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唱歌・歌謡の歴史



【1 文部省・唱歌】
(明治4年)文部省創設。
(明治5年)学制がしかれ、小学校の教科のひとつに「楽器に合わせて歌曲を正しく歌い、徳性の涵養情操の陶治を目的」にして“唱歌”という科目が置かれた。


【2 伊沢修二・音楽取調掛】
(明治8〜11年)伊沢修二がアメリカに留学し、教育諸船の調査勉学のかたわら、メーソンに音楽を学んだ。
(明治12年)東京師範学校校長に就任、国楽を興すため音楽取調の事業を行うことを献言。文部省直轄の音楽取調掛が設置された。


【3 小学唱歌初編(幼稚園唱歌集・中等唱歌集)】
(明治14年)伊沢修二とメーソンが中心となり、編集刊行した。「見わたせば」「蛍」「蝶々」など、外国曲と琴唄のようなものを33曲集刊。
(明治16年)第二編刊行。
(明治17年)第三編刊行。
(明治20年12月)幼稚園唱歌集刊行。
(明治22年)中等唱歌集刊行。
その他「明治唱歌」「国民唱歌集」「小学唱歌」などが発刊された。


【4 祝日大祭日唱歌】
(明治26年)「君が代」「一月一日」「元始祭」「紀元節」「神嘗祭」「天長節」「新嘗祭」など。


【5 君が代】
(明治13年)「君が代」は初め、軍楽教師フェントンの、儀礼音楽としての国歌を制定すべきであるとの意見で、大山厳が古今集の中から、琵琶歌「蓬来山」の中の“君が代”を選んで作曲させた。しかし、言葉とメロディーが合わなく、まもなく廃止された。その後海軍省が宮内省雅楽寮に作曲を依頼し(奥好義が作曲、林広季が手を入れて完成)、エッケルトの編曲により(明治13年11月3日)宮中において演奏されたのが「天皇陛下奉祝楽曲」であった。その後広まって、文部省が「祝日大祭日唱歌」に入れた。
(昭和52年)文部省は学習指導要領で国歌と規定した。


【6 鉄道唱歌(明治33年5月)】
「第一集」〜「第五集」まである。
版元の三木佐助(大阪)が、楽隊を東海道をうたって歩かせたのが宣伝になって大流行した。
作詞は国文学者の大和田建樹、作曲は東京音楽学校講師の上貞行と大阪師範学校教論の多梅稚の2曲を挙げ、大衆の選択に委ねた結果、多梅稚の曲が愛唱されるようになった。
「汽笛一声新橋…」の文句は「汽車の旅」にあり(明治26年4月)「鉄道線路レール工節」がすでに出版されており、大和田の「鉄道唱歌」の歌詞は完全なオリジナルではなかった。


【7 言文一致童謡運動】
文部省の唱歌の歌詞は歌人や国文学者であったため、美文、名句が多く子供には難解であった。
子どもには子どもの言葉でという主張が起こり、田村虎蔵、納所弁次郎、石原和三郎、芦田恵之助らが、童謡に基づく歌を作った。「ももたろう」「金太郎」「花咲かじじい」「うさぎとかめ」「大黒さま」「一寸法師」。


【8 文部省唱歌】
言文一致唱歌に対し、東京音楽学校を中心とする一派から、唱歌の品を害するものと反対の声が起こり、気品の高い唱歌を作ろうという意図で編纂された。
(明治43年7月)「尋常小学校読本唱歌」最初の文部省唱歌。編集者、上貞行、小山作之助、他。
(明治44年5月〜大正3年6月)にかけて「尋常小学唱歌」全六冊が刊行。
この文部省唱歌には作詞、作曲の名前が書かれなかった。戦後になって作曲者の明記がされるようになった。
(昭和4年)「高等小学唱歌」
(昭和6〜7年)「新訂尋常小学唱歌」(1〜5)
(昭和16年)「ウタノホン」(上・下)
(昭和17〜18年)「初等科音楽」(1〜4)
(昭和19年)「高等科音楽」


【9 新劇(芸術座)】
(大正2年9月)島村抱円、松井須磨子らによって第一回旗揚げ公演、メーテルリンク「内部」。
(大正3年3月)第三回公演、トルスト「復活」。
この劇中に歌われた「カチューシャの唄」が大ヒット、レコード三万部も売れた。
作曲の中山晋平は、島村抱円の書生をしながら東京音楽学校を卒業した。中山にとって初めての作曲となる。「日本民謡と西洋のメロディーを折衷したものを」との島村の要求であった。ララかけましょうかのララは、以後の中山の噺し言葉の名人としての第一歩であった。
中山も後の藤浦洸も、松井須磨子は歌がヘタオンチだと批評した。
(大正4年)ツルゲネフ「その前夜」の劇中歌「ゴンドラの唄」も大ヒットし(大正6〜7年)、戦後に黒沢明の「生きる」で志村喬が歌ってリバイバルした。


【10 帝劇オペラ(帝国劇場)明治44年8月】
帝劇以前のオペラ
(明治27年11月)上野の音楽学校講堂で「ファウスト」が上演されたが、素人の学芸会程度のものであった。
(明治36年)「オルフォイス」三浦環初出演。
(明治44年3月)帝国劇場が開場、渋沢秀夫等が設立。
(明治44年8月)専属管弦楽団とともに歌劇団が誕生。
(明治45年2月)第一回公演、ユンケル作曲「熊野(ゆや)」。清水金太郎、三浦環主演。
謡曲「熊野」をオペラ化したものだが、日本語をあまり理解していないユンケルのこのオペラは珍妙なものであったけれど、大うけした。
(大正2年)「熊野」を見た小林一三が、宝塚少女歌劇を設立。
(大正2年)イタリア人ローシーを演出に招き「魔笛」「お蝶夫人」「天国と地獄」「ボッカチオ」などが次々と上演された。「恋はやさし」「ベアトリ姐ちゃん」等の曲が好評であった。
(大正5年5月)歌劇部は解散。


【11 浅草オペラ】
(大正6年2月)浅草、常磐座で「女軍出征」初演。伊庭孝(出演・脚本)、高木徳子。大当たりし、連日満員の盛況であった。
(大正6年10月)常設劇場「日本館」が開場。石井漢、佐々紅華らが結成した「東京歌劇座」旗揚げ公演、佐々紅華のオペレッタ「カフェーの夜」「軍出征」、山田耕筰の「明暗」等があった。
「カフェーの夜」の中の「コロッケの唄」「おてしさん」は大流行した。
(大正8年2月)「天国と地獄」は清水金太郎、静子夫妻を迎えて公演し、大人気を博した。
(大正8年3月)田谷力三、井上起久子らが集まって「原信子歌劇団」が組織され「ボヘミアンガール」「ブン大将」などが公演された。
この他にも多くの歌劇団が組織された。「東京少女歌劇団」「東京歌劇団」「常磐歌劇団」「七声歌劇団」など、離散、集合を繰り返した。
(大正12年)関東大震災とともに壊滅した。


【12 童謡運動】
(明治44年)頃から、野口雨情は詩集「朝花夜花」、岩野泡鳴は「庭のつつじ」「観覧車」「少女」「からす」などの口語新体詩を発表している。
(明治45年7月)吉丸一昌の「幼年唱歌」(新作唱歌)が刊行された。第一集から第十集まで。
染田貞、大和田愛羅、中田章、本居長世、船橋栄吉、弘田龍太郎、松下つね等がこれに作曲する。「お玉じゃくし」「早春賦」「だるまさん」はその中の一つ。これらがレコード化され、だんだんと広まっていく一方で、(大正5年)「良友」、(大正6年)「少女号」「少年号」などの児童雑誌が発行され「赤い鳥」の発刊に至る。


【13 赤い鳥(大正7年7月)】
鈴木三重吉が北原白秋、西条八十らに「芸術として真価ある童話や童謡を創作したい」と呼びかけ、「赤い鳥」が発行された。その中には白秋の「雨」「赤い鳥小鳥」、八十の「かなりや」、雨情の「十五夜お月さん」などが発表された。
その後「おとぎの世界」「こども雑誌」「金の船」(金の星)などが創刊された。白秋、八十、雨情の三人が抜きん出て多くの名作を作った。
作曲者も本居長世、中山晋平、草川信、藤井清水、弘田龍太郎、成田為三、山田耕筰、近衛秀磨、染田貞、杉山長谷夫など多くの作曲家が童謡を作曲した。
(明治3年)レコード会社の企画により童謡が作り出されるようになる。佐々木すぐる「昭和の子供」、河村光陽「グッドバイ」「かもめの水兵さん」「船頭さん」、山口保治「ないしょ話」など、多少俗調な童謡も出るようになった。


【14 戦前の童謡歌手とレコード化】
(大正8年)最初にレコードになったのは、佐々紅華のお伽歌劇「茶目子の一日」。
(大正9年)成田為三「かなりや」。
(大正10年)童謡歌手の第一号は、本居長世の長女本居みどりが「十五夜お月さん」をレコードに吹き込んだ。貴美子、若菜の三人の娘と一緒に全国で演奏活動をして童謡の普及につとめた。
(大正11年)村山道子、久子姉妹がレコードを吹き込み、中山晋平の歌を多く歌う。道子はNHKの歌のお姉さんとしてラジオで活躍。
(大正13年)平原寿恵子(元東京音楽学校教授)「叱られて」を東京レコードに吹き込む。
(昭和4年)宮下晴子(日東レコード)「夕焼け小焼」「あんよはおじょうず」など。姉の礼子も童謡歌手。
(昭和5年)平井英子(ビクター)名童謡歌手。中山晋平に見出される。
永園志津子(ポリドール)佐々木すぐるの門下生。
中島けい子(コロンビア)長谷基孝の門下生、銀杏童謡学園?の会員、すばらしい声の持ち主。
(昭和6年)福田信子(キング)
河村順子、陽子、博子は、河村光陽の三人娘。順子は60年の歌手生活を歩む。
(昭和7年)平山美代子(ビクター)名童謡歌手といわれる。500曲あまりを吹き込む。
大川澄子(コロンビア)佐々木すぐるの門下生、ラジオ体操の歌などで知られる。
中山梶子、中山晋平の娘。
(昭和11年)尾林まさ子(ビクター)
飯田ふさ江(コロンビア)長谷基孝の門下生。
(昭和14年)高橋祐子(コロンビア)佐々木すぐるの門下生「めんこいうま」。
杉山美子(ビクター)
(昭和18年)川田正子(ビクター)孝子、美智子の三姉妹も活躍。海沼実の主宰した「音羽ゆりかご会」は現在も続いている。


【15 軍国童謡】
(昭和6年)満州事変後は軍国童謡が中心となった。
「兵隊さんありがとう」「お山の杉の子」(昭和20年)


【16 戦後の童謡】
(昭和22年)NHK連続放送劇「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」。
海沼実「みかんの花咲く丘」「おさるのかごや」「からすの赤ちゃん」「かえるの笛」「ちんから峠」、山口保治「かわいい魚やさん」「ないしょ話」、山本雅之「もりのこびと」など、放送、レコードによる、童謡作家、童謡歌手によって紹介され好まれた。
サトーハチロー等はこれらの童謡は幼稚で低俗だと批評し、芸術的な新童謡が作られるようになった。
NHKの(歌のおばさん)等に團伊玖磨「ぞうさん」「おつかいありさん」、中田喜直「めだかの学校」「かわいいかくれんぼ」「小さい秋見つけた」、大中恩「バスのうた」「サッちゃん」「ぞうさん」など多くがラジオなどで紹介され広く親しまれてきた。
近年はテレビの子供番組などから「山口さんちのツトムくん」「およげたいやきくん」等が出たが、CMソングなど音楽が多様化し、童謡としての曲はヒットしなくなった。


【17 新民謡】
筑波山麓の「二八八夜」、横瀬夜雨の「茶摘唄」など、農士に芽生えた素朴な民謡が野口雨情によって確立されていく。
(大正8年)野口雨情、藤沢衛彦、藤森秀夫、馬場孤蝶、霜田史光などが発起人となり、民謡開発のための募集運動により、女子音楽学校で民謡講演ならびに演奏会を催したのが最初であった。
“小唄”“都々逸”風なものから“土の民謡”への新しい芸術的な詩へと、多くの詩人等は発表していった。
(大正10年)野口雨情の民謡集「別後」。
(大正11年)北原白秋「日本の笛」、野口雨情の門下生の島田芳文の「郵便船」。
(大正12年)時雨音羽「うり家札」が出版された。
(大正11年)「船頭小唄」が映画化された。
(大正12年)関東大震災後に「船頭小唄」「籠の鳥」が流行した。モボ、モガという新風俗が見られた。

中山晋平の新民謡
(昭和3年)日本でレコードが作られるようになった。
第一号「波浮の港」、その後「紅屋の娘」「東京音頭」「愛して頂だい」「天龍下れば」「さくら音頭」といった晋平節が次々とレコード化されヒットした。その後「須坂小唄」を作ってから地方民謡が多く作られた。
晋平は、日本古来の言葉や旋律、リズムを取り入れて生活に密着した曲を作るように心がけ、固定の唱歌のような堅苦しい言葉や旋律を否定していた。

地方小唄
地方民謡が作られる一方、“観光PRソング”として地方小唄が作られるようになった。
(大正12年)「須坂小唄」がきっかけとなり、(昭和2年)「三朝小唄」(山陰、三朝温泉)、(昭和3年)町田嘉章の「ちゃっきり節」、中山晋平の「龍峡小唄」「天龍下れば」、山田耕筰の「松島音頭」が作られた。
この年、国立公園が制定され、観光地の小唄がブームとなった。
(昭和3年)日本民謡協会が設立され、雑誌「民謡詩人」が出版された。
作曲家としては中山晋平、藤井清水、橋本國彦、草川信、小松平五郎、小松清、宮原禎次、露木次男、平岡均之、等。
(昭和4〜5年)地方にも新民謡のグループができ、今日ある有名な民謡はこの頃ほとんどできたといってもよい。


【18 ラジオ放送とレコードの国内製作】
(大正14年3月)ラジオ放送が開始。
ラジオによる歌の放送によって、レコードのヒット盤の宣伝となり、流行歌のレコードが多く誕生した。
(昭和3年4月)ビクター
ビクター第一回発売「波浮の港」「出船の港」「鉾をおさめて」等中山晋平の曲。
「私の青空」「アラビアの唄」などのジャズ。
(昭和3年12月)「君恋し」、(昭和4年5月)「東京行進曲」が流行歌として作られた最初のもの。

(昭和4年6月)コロンビア
コロンビア第一号「沓掛小唄」。
ビクターに在籍していた古賀政男をコロンビアにスカウトし、(昭和6年6月)「キャンプ小唄」、(8月)「酒は涙か溜息か」、(11月)「丘を越えて」(藤山一郎唄)が大ヒットし、ビクターの中山晋平と相対した。

(昭和5年8月)ポリドール
「酋長の娘」「野崎小唄」「すみだ川」を発表。
(昭和9年)「赤城の子守唄」「国境の町」など、東海林太郎を起用し股旅物でヒットした。

(昭和6年1月)キング
「マドロス小唄」「山は夕焼」「マロニエの木蔭」など。

(昭和10年)テイチク
大阪から東京へ進出したテイチクは古賀政男をスカウトし「ハイキングの唄」「二人は若い」「緑の地平線」「東京ラプソディー」等連続ヒットさせた。


【19 流行歌の誕生(流行歌作曲家の誕生)-流行-音楽統制】
レコードの隆盛により流行歌が生まれ、それまでの音楽学校出身の作曲家から、流行歌作曲家へと移った。
古賀政男、佐々紅華、古関裕而、服部良一、細川潤一郎、佐々木俊一など、中山晋平のヨナ抜きの5音短音階のメロディー(晋平節)が日本人の心に受け入れられ、(それまでの唱歌的な歌でなく)それが古賀政男等に受け継がれ流行歌という分野が誕生した。

<主な流行歌>
(昭和11年)「忘れちゃいやよ」渡辺はま子歌
(昭和12年)「裏町人生」
(昭和13年)「雨のブルース」「支那の夜」「満州娘」「バンジョーで唄えば」
(昭和14年)「一杯のコーヒーから」「旅姿三人男」「名月赤城山」
(昭和15年)「湖畔の宿」「目ン無い千鳥」「蘇州夜曲」
(昭和16年)「十三夜」童謡(めんこい仔馬、たきび、里の秋、うみ、おうま、たなばたさま)
(昭和17年)「新雪」「鈴懸の径」「南から南から」
(昭和18年)「勘太郎月夜唄」「お使いは自転車に乗って」

<音楽統制>
流行歌、ジャズ、シャンソンなど大衆音楽は大量に発表されたが、軍国主義とともにだんだん統制されていった。第一段階は、健全な歌を推し進めた「国民歌謡」(昭和11年)。
(昭和15年)興行も演奏者もすべて登録とし、許可証がないと演奏もできなかった。
(昭和16年)音楽雑誌もすべて廃刊し統制される。
(昭和18年)には「音楽文化」「音楽知識」の二種、米英音楽のすべてを追放される。


【20 歌謡曲の詩】
明治の中期、藤村、晩翠、泣薫、花外、有明等による(新体詩)、文語調の七五調の形式が確立した。単調で硬さがあるが、「寮歌」「軍歌」には確していた。
これに端唄や小唄からきた五・七・五調、七・七・七・五調の歌謡調(今様調)になり、これが「新民謡」ものの詩に多く用いられた。
ジャズやシャンソンなどが入り込み「君恋し」などの四音十四音詩、「丘を越えて」の三音十四音など、自由な形式で書かれるようになる。戦後に至っては、フォークやロカビリーなど、シンガー・ソングライターはまったく自由な形式で書かれている。


【21 国民歌謡】
(?、小唄)や(股旅物)など頽廃的な歌が流行したのを不快に思っている人々から健全な歌を、という声が起こり、これに応えて放送局が国民歌謡を放送し始めた。
(昭和11年6月)(月〜土、午後0:30〜5分間)同じ歌が歌われた。
第一回(大阪放送局)服部良一「日本よい国」、奥村良三指導。
第二回(東京放送局)小田進吾「朝」。以後、大阪、東京交互で行う。
第三回(大阪放送局)大中寅二「椰子の実」、東海林太郎指導。
平井康三郎「平城山」、内田元「夜明けの唄」、古関裕而「鈴蘭の花」、(昭和13年)信時潔「海行かば」など、五年間に150曲が放送された。
(昭和16年2月)<われらのうた>と改称され、戦時色の濃い歌が中心となり、(昭和20年)「お山の杉の子」佐々木すぐるで終わる。
(昭和22年月)<ラジオ歌謡>として再出発。古関裕而「三明月娘」、米山正夫「山小屋の灯」、八州秀章「あざみの歌」「さくら貝の歌」など、たくさんのヒット曲を送り出した。


【22 ジャズ音楽の渡来】
(大正1年)波多野バンド(五人)により編成、アメリカ航路の東洋汽船「地洋丸」に乗り組んで、本場アメリカのジャズに接し演奏活動をしていた。
(大正8年)銀座の金晴館の館主に口説かれ船を降り、ハタノ・オーケストラを組織した。
(大正10年)横浜、花月園舞踏場に、ダンスバンドとして専属となった。仁木多喜雄、岡村雅雄、寺尾誠一、前野港造などがメンバーにいた。
大阪にもカフェー「パウリウス」が生まれ、南里文雄等がいた。
その他、学生のバンドもぼつぼつ現れた。
(大正14年)JOAKの本放送が始まったとき、ジャズの放送のために日響のメンバーで(東京ブロードキャスターズ)を組織し、演奏歌手として二村定一がいた。
(昭和3年)レコードが製作されるようになると、ジャズもレコードに吹き込まれ発売された。
「私の青空」「アラビアの唄」等、二村定一によって吹き込まれた。
また、和製ジャズの作曲も試みられ、佐々紅華の「君恋し」は和製ジャズの第一号として、これも二村定一によって歌われた。
(昭和7年)紙恭輔が米国留学から帰国し、日比谷公会堂で本格的なシンフォニックジャズ(コロナ・オークストラ)で「ラプソディ・イン・ブルー」などを演奏。
(昭和15年)ダンスホールの営業停止。
(昭和18年)敵国音楽のすべてを中止した。


【23 シャンソンの移入】
(昭和2年)宝塚歌劇で岸田辰弥が演出したレビュー「モン・パリ」の中で、シャンソンをふんだんに取り入れる。
(昭和4年)その主題歌「モン巴里」がコロンビアから発売される。
(昭和5年)白井鉄造の新作「パリゼット」上演、その主題歌は「すみれの花咲く頃」。
(昭和6年)ルネ・クレールの名作「巴里の屋根の下」を日本で上演。主題歌を田谷力三が歌ってヒットした。
(昭和8年)同じく「巴里祭」が輸入される。シャンソン歌手として佐藤美子、橘かおる、芦原邦子等がいた。
(昭和11年)淡谷のり子がコロンビアで「暗い日曜日」を吹き込む。
(昭和13年)「シャンソン・ド・パリ」という6枚組のアルバムがコロンビアで発売。12,000セット売れた。
(昭和15年)同第二集も22,000セット売れた。
(昭和18年)すべての敵国音楽を禁止。
(昭和27年)“日本シャンソンクラブ”が結成される。
(昭和32年)シャンソン喫茶が各所にオープンする。イベット・ジローも来日し、日本のシャンソン界の最盛期であった。


【24 軍歌と軍国歌謡】
第一期(日清戦争のとき)「勇敢なる水兵」「豊島の戦」
第二期(日露戦争のとき)「戦友」「橘中佐」
第一・第二期の軍歌は、長く叙事詩形式がとられている。物語詩で戦いの様子や兵士たちの姿を具体的に描いている。
<語りもの>謡曲、浄瑠璃。琵琶歌、浪曲などの名残りがある。
第三期(日中戦争〜太平洋戦争)(昭和13〜20年)
哀愁をおびた歌謡調のものと、志気昂揚のために国を挙げて音楽を利用した。
懸賞公募による詩、曲が多い。
(昭和12年)古関裕而「露営の歌」、瀬戸口藤吉「愛国行進曲」
(昭和14年)新城正一「愛馬行進曲」
(昭和15年)古関裕而「暁に祈る」、森義八郎「紀元二千六百年」、飯田信夫「隣組」、江口夜詩「月・月・火・水・木・金・金」
(昭和16年)仁木多喜雄「めんこい仔馬」「歩くうた」
(昭和17年)高木東六「空の神兵」
(昭和18年)古関裕而「若鷲の歌」


【25 音楽著作権】
(明治32年)ベルヌ条約「万国著作権保護協会」加入。
(大正11年)「作歌者組合」設立。
(大正14年)「作曲家組合」設立。
(昭和5年)放送にも著作権料を払うようになる。
(昭和6年)ドイツよりプラーゲ博士が来日。著作料の支払いを要求。
(昭和15年)「大日本音楽著作権協会」設立。代表、増沢健美。

(父の書いた原文を読みやすくするため、加筆・修正をしています。)

参照


五味比左志〜合唱とともに〜