおりで、『般若心経』の中身について調べるだけで済みそうだったので単純な理由で決めてしまった。

そんな理由に反して、おおいに哲学的で、『大般若経』を要約したようなものであるから、”狭く・少し深く”『般若心経』の中で説かれていることは何であるかについてだけでも充分悩まされながら論じることになった。

「空」について調べようとすれば、『大般若経』をはじめ、ほとんどの大乗仏教に影響をおよぼした、というのだからその裾野はいくらでも広がるのである。そんなことまではわたしにはできない。だから『般若心経』で言わんとしていることを中心にし、集中できてとても助かった。漢訳のままでは何を説いているのかわからないが、『般若心経』についてのいろいろな本を読み、辞典で意味を調べ、白分でそれを解釈していくにつれて、しだいに「あ、なるほど」と思えるようにはなったが、智慧の会得までにはやはりいかない。それでも「空」についてはこの『般若心経』だけでも、ほのかに「知」として理解できるようになった。

「空」についてはさておき、『般若心経』の内容がしだいに明らかになっていきながらも、「空」の説明のあとには何が説かれているのかがさっぱり見当もつかなかった。そもそも「ギャーテー・ギャーテー」とは何であるか、なにを音写したものなのかがわからないのである。それが「呪」について調べているうちに、「商無阿弥陀仏」と同じことではないかと思った。このことばは「たいへん御利益があることばだから、唱えて仏さまに救っていただきましょう」ということをいっているのである。『歎異抄』との意外なつながりに驚き、感動してしまった。いくつか『歎異抄』についての本を読んでいたことは全くのむだではなかったのである。

『歎異抄』について論じようと思っていたころは、この世にとらわれ、なかなが悟れない凡夫を仏さまはどのようにして救ってくださるのかという、「大乗仏教」としての『歎異抄』とは何であるか、について考えてみたかった。だけど、あまりにも抽象的で、自分でもどのように進めたらいいのかわからなかったので取りやめたのだ。それがこの『般若心経』に思いもよらず、偶然にも当てはまってしまった。

大乗仏教の真髄とは「呪」ではなかろうか。「呪」によって、「小乗」とは違って出家、修行せずとも、万人にさとりをもたらす「大乗」を生み出したのではないだろうか。

この思いもよらなかっためぐりあわせにより、大乗仏教とは何かを知るチャンスができた。だが、これはまだ知り始めたばかりであり、そして今後とも引き続いて気にかける問題でもある。

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