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主な 作詞者・訳詞者 (アイウエオ順)



【石川啄木(1886〜1913)】
 岩手県日戸村、曹洞宗の住職の子として生まれる。14歳、盛岡尋常中学のとき、上級生の及川古志郎、金田一京助の影響をうける。詩誌「明星」を愛読し与謝野夫妻に心酔する。後に鉄幹から啄木の名を授かる。多くの詩を発表して新進詩人として注目される。父親が住職を追われ、一家の貧困と病気など家庭の不和離散をくりかえす。啄木も小学校の代用教員を務めたり、北海道へわたったり、詩人として身を立てようとして上京し、「一握の砂」など発表したが、貧困から抜け出せず、26歳で母親の死を追うようにその生涯を綴じた。


【岩谷時子(いわたにときこ)(1916〜 )】
 作詞家、翻訳家.本名.岩谷トキ子。神戸女学院英文学科卒業。宝塚歌劇団出版部、(昭26)東宝文芸部を経て、越路吹雪のマネージャーをする傍ら、作詞、訳詞を行う。「愛の賛歌」の訳詞の他、作詞では(昭39)「夜明けの歌」「ウナセラ・ディ東京」で日本レコード大賞。(昭41)「君といつまでも」(昭44)「いいじゃないの幸せならば」でも受賞する。ミュージカルの訳詞でも「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」を手がける。


【内村直也(1909〜1990)】
 劇作家。本名.菅原実。慶応大学経済学部卒業。大学在学中から岸田国士に師事。演劇誌「劇作」の創刊同人になり、(昭10)「秋水嶺」を発表。卒業後父の会社に入社し、劇作家と二足のわらじをはく。(昭23〜26)ラジオ番組「えり子とともに」が放送される。その中で「雪の降るまちを」が作られる。(昭27)劇作家に専念する。ラジオ・テレビドラマの放送作家として活躍する一方、近代心理劇の脚本も書き、劇の発展に貢献した。


【永 六輔(1933〜 )】
 生家は浅草の寺。早稲田大学文学部中退。(昭27)NHK「日曜娯楽版」への投書家から、トリロー・グループの文芸部員になる。詩人、随筆家、シナリオ作家、ミュージカル台本、ディスク・ジョッキー、そして全国を旅して回ることが多いことから、各地の民俗芸能にも詳しい。著書も多く、多才な活動家として知られている。


【江間章子(1913〜 )】
 新潟県生まれ。小学校は岩手県で過ごす。静岡高女を卒業し上京、駿河台女学院専門部を卒業。百田宗治の「椎の木」の同人となり、(昭10)第1詩集「春への招待」を発表。戦後は「現代詩」「日本未来派」に参加、また日本女詩人会の機関誌「女性詩」の編集も務める。詩集に「花の四季」「イラク紀行」、詩編集に「詩へのいざない」、訳詞に「エミリー・ディッキンソンの生涯」などがある。


【大木惇夫(おおさあつお)(1896〜1977)】
 1913年広島商業学校卒業。上京後出版社に勤務、23歳のときに小説「弱者」を発表して、その後文筆活動に入る。北原白秋に師事、処女詩集「風、光、木の葉」など詩集16巻、訳詩集10巻?などがある。67年紫綬褒章、72年勲四等旭日小綬賞。


【大木 実(1913〜1996)】
 東京本所で生まれる。7歳で母親と死別、大震災で義母と弟妹を失う。電機学校へ入学したが中退。店員、事務員、工員、兵役など転々とした暗い半生を送る。
 小学3年のとき「赤い鳥」を知り童謡に興味をしめす。16歳のとき犀星に関心を持つ。27歳のとき丸山薫を訪ね、氏の推薦で「四季」の同人に加わる。28歳サイゴンから復員。38歳で大宮市役所に勤める、その後27年間地方公務員をしながら詩の創作を行う。


【大手拓次(1887〜1934)】
 群馬県磯辺温泉鳳来館が生家。17歳のとき中耳炎と胸を患い休学。入院中詩人としての希望を抱く。20歳早稲田大学英文学科入学。そのころから詩を投稿し始める。29歳ライオン歯磨広告部に入社。萩原朔太郎と出会い、文通が始まり親交を深める。34歳「白い狼」の一群を発表。この頃から病気が再発し始め入退院を繰り返すが、ついに回復しなかった。


【丘灯至夫(1917〜 )】
 作詞家。本名.西山安吉。郡山商業卒業。(昭16)NHK郡山放送局に入局。翌年毎日新聞社に勤務、戦後は東京本社毎日グラフ編集部に移る。(昭24)日本コロンビアの専属となり、「高校三年生」などのヒット作がある。


【尾崎喜八(1892〜1974)】
 詩人、随筆家。東京京橋生まれ。京華商業卒業。中井銀行に就職。この頃から文字に親しむようになる。(明44)高村光太郎を知る。(大5)には武者小路や千家元麿ら白樺派の詩人達と知り合う。(大13)結婚し若い妻と都京下高井戸に住み、畑を耕しながら田園につつまれた生活の中で、詩や文を書く。(大11)「空と樹木」、(大13)「高原雲の下」、(昭2)「曠野の火」を刊行。“山と高原の詩人”と称される。


【鹿島鳴秋(かしまめいしゅう)(1891〜1954)】
 童謡詩人、作家。本名.佐太郎。東京深川生まれ。大正初期に清水かつらと小学新報を起こし、雑誌「少女号」を発行し、多くの童謡を発表する。「金魚の昼寝」「お山のお猿」「浜千鳥」など弘田龍太郎の曲で知られている。戦時中は満州に渡り「満州日々新聞」学芸部に勤め、戦後は日本コロンビア専属となる。その後は学校劇を中心に活動し、「学校童謡劇集」「学校歌劇脚本集」などを創作した。


【勝田香月(1899〜1966)】
 静岡県沼津市生まれ。19歳で国民中学会の編集長となる。苦学の末日本大学に学び、同大学新聞を創刊する。平井晩村、生田春月の指導を受け詩を作るようになる。(大8)「旅と涙」、(大9)「どん底の微笑」、(大11)「心のほころび」、この巻頭に「出船」が収まっている。社会民衆党の政治家としても活躍した。


【加藤周一(1919〜 )】
 医師、文芸評論家、詩人、作家。東京帝国大医学部卒業、医学博士。一高在学中に福永武彦、中村真一郎らと知り、大学に入ってから共著「1944分学的考察」を刊行。1926〜1930年留学生としてヨーロッパ各地の文化を研究。医師をしなから文壇活動を行う。
 東京都中央図書館館長、立命館大学教授、平凡社の「大百科事典」の編集長も務める。


【菊田一夫(1908〜1973)】
 劇作家、演劇プロデューサー。本名.数男。不遇な幼年時代を過ごす。(昭4)浅草公園劇場の文芸部に入る。やがて古川緑波と提携「花咲く港」などの戯曲で頭角を現す。戦後、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」で人気を得、さらに「君の名」のヒット作を生み出す。(昭30)東宝取締役となり、「がめつい奴」「放浪記」などを手がける。


【北原白秋(1885〜1942〕】
 福岡県柳川生まれ。本名.隆吉。早稲田大学英文科予科中退。ドイツ歌曲にはゲーテの存在が大きく影響しているように、北原白秋の詩がなければ、これほど多くの皆んなに親しまれる歌曲が誕生しなかったのではないかと思う。初期の詩集は象徴詩の影響に世紀末的情緒が加わり、《邪宗門》などの詩をへて独自の詩風を築く。旺盛な創造力と絢爛豪華な言葉を駆使し、唯美文学運動の中心人物である。鈴木三重吉の《赤い鳥》に参加し、多くの童謡を発表する。“童謡は童心 童語の歌謡である”とか“新しい日本の童謡は根本をわらべうたに置く”と主張している。白秋の詩に最初につけられた歌は「城ヶ島の雨」で、これが芸術歌曲と大衆歌謡の中間を行く抒情新歌謡の原点となる。


【北見志保子(1895〜1955)】
 詩人、作詞家。本名.浜あき子、別名.山川朱実。中国派遣教員養成所卒業。(大14)小泉千樫に師事。水町京子らと女流「草の実」を創刊。(昭10)北原白秋にも師事し、「多磨」の同人となる。「平城山」など平井康三郎の作曲により有名になった作品も多い。


【近藤朔風(1880〜1915)】
 本名.近藤逸五郎。東京外語大で独英伊語を学ぶ。のち東京音楽学校選科で声楽を研究。主としてドイツ近代歌曲を選び訳詞を付した。「野ばら」「ローレライ」「菩提樹」などが教科書にも載り、誰もか口ずさんだことのある名訳が多くある。


【西條八十(1892〜1970)】
 東京牛込生まれ。1915年(大3)早稲田大学英文科卒業。1924〜1926年仏ソルボンヌ大学で古典文学を学ぶ。19歳の時、処女詩集「砂金」を発表。1919年(大7)鈴木三重吉から《赤い鳥》に載せる童謡を頼まれ「かなりや」を作詩し、この詩に彼としては初めて曲がついた。そして多くの童謡を書く。母校の教授として仏文学を教えていたが、ある少年との出会いにより詩人の道へと歩む。レコード会社の専属になり、「東京行進曲」「十九の春」など歌謡曲の分野でも次々とヒットを出す。


【佐伯孝夫(1902〜1981)】
 詩人、作詞家。本名.和泉孝夫。早稲田大学仏文科卒業。在学中西条八十に師事。「白孔雀」などを発表。卒業後、国民新聞を経て(昭12〜19)東京日日新聞に勤務。この間、ビクター専属となり作詞家活動をする。「湯島の白梅」「鈴懸の径」戦後では「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」などのヒット作がある。


【サトウハチロー(1903〜1973)】
 「少年倶楽部」の人気作家、佐藤紅緑の長男として、東京・牛込に生まれる。本名.佐藤八郎。長男なのに八郎と名を付けられたのは、祖父の八人目の孫だったから。再婚の継母(この母の妹が佐藤愛子)を嫌い14歳頃から酒を飲み放蕩を繰り返した。立教大学中退。西条八十、辰野隆に師事。ポリドール、コロンビアらの専属になり、数多くの歌謡曲の詩を作る。マンドリンを弾き楽譜が読めることから、はめ込みの歌詞を得意とした。野球が得意で、スポーツの趣味の広い人だった。戦後は野上彰らと新童謡運動を展開、中田喜直らと組んで多くの傑作を残した。ペンネームが多く、11の名前をもっていた。


【佐藤春夫(1892〜1964)】
 和歌山県新富市に医師の子として生まれる。父親は正岡子規に私淑した俳人でもあったので、季語から春夫と命名した。16歳のとき詩歌誌「明星」に投稿、啄木の選に入った。詩人堀口大学と共に慶応大学文学部に入学。大学を中退、女優と同棲を始める。25歳のとき谷崎潤一郎と運命的に出会う。(大10)「秋刀魚の歌」発表。(大13)小田中タミと新居を構え、作家としての地位を歩む。それもつかの間(昭2)谷崎潤一郎の夫人小林千代と結婚することになる。


【里見 義(さとみただし)(1824〜1886)】
 福岡県生まれ。明治元年、会津落城後の警衛を命ぜられる。(明3)豊津中学校教師から校長になり、(明7)県社番春宮祠官となる。(明14)音楽取調掛御用、在任中に伊沢修二の唱歌の作製に協力しいくつか作詞する。小学唱歌としてのみで作詞者の名前は記載されていなかったので、最近まで里見の名前は知られなかった。その後(明16)文部二等属・編集局勤務となる。


【時雨音羽(1899〜1980)】
 本名.池野音吉。北海道利尻島生まれ、日本大学法学部卒業。大蔵省主税局織物課に勤めるかたわら詩を書く。(昭3)日本ビクターが出来たのをきっかけに専属となり「出船の港」「鉾をおさめて」「浪速小唄」「君恋し」などの流行歌の作詞者として活躍する。シナリオ、随筆等も書く。


【島崎藤村(1872〜1943)】
 本名.春樹。木曽馬籠宿の庄屋の家系に生まれる。9歳で上京、明治学院卒業。(明29)明治女学校、(明29)東北学院、(明32)小諸儀塾に教員として勤める。(明26)北村透谷らと「文学界」を創刊。(明30)「若菜集」を刊行。以後「一葉舟」「夏草」「落梅集」の詩集を刊行。(明39)「破壊」を発表。自然主義文学の代表作家としての地位を得る。(大2)佐久の豪農神津孟の援助で渡仏、(昭3)再婚、長編小説「夜明け前」にとりかかり、(昭10)に発表する。(昭11)再びヨーロッパ遊学。「東方の門」は絶筆となった。


【清水かつら(1898〜1951)】
 本名.清水桂。京華商業学校卒業。青年会館英語学校に学ぶ。はじめ神田の中西屋に勤めていたが、小学新報として独立したので同社に移った。雑誌「少女号」「小学画報」の編集に従事する。鹿島鳴秋の勧めで童謡を作り始める。代表作「靴がなる」「雀の学校」「叱られて」などは、弘田龍太郎によって作曲された。


【神保光太郎(1905〜1992)】
 詩人、ドイツ文学者。山形県生まれ。4歳のとき家が没落し、幼年期は母子二人できびしい生活を過ごす。山形の高校時代から文学を志し、同人誌「毳音」を刊行し、詩や短歌を発表する。京都帝国大学卒業。在学中から詩や短歌を投稿したりする。卒業後上京し家庭教師や翻訳などで生計を立てながら、同人誌を創刊したり、新散文詩運動をも推進したりした。戦後は(昭32)第二次「至上律」の同人、(昭42)第四次「四季」を創刊したりした。日大芸術学部の教授も勤める。


【高田敏子(1914〜1989)】
 東京日本橋生まれ。跡見女子校卒業。女学生の頃から詩を書き始め、仲間と同人詩「こころ」を刊行。(昭10)結婚して満州にわたりハルピンに住む。(昭21)引揚げ、長田恒雄らの「コットン・クラブ」に参加。(昭27)日本未来派同人となり、(昭29)第一詩集「雪花石膏」を発表。(昭35)より朝日新聞日曜版に毎週詩を書き、主婦の詩、おかさんの詩として一般読者から好評を博した。(昭40)詩雑誌「野火」を創刊、主宰者となる。武内俊子賞(昭39)、室生犀星賞(昭42)などの各賞を受賞。著書多数。


【高野喜久雄(1927〜 )】
 佐渡に生まれる。1953年「築地」に参加。1957年詩集「独楽」1961年詩集「存在」1966年詩集「高野喜久雄詩集」を発表。高田三郎との出会いにより、「わたしの願い」「水のいのち」、賛美歌、典礼聖歌などが作られる。


【高野辰之(1876〜1947)】
 国文学者、演劇研究者。号は班山。長野師範学校卒業。東京帝国大学文学部講師、東京音楽学校教授、大正大学教授などを歴任。東京音楽学校時代は邦楽科設立に尽力する。1929年には《日本歌謡集成》を編纂する。「朧月夜」「春がきた」「春の小川」「日の丸の旗」などがある。


【武鳥羽衣(1872〜1967)】
 詩人、歌人、国文学者。本名.文次郎。東京帝国大学卒業。一高時代から新体詩を交友会誌に発表。大学在学中に「帝国文学」の創刊に参加、編集委員となり、「小夜砧」などを発表。大学院で上田万作の指導を受ける。(明29)大町桂月と共著詩集「花落著」を刊行。(明30)東京音楽学校の教員に、(明43〜昭36)まで日本女子大教授を勤める。国文学関係の著書も多い。


【竹久夢二 (1884〜1934)】
 画家、詩人。本名.茂次郎。生家は岡山県本庄村の蔵元であったが、父の代には酒の販売をしていた。17歳のとき店を畳んで九州に移った。早稲田実業専攻科中退。在学中にスケッチ文「可愛いお友達」が読売新聞に掲載される。平民杜の機関紙「直言」のコマ絵を描きはじめる。(明43)24歳のとき結婚、妻たまきをモデルにした眼の大きな美人画を描き、世に認められ画家としての道を歩み始める。やがて女子美生徒の彦乃と同棲するが1年半程で二人は引き離され、まもなく彦乃は25歳で病死する。(大9)うちひしがれていた夢二の元にモデルとして来たお葉と、やがて一緒に住み始める。
 (昭6〜8)アメリカから欧州へ外遊、この旅で身体をこわし(昭9)信州富士見高原で療養するが、この年の9月に生涯をとじた。


【立原道造(1914〜1939)】
 日本橋に生まれる。15歳のとき北原白秋に出会い、白秋への傾倒を深める。一高に入学、近藤武夫に師事。1934年東京帝国大学工学部建築科に入学。掘辰雄の月刊「四季」に参画。37年(23歳)石本建築事務所に就職が決まる、しかしこの頃から病気が進む。
 作品に「優しき歌」「麦藁帽子」「風のうたった歌」「ひとり林に」などがある。


【谷川俊太郎(1931〜 )】
 東京杉並区生まれ。18歳の頃から詩作を始める。(昭44)サンケイ児童出版文学賞。(昭50)「マザーグースのうた」で日本翻訳文学賞など数々の賞を受賞。東京オリンピック記録映画製作、万国博の政府舘などの企画にも参加。同人詩、翻訳、創作わらべうたなど、その活動範囲は広い。


【津川主一(1896〜1971)】
 1921年関西学院大学神学科卒業。原田彦四郎に師事。合唱指揮活動とともに数多くの合唱曲の編曲を手がけた。外国曲(合唱曲、歌曲、民謡など)を全て日本語に訳詞するとともに、合唱曲に編曲して「日本名曲選集」(全30巻)を出版した。戦後の日本の合唱界にとってはなくてはならない曲集であった。我々が日ごろ口すさんでいる外国曲の日本語訳には堀内敬三の名訳があるが、津川の訳詞にも名訳が多い。


【壷田花子(1905〜  )】
 詩人。壷田は旧姓。小田原市生まれ。佐藤惣之助に師事し、佐藤主宰の「詩之家」の同人となる。女性的な静かな抒情詩を書く。戦後は日本女詩人会の世話役として雑誌「女性詩」の編集に参加する。ラジオの朗読詩も書く。


【土井晩翠(1871〜1952)】
 詩人、英文学者。本名.土井林吉。本来は“つちい”と読むが、皆が“どい”と言うので、本人も(どいばんすい)とした。
 東京帝国大学英文学科卒業。大学在学中「帝国文学」の第2次編集委員となり、漢語を用いた叙事詩を発表。藤村と併び称される詩人となる。(明31)郁文館中学の教師の時「荒城の月」を作詞。(明32)二高教授、(昭9)退官。(昭15)「イーリアス」などの邦訳出版する。この間家族を次々と失い、心霊科学にも興味をもつ。代表作「星落秋風王丈原」「万里長城の歌」、詩集に「晩鐘」などがある。


【長田幹彦(1887〜1964)】
 小説家。早稲田大学英文科卒業。在学中に新詩社社友となり、小説「冷灰」など発表。(明41)「スバル」に参加。(明44)「零落」を発表して作家となる。祇園や舞妓なと情話文学を得意とし、(大14)ラジオが開局となり、ラジオドラマも書く。(昭4)日本ビクター専属となり「祇園小唄」などを作詞する。他には「島の娘」「天竜下れば」がある。


【野上 彰(1908〜1967)】
 徳島県生まれ。本名.藤本登。京都大学を中退して詩人としての活動を始める。戦後はサトウハチローらと新童謡運動を起こして童謡界に新風を吹き込んだ。高田三郎、芥川也寸志、中田喜直らが彼の詩に多く作曲した。


【野口雨情(1882〜1945)】
 茨城県磯原町生まれ。本名.英吉。1901年(明34)東京専門学校(早稲田大学)に入学するが、実家の廻船問屋が没落したため中退する。恩師坪内逍遥の励ましの手紙をもらい、18歳頃から作り始めた詩を白費出版などした。37歳の時、家督を子供に譲り、単身樺太に渡り十数年放浪の旅をする。雨情の詩に“別れ”“さすらい”“望郷”などのテーマが多いのは、彼の人生が影をおとしているため。《赤い烏》の童謡運動で「赤い靴」「青い目の人形」など多くの童謡を作るが、「船頭小唄」「波浮の港」など新民謡も生涯を通して作られている。


【林 古渓(1875〜1947)】
 歌人、漢詩人、国漢文学者。本名.竹次郎。東京神田の生まれ。哲学館に学び、秋山高校講師、立正大学教授を歴任。「浜辺の歌」の他に「昼」(弘田龍太郎作曲)がある。


【深尾須磨子(1888〜1974)】
 兵庫県丹波の山村の没落した旧家に生まれる。(大10)前年に亡くなった夫の遺稿詩集「天の鍵」に自作の詩54編を加え出版し、詩の道に入る。与謝野晶子に師事し、第2期「明星」に参加。「日本詩人」「炬火」「婦人公論」に作品を発表。大正14年から昭和38年まで幾度となく渡欧し、西欧的な感覚を身につけ、社会批判、文明批判など浪漫的情熱をもって、齢を経ても衰えを知らず、独自の通を歩んだ。小説、評論、翻訳などの著書も数多くある。


【蕗谷虹児(ふきやこうじ)(1898〜1979)】
 新潟県の地方新聞の記者の子として生まれる。竹久夢二に見いだされ、さし絵画家としての道を歩む。高畠華宵、加藤まさを等と並んで、大正期の代表的な抒情画家。少女に好まれるような美人画、美少女画を多く描いた。12歳のとき29歳で亡くなった母親を思って描いた「花嫁人形」。母親もこの花嫁人形のように美しかった、と後に語っていた。


【藤浦 洸(1898−1983)】
 作詞家、詩人。同志社大学、慶応大学文学部卒業。若い時から小説家を志し、尾崎士郎らと交際し、雑誌「令女界」や「若草」に発表。音楽評論家伊庭孝に師事し、浅草オペラの舞台に立ったこともある。(昭5)コロンビア文芸部のエドワードの秘書となり、ジャズの訳詞も手がける。(昭12)「別れのブルース」が一躍ヒットし、作詞家として名声を得る。その後「一杯のコーヒーから」「南の花嫁さん」「水色のワルツ」、戦後は美空ひばりの「悲しき口笛」「東京キッド」などのヒットがある。ラジオ番組「話の泉」テレビ番組「二十の扉」「私の秘詔」など回答者として人気を得た。


【堀内敬三(1897〜1983)】
 「浅田飴本舗」の三男として生まれる。中学生の頃からオペラ「カルメン」などの邦訳歌詞を書き始める。1917年(大5)オペラ「ミニョン」より「君よ知るや南の国」がセノオ楽譜から出版される。1921年にミシガン大学工科部、1923年にはマサチューセッツ工科大学大学院を卒業。その間にも音楽の勉強は欠かさず、歌曲はもとより民謡、ジャズにいたるまで訳詞をつけては本国へ送っていた。帰国後は日本放送協会、松竹映画の音楽部長、日本大学の教授などもつとめた。音楽評論をする傍ら、出版にも意欲を示し「音楽之友社」の会長もつとめる。NHKラジオ《音楽の泉》でも昭和24年かり10年間レギュラーをつとめた。


【松坂直美(1910〜 )】
 詩人、作詞家。長崎県に生まれる。日本大学芸術科中退。(昭46)「私の人生これからよ」で日本詩人連盟賞を受賞。著書に「わが人生は斗勇なり」「みどりの牧場」などがある。


【三木露風(1889〜1964)】
 兵庫県竜野市生まれ。本名.操。17歳で処女詩集「夏姫」を発表。1907年(明40)早稲田大学文学部に入学。相馬御風、野口雨情らと「早稲田詩社」を結成し、次々と詩集を発表する。1914年(大4)修道士を志し函館のトラピスト修道院を訪れ、(大9〜13)この修道院で文学と美術を教える。(大11)洗礼を受ける。三鷹市に36年間住み、最期は交通事故で一生を綴じた。


【室生犀星(1989〜1962)】
 金沢旧藩士の子として生まれるが、女中の子であったため、近くの寺の室生家の子として出生届けされる。生みの母は父親が死ぬと家を出てしまい、その後二度と母と会うことはなかった。高等学校を三年で中退させられ、金沢北方裁判所に給仕として勤める。この頃から見様見真似で俳句を作り出し、犀川の西に住んでいたことから西を星と変え、ぺンネームを犀星とする。詩人としての生活を志向するようになり、上京し北原白秋を訪ねる。やがて萩原朔太郎とも出会い、二人は日本近代詩の揺るぎない地位を得る。


【薮田義雄(1902〜1984)】
 詩人。中学生のとき近くに住んでいた北原白秋の門人となり、詩を発表していた。晩年の白秋の秘書も務めていた。法政大学英文学科卒業。詩集を発表したりするとともに、わらべ唄の研究を行い、(昭36)「わらべ唄孝」を刊行。
 日本音楽著作権協会の理事なども務め、著書には民謡集、歌劇、合唱曲など多数。


【横井 弘(1925〜 )】
 作詞家。東京四谷生まれ。帝京商業卒業。(昭21)藤浦洸に師事。(昭24)「あざみの歌」で作詞家としてデビュー。(昭25)コロンビア、(昭28)キング、(昭43)ビクター専属となる。ヒット作には三橋美智也の「達者でな」「哀愁列車」、倍賞千恵子の「下町の太陽」「さよならはダンスの後に」などの抒情演歌を得意とする。


【与謝野晶子(1878〜1942)】
 歌人、詩人。本名.しょう。大阪府堺市菓子商に生まれる。堺女学校卒業。家業を手伝うかたわら独学で古典の勉強をしていた。(明29)旧派の堺敷島会に入会、和歌を投稿する。(明33)「明星」に数多くの作品を発表。(明34)「みだれ髪」発表。この年与謝野寛(鉄幹)の元へ行く。
 前半の区切りとしての歌集「晶子短歌全集」3巻(大8)、昭和期の歌を集めた「与謝野晶子全集」(昭13)がある。五男、六女をもうけ養育に苦労するが、自由奔放、情熱的な歌風で浪漫主義詩歌の全盛期を現出させた。短歌、詩小説、評論の各分野で活躍した。


【吉井 勇(1886〜1960)】
 歌人、小説家、劇作家。早稲田大学中退。(明38)「新詩社」に入り、「明星」に短歌を発表。(明41)北原白秋らと「パンの会」を結成。(明42)石川啄木らと「スバル」を結成。スバル派詩人・劇作家として知られる。(昭13)より京都に住み、京都祇園の風情、人情を歌い上げた作品を書く。ー方「伊勢物語」の現代語訳など、他方面にわたり活動をした。


【吉丸一昌(1873〜1916)】
 国文学者。大分県生まれ。東京帝国大学卒業。東京音楽学校教授。明治末期から大正初期にかけて唱歌の作詞者として、作詞、訳詞を手がける。「新作唱歌」第1〜10集を刊行。代表作「朝」「汽車の旅」「早春賦」「故郷を離るる歌」などがある。

(父の書いた原文を読みやすくするため、加筆・修正をしています。)


五味比左志〜合唱とともに〜