遺された資料が未完成なのですが、登載します。 一曲ごとならWIKIでも知ることのできる程度の濃さかもしれません。 【夕焼け小焼け】 作詞と作詩 海沼実と海沼實 【うさぎとかめ】 納所弁次郎(明治34〜35年頃) 石原和三郎(慶応元〜大正11年)国語教育者 群馬県師範学校卒、子供言葉使いによる言文一致「童謡の父」ともよばれている。 はなさかじじい、金太郎、さるかに、おおえやま、牛若丸、浦島太郎、大黒様 【港】 吉田信太 吉田信太が広島高等師範学校教授をしていたころ宇部港を見て書いた。 【浦島太郎、はなさかじじい】 田村虎蔵 「尋常小学唱歌」(明治44年)が制定されたとき、文部省唱歌として収められた。 大黒さま、一寸法師(明治38年) 金太郎(明治33年)坂田金時がモデル 青葉の笛(明治39年) 【春が来た】 岡野貞一(明治43年) 「尋常小学校読本」巻5より 歌碑-作曲者の母校、鳥取県立川町修立小学校 紅葉-「尋常小学唱歌」(第三学年)(明治44年) 【おぼろ月夜、春の小川】 岡野貞一、高野辰之(大正3年、大正1年) おぼろ月夜 高野が長野師範のとき、飯山に下宿していた。この地方の野沢菜の草の花を見て書いた。 歌碑-高野終焉の地、野沢温泉村野沢 春の小川 高野が著作に疲れれると、お嬢さんを伴って散歩した代々木上原の皮滑川のほとりで作った。 歌碑-渋谷区代々木 高野辰之(文学博士) 東京音楽学校教授となる 【箱根八里】 滝廉太郎(明治33年) 16歳で東京音楽学校に入学。研究科2年でピアノ科授業の嘱託となった。翌年22歳のとき作曲した。 これが後の応援歌、寮歌のお手本となった。 【お正月、鳩ポッポ】 滝廉太郎、東くめ(明治33年、明治33年) お正月 「幼稚園唱歌」(明治34年)に収められている 鳩ポッポ 歌碑-(歌碑-54ヶ所ある)東が没するまでの50年間定住した大阪府池田市五月山公園、生誕地和歌山県新宮駅前、和歌山県すみれ町、台東区浅草寺、長野市善光寺 東くめ 滝廉太郎の2年後輩。教育者の夫から、子どもになじめるような話し言葉で歌はできないかと相談されて「言文一致」の言葉による詩を書いて、滝に依頼した。詩を見て20分くらいで曲を書いたという。 ドイツ留学へ旅立つ前のことである。(明治34年) 【村に鍛冶屋】 南能衛(大正1年) 尋常小学唱歌(第四学年)に収載。 計30年もの間文部省唱歌として歌われている。 歌碑-金物の町兵庫県三木市金物神社 村祭 尋常小学唱歌(第三学年)に収載。(明治45年) 【汽車】 大和田愛羅(明治45年) 尋常小学唱歌(第三学年)に収載。 大和田愛羅 新潟県村上市とは縁があり、父が村上藩の医師であった。 日本海沿いに走る汽車の風景が元になったのだろうと思う。 【青い目の人形】 本居長世、野口雨情(大正11年) 国際愛の声が教育上に持ち上がり、セルロイドのキューピーを見て詩を書いた。 童謡運動を提携している雨情から詩を見せられてすぐにできあがった。 震災後、米国に芸術答礼使節として娘たちと米国各地で演奏し、最も喜ばれた。 また、米国に移民した人たちは故国を思い涙していた。 「金の船」(大正10年)発表、「人形使節」はこの歌が流行していた頃(昭和3年)のことである。 【七つの子】 本居長世、野口雨情(大正10年) 雨情が(大正10年)童謡雑誌「金の船」に勤め、生活が安定したころ発表。(明治40年)に発表した「山からす」の話をもとに作詩した。 歌碑-北茨城市磯原町精華小学校、島原城内と和歌山県すさみ町にもある 【十五夜お月さん】 本居長世(大正9年9月) 「金の船」(大正9年9月)に発表された。 歌碑-目黒区不動尊境内にある 【赤い靴】 本居長世、野口雨情 「いっちゃった」「なっちゃった」など、子ども言葉による詩は画期的であると高い評価を受けた。 (大正13年6月)女の子のモデルは北海道中富良野町「岡きみ」という父なし子のため、宣教師に預けられたが幼くして亡くなった。墓が青山墓地にある。 歌碑-横浜山下公園、横浜駅構内、麻布十番 「小学女生」(大正10年12月)に本居長世の詩が掲載。 【めえめえ仔山羊】 本居長世 「童話」(大正10年4月) ドイツのわらべ歌を作るような気持ちで作った。川田正子が歌って知られている。 歌碑-長野県豊科近代美術館 汽車ポッポ-(大正15)詩、曲とも お山の大将-「赤い鳥」(大正9年6月)発表 俵はごろごろ-「金の星」(大正14年12月)発表 【どんぐりころころ】 梁田貞(大正10年10月) 「かわいい唱歌」(大正10年10月)に収められている。 「二年生のおんがく」(昭和22年)に掲載され広まった。 歌碑-梁田生誕の札幌市創成小学校、作詩者の宮城県松島町観瀾亭にある 【あわて床屋、待ちぼうけ】 山田耕筰作曲・北原白秋作詩 あわて床屋 「赤い鳥」(大正8年4月)発表 待ちぼうけ 中国の故事にヒントを得て書かれた詩に作曲 【ペチカ、赤とんぼ】 山田耕筰、三木露風 山田耕筰 三木露風のコンビによる歌は69曲におよぶ。昭和に入ってから山田は「童謡100曲集」の刊行を思い立ち、次々と童謡を作曲した。 ペチカ (大正14年5月)「子供の村」に発表。曲は(大正11年12月?) 南満州教育会用として作られた。 赤とんぼ (大正10年8月)三木露風が「北海道トラピス修道院」在職中作詩。(昭和2年12月)曲 「童謡100曲集」に収められている。 歌碑-秋川市西多摩霊園と耕筰の墓、三木露風の故郷、兵庫県龍野市の龍野公園、三鷹市?の商店街 【この道】 山田耕筰、北原白秋、詩(大正15年8月)曲(昭和2年2月) (大正15年8月)「赤い鳥」に掲載。曲(昭和2年2月)「童謡100曲集」第三集に収められている。 白秋が札幌に旅したときの印象が詩になっている。都会的なノスタルジアが感じられる。 【砂山】 中山晋平、北原白秋、詩(大正11年6月)曲(大正12年9月) (大正11年6月)北原白秋が新潟に招かれて大歓迎を受けた。そのとき、詩を作って送ると約束した。 (大正12年9月)作曲。日本の旋律は西洋の和声より対位法に扱うほうが適しているとの考えで伴奏を書いた。 (大正12年6月)砂山の詩と晋平の曲とともに新潟に送り、約束を果たした。 歌碑-新潟寄居浜、護国神社 【しゃぼん玉】 中山晋平、野口雨情(大正11年11月) (大正11年11月)「金の塔」 親戚の男の子が急病で亡くなったのを思い「うまれてすぐに、こわれて消えた」と歌った。 【てるてる坊主】 中山晋平、詩(大正10年6月)曲(大正12年1月) (大正10年6月)「少女の友」に詩、(大正12年1月)「童謡小曲(2)」に曲 歌碑-作詩者の生地、長野県池田町と松本城公園にある。 【あの町この町】 中山晋平、野口雨情、詩曲(大正13年11月) (大正13年11月)「コドモノクニ」詩と曲を掲載 歌碑-雨情終焉の地、宇都宮市旧居近くに立てられている。 【背くらべ】 中山晋平、海野厚、詩(大正12年) 海野厚 早稲田大学を中退、「赤い鳥」にかかわるようになり、童謡、詩を書き始めた。 (大正12年5月)「子供達の歌(3)」他に「おもちゃのマーチ」がある。 (大正14年)28歳で亡くなる。 歌碑-作詩者の母校、静岡市曲金にある豊小学校 【証城寺の狸囃子】 中山晋平、詩(大正13年12月)曲(大正14年4月) (大正13年12月)「金の星」に詩、(大正14年4月)「金の星集(9)」に曲が掲載。 昭和になって流行する。(替え歌が多いのは、たぬきが化けるからなのか?) 歌碑-木更津市証城寺境内 【雨降りお月さん】 中山晋平、野口雨情、詩(大正14年)曲(大正15年4月) (大正14年)雑誌「コドモノクニ」に雨情が発表 旧家に生まれた雨情に嫁いだ妻が、二日がかりで喜連川から馬に乗ってきたとき、雨に降られたという。 (大正15年4月)「童謡小曲(6)」 歌碑-北茨城市磯原 【中山晋平その他】 黄金虫(大正11年7月)「金の塔」 兎のダンス(大正13年5月)「コドモノクニ」詩(大正15年4月)「童謡小曲(7)」曲 アメフリ(大正14年11月)「コドモノクニ」詩(大正15年4月)「童謡小曲(9)」曲 肩たたき(大正12年)実業の日本社の雑誌「切手の友」に発表 あがり目さがり目(大正13年5月)「コドモノクニ」 キューピーちゃん(昭和5年10月)「コドモノクニ」 【牧場の朝】 船越栄吉、杉村楚人、曲(昭和7年12月) 作詩者は杉村楚人が岩瀬牧場(福島県)に明治43年に訪れてこの詩が生まれた。 (昭和7年12月)新訂尋常小学校唱歌(第四学年) 【花嫁人形】 杉村長谷夫、蕗谷(ふきや)虹児、詩(大正13年1月)曲(大正14年4月) (大正13年1月)「コドモノクニ」詩、(大正14年4月)「金の星集(9)」に曲 (大正12年)24歳のときの蕗谷虹児(挿絵絵画家)の詩。15歳の若さで虹児を生み、29歳で亡くなった母は"京人形のようだった"と彼は語った。母への思慕の気持ちを書いた。 最初、作詞者にことわりもなく曲を作ったと楽譜出版社と大喧嘩をした。 歌碑-新潟市のホテル、イタリア軒横にある 【夕日】 室崎琴月、葛原しげる、詩(大正10年) (大正10年)雑誌「白鳩」発表。葛原しげるは広島県八尋に生まれ、東京高師英語部卒業。教師をしばらく務め、(明治44年)25歳のとき雑誌編集と作詩k活動に専念 歌碑-作詩者の生地、広島県神近町の生家前と作曲者の高岡市古城公園にある。 【かわいい魚やさん】 山口保治、加藤省吾(昭和12年) 作詞の加藤省吾は静岡県富士市生まれ。田子の浦の漁港から獲れたばかりの魚を天秤で担いで売りに来た。その印象を詞にした。 山口保治は愛知県生まれ。三河万歳などの節回しが取り入れられていいり。振り付けがついたのが流行して以来、隠れたベストセラーとなった。 歌碑-加藤の母校、富士市大渕第一小学校 【ないしょ話】 山口保治、結城よしを(昭和14年6月) 新進の童謡作曲家として名が売れ始めた山口の下に、各地から作詞の投稿が相次ぎ、結城よしをのこの詞もその中のひとつ。子だくさん(7人)の子持ちの山口はすっと曲ができたそうだ。 【靴が鳴る】 弘田龍太郎(大正8年11月) (大正8年11月)「少女号」に発表 弘田の童謡は大正7〜14年の8年間にほとんどが作られている。(大正7年)は「赤い鳥」が創刊した年。 龍太郎の曲は五音階を基調としているが、ピアノの伴奏は非常に音楽的に書かれている。 【キューピーさん】 弘田龍太郎(大正13年) アメリカの画家ローズ・オニールが作ったキューピー人形は、大正期に輸入され、昭和の始めにかけて流行した。 【春よ来い】 弘田龍太郎(大正12年1月) (大正12年1月)「木かげ」相馬御風が組織していた「木陰会」の歌の雑誌に発表。 雨(大正7年)「赤い鳥」に発表 お山のお猿(大正8年9月) 金魚の昼寝(大正8年)曲 雀の学校(大正10年)「少女号」に発表 【月の砂漠】 佐々木すぐる、加藤まさを、(大正12年3月) (大正12年3月)「少女倶楽部」に掲載。 大正末から昭和にかけて刊行された雑誌「少女倶楽部」「冷女界」「少女画報」などに載せられた絵と詩、「月の砂漠」はそのひとつ。 加藤まさをの絵と詩はたいへん人気があった。この歌は関東大震災後流行した。 歌碑-御宿、ここに加藤まさをは亡くなるまで住んだ。 【お山の杉の子】 佐々木すぐる、吉田テフ子、(昭和19年) (昭和19年)「日本小国民文化協会」が軍事援護のために募集した詩の落選作(一等入選作?)を佐々木すぐるがふと手にして、おもしろい文句だと勝手に作曲した。 子どもたちに教えているうちに広がり、協会の制定歌とされた。 戦中戦後のレコード、安西愛子等によりコロンビアより発売。 作詞の吉田テフ子は応召された兄の代わりに徳島の実家に帰り、田畑で働いていた22歳のころの作。このひとつしか詩は残っていない。恋人が戦死して独身を通したが、若くして亡くなった。 【かなりや】 成田為三、西城ハナ、(大正8年10月) (大正8年10月)西城ハナが「赤い鳥」に発表した第一作である。 曲は三番で短調から長調に転調し、童謡としては芸術性の高い曲である。 歌碑-不忍池畔と和歌山県紀勝浦の狼火山にある 【赤い鳥小鳥】 成田為三、(大正9年9月) (大正9年9月)「赤い鳥」童謡曲集 雨(大正8年10月)現在歌われているのは弘田龍太郎のもの 歌碑-小田原市城山伝肇寺境内 【夕焼け小焼け】 草川信、中村雨紅、詩(大正8年)曲(大正12年7月) 作詞者の中村雨紅は陣場高原の入り口に位置する八王子市上恩方町で生まれた。青山師範の帰り、3時間あまりかかって帰るうちに夕暮れになっていく空の様を書いた。 (大正12年7月)文化楽社刊「文化楽譜-あたらしい童謡-その一」に掲載 歌碑-八王子の雨紅の生家宮尾神社 他全国15ヶ所ある 【ゆりかごの歌】 草川信 (大正10年8月)「小学女生」に発表 どこかで春が(大正12年3月)「小学男生」に発表 【汽車ポッポ】 草川信、富原薫、詩(昭和13年)曲(昭和18〜20年) (昭和13年)御殿場の小学校長をしていた宮原薫が作詩、原作は「兵隊さんの汽車」18年に吹き込み (昭和20年)紅白で川田正子が歌うことになり、急遽歌詞を書き直した。 【チューリップ】 井上武士、近藤宮子、(昭和7年7月) (昭和7年7月)「エホンシャウカ」(ナツノマキ) (平成7年)作詞者が裁判で近藤宮子と認められた。「鯉のぼり」と同じ 【うみ】 井上武士(昭和16年) (昭和16年)「ウタノホン(上)」国民学校一年生の唱歌に掲載。 歌碑-井上の母校、前橋市芳賀小学校、群馬大学教育学部、和歌山県すさみ町童謡公園 うぐいす(昭和16年)「ウタノホン(上)」 【かもめの水兵さん】 河村光陽、武内俊子、(昭和8年) (昭和8年)秋、武内俊子は親族を見送るために横浜港に行き、赤い海に飛び交うカモメを見て作詞した。そしてすぐ電話で歌詞を河村に伝えて曲ができた。 海外11ヶ国語に訳され歌われている。 歌碑-河村光陽の生誕地福岡県田川市、武内俊子の生誕地広島県三原市、河村家墓のある本郷駒込吉祥寺、横浜市山下公園 【グッドバイ】 河村光陽、(昭和9年4月) (昭和9年4月)「コドモノクニ」に掲載 りんごのひとりごと(昭和15年) 早起き時計(昭和12年) 【うれしいひなまつり】 河村光陽、(山野三郎)サトウハチロー、曲(昭和10年) (昭和10年)作詞のサトウハチローは、この頃山野三郎、林柳波の名で発表している。 歌碑-群馬県藤岡市北藤岡駅前 【赤い帽子、白い帽子】 河村光陽、武内俊子、(昭和12年) 武内俊子の幼い娘が仲良しの友だちと二人で並んで学校に行く光景を見て作った。 【仲よし小道】 河村光陽、三苫やすし、(昭和14年1月) (昭和14年1月)「ズブヌレ雀」 作詞の三苫やすしの騰写版刷りの作品集を光陽が見つけ作曲する。 【船頭さん】 河村光陽、武内俊子、曲(昭和16年) 武内俊子の広島県三原市の実家近くには川があり、渡し舟の思い出を書いた。 【電車ごっこ】 下総皖一 (昭和6年3月)「新訂尋常小学唱歌(第一学年)」 (昭和16年)「ウタノホン(上)」 【たなばたさま】 下総皖一(昭和16年) (昭和16年)「ウタノホン(下)」 歌碑-浦和市北浦和公園 蛍(昭和7年)「新訂尋常小学唱歌(第三学年)」 かくれんぼ(昭和16年)「ウタノホン(上)」 花火(昭和9年)「小学国語読本(巻2)」、(昭和16年)「ウタノホン(下)」 野菊(昭和17年)「初等科音楽(一)」 【こいのぼり】 小出浩平、近藤宮子 作詞者の近藤宮子は(昭和45年)作詞を名乗り出て、(平成5年)高裁で認定された。 歌碑-文京区駒込の吉祥寺(八百屋お七の寺) 【おうま】 松島つね、林柳波、(昭和16年) (昭和16年)「ウタノホン(上)」 歌碑-林柳波の母校、群馬県沼田市沼田小学校 てまりうた (昭和17年)「初等科音楽(一)」 【夜明けの唄】 内田元(昭和11年) (昭和11年)国民歌謡のヒット作 いずみたくの「夜明けの歌」が出る前、戦前には「夜明けの唄」といえばこの曲だった。 【若菜】 平岡均之 (昭和17年)「初等科音楽(二)」 【どじょっこふなっこ】 岡本敏明(昭和10年) (昭和10年)東北地方の民謡だった。秋田の両目小学校に講演会にきていて採譜して作曲した。昭和25年からの歌声運動以後広まった。 【とんぼのめがね】平井康三郎、詩(大正8年)、曲(昭和24年) (大正8年)「赤い鳥」に詩が掲載 (昭和24年)NHK「幼児の時間」に放送された 【ひな祭り】 平井康三郎、(昭和16年) (昭和16年)「ウタノホン(下)」国民学校初等科二学年に使用 スキー(昭和18年)「初等科音楽(四)」 【山寺のお尚さん】 服部良一(昭和12年) (昭和12年)服部良一がジャズコーラスグループのリーダー中野忠晴率いる「ナカノ・リズムボーイズ」とレコード会社が同じだった。リズムボーイズはアメリカ「シルスブラザーズ」の曲を、日本語スキャット唱法でカバーしており、それを聞いて作曲した。 コーラスグループによるスキャットジャズの和製第一号。 【音羽ゆりかご会】 海沼実 海沼実が護国寺で幼稚の歌の教室を始めた。名称は北原白秋がつけたそうだが、恩師の草川信の「揺藍(ゆりかご)の歌」からも由来している。 戦中戦後を通して海沼、川田正子のコンビは、空襲の最中も国民大衆の心の支えとなる明るい曲を、NHKは放送し続けた。 歌碑-海沼の生地松代町、法泉寺-お猿のかごや、梅翁院-見てござる、真田公園-子鹿のバンビ、つつみ公園-里の秋 【お猿のかごや】 海沼実、山上武夫(昭和13年) 長野県松代出身の山上武夫は、姉の子を子守しながら山の風景を猿にカゴをかつがせてみたらおもしろいとの発想で作詞。同郷の海沼に相談して作曲された、以後、山上武夫は童謡の作詞家となる。 歌碑-長野県松代町 【からすの赤ちゃん】 海沼実、海沼実(昭和13年) 「なぜなくの」という曲を中山晋平と海沼がビクターとポリドールで競作したところ、中山晋平のほうが一足早くできたので、急遽海沼は詞を作り変え作曲した。結果はこちらのほうがヒットした。 歌碑-音羽ゆりかご会の発祥地護国寺の境内 【あのこはだあれ(ちんから峠)】 海沼実、細川雄太郎(昭和15年) 作詞者、細川雄太郎が群馬県の醸造会社に勤めていた頃、昭和15年の作。故郷、滋賀県日野町の頃の情景を思い出して書いた。 同人雑誌に投稿したのが海沼の目に留まって「ちんから峠」とともに作曲した。 歌碑-滋賀県日野町の生家近く、勤めていた群馬県藪塚町 【見てござる】 海沼実、山上武夫(昭和20年10月) (昭和20年10月)NHKで放送されて、焼け野原となって呆然としていた人々に、ほのかな安らぎを感じる歌となった。 この地蔵さんにはモデルがあったといわれるが、現在はその寺に該当するお像はない。 【里の秋】 海沼実、斉藤信夫(昭和20年12月) (昭和16年)教師だった斉藤信夫が「星月夜」の題名で作詞、役員を迎える歌を作ってほしいと依頼された海沼がこの詞に作曲した。 (昭和20年12月)ラジオ放送「役員だより」のテーマソングとして放送された。放送後は大反響となり戦後を代表する童謡となった。 歌碑-長野県松代町つつみ公園 【みかんの花咲く頃】 海沼実、加藤省吾(昭和21年8月) 作詞者の加藤省吾が川田正子の家に取材に行ったとき、海沼実に呼び止められ、NHKの伊東に行くので何か詞を書いてくれないかとたのまれ、その場で書き上げた。その詞を持ってすぐ伊東へ向かい、列車の中で作曲し、翌日川田正子に楽譜がないので口頭で伝え教え、放送されるというあわただしさの中で歌われたが、結果は大反響を呼んだ。 歌碑-伊東市宇佐美 【花かげ、絵日傘】 豊田義一、大村主計(昭和6年) (昭和6年)「花かげ」は「絵日傘」の吹き込みにあたり、B面として前夜に作られた。詩人25歳の作で、桜吹雪の花かげに、姉が人力車にゆられて嫁に行ったときのことを思い出してその情感裏感を歌った。 歌碑-作詞者の生地山梨県塩山市向岳寺 【夢のお馬車】 海沼実、斉藤信夫(昭和22年1月) (昭和22年1月)NHKの放送で歌われた。 作詞の斉藤信夫は「花馬車」という童謡雑誌を刊行していた。他には「夢のおそい」という童話もあり、夢の中に出てくる乗り物にあこがれたのかもしれなし。 【めんこい仔馬】 仁木他喜雄、(昭和16年) 愛馬思想普及のために作られた東京映画「馬」の主題歌。映画を離れて愛唱された。 【たき火】 渡辺茂、巽聖歌(たつみせいか)、(昭和16年12月) (昭和16年12月)「ラジオ小国民」という放送テキストに発表された。この雑誌は、ラジオの子供の時間の番組案内を内容とするものであった。 【文部省唱歌】 虫の声(明治43年)「尋常小学読本唱歌」巻5 ふじの山 同上 巻5 我は海の子 同上 巻11 池の鯉(明治44年)「尋常小学唱歌」弟1学年 雪(明治44年)「尋常小学唱歌」弟2学年 案山子 同上 弟2学年 雁(明治45年)「尋常小学唱歌」弟3学年 茶摘 同上 弟3学年 冬の夜 同上 弟3学年 冬景色(大正1年)「尋常小学唱歌」弟4学年 海(大正2年)「尋常小学唱歌」弟5学年 鯉のぼり 同上 弟5学年 【音楽取調掛(明治13年)】 「小学唱歌初編」(明治14年)見渡せば、螢の光、蝶々など33曲 弟2編(明治16年)、弟3編(明治17年) 「幼稚園唱歌集」(明治20年) 「中等唱歌集」(明治22年) 「祝日大祭日唱歌集」(明治26年) 君が代、1月1日、紀元節、元長節など |