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比左志の軌跡4〜さつき合唱団



さつき合唱団とは
父・五味比左志と意気投合した村谷達也氏が、新合唱団発足の旗印を掲げ(昭和41.02.23)、氏の指導している団体の団員からメンバーを捻出した(昭和41.03.02)のが始まりである。氏宅にて発足についての話し合いをした際に(昭和41.06.04)、「せっかく教え込んだ生徒が逃げていくのが残念である、このメンバーを救うためにも皆を満足させるべく合唱団(場)が必要である」ということで、三つの方針を固めた。
1定期演奏を中心に目的とする団体
2楽しみに集まる団体
3勉強のために集まる団体


さつき合唱団の設立準備に至るまでの経緯がわかる資料は、父・比左志が遺した文章1枚のみである。
『さつき合唱団を作ろうと思い立ったのは、今から30年前の昭和40年の12月頃であったと思う。村谷先生の家に、先生が指導している各職場の主なメンバー10人ぐらい、たしか先生が作曲をした、どこかの会社の社歌を録音するためにかり集められた人達を見聴きして、このメンバー達が集まったら、よい合唱団ができるのではないかと思ったことが、さつき合唱団を作るきっかけになった理由である。初めはあまり乗り気ではなかった先生も、ついに合唱団を作ることに賛同を得て、いよいよ新しい合唱団発足となった。(記1996.4)』
とある。


入団時に書いた団員カードには現在所属している音楽団体についてを三和エコーと記述してある。三和エコーは村谷達也氏が指導していた。

母(元・五味夫人)から聞いた話によると、日本合唱指揮者協会に出入りして村谷達也氏を指名し、指揮を習っていたのだという。
さつき合唱団を設立する頃には短大で習うくらいの知識は、独学で得ていたのだと母は認識している。母は、村谷達也氏の夫人に歌を習っていた。そして、関屋晋氏は村谷達也氏と大の仲良しなのだとも聞いた。

村谷達也氏
昭和26年武蔵野音楽大学声楽科卒業。作曲を高田三郎、声楽をリア・フオン・ヘツサート女史に師事。
日本合唱指揮者協会第2代理事長に就任(1967年3月〜1971年2月)
全日本合唱連盟法人発足後第一回目の理事会として、昭和四十五年度の春季理事会(5月30開催)にて常任理事に任命(学識経験者として)
etc.

関屋晋氏
1951年、早稲田大学政治経済学部を卒業。卒業後は一時期会社勤めをしたが、合唱に専念するため、1957年に退職。主に大学、一般合唱団(市民合唱団、職場合唱団)の指揮・指導にたずさわった。
日本合唱指揮者協会第3代理事長(1971年3月〜1975年2月)、5代理事長(1992年1月〜1993年12月)に就任
etc.

上京するまでと上京後は何をしていたのか、生活の基盤等々においては不明なことが多い。友達の家に転がり込んでいて、家出状態のままでバイクで上京してきたらしい。
最終的に父・比左志の職業が商業デザイナーとなるまでに6つの職業を経験している。
本屋(住み込み)→楽器屋(夜中にピアノを練習し、この頃にピアノはだいぶ弾けるようになっていた)→無職中レタリング勉強→塗料→転職3回→独立し自営業を始め、北区にある都営団地に転居する。
最初は母が写植打ちをしていたが、私の妹の出産前のつわりがひどくなり、父が打つようになるも、スピードが速くないので徹夜して朝になることもあったと母は言う。

さつき合唱団の設立に向けての会合記録によると、先の「各職場」というのは順不同で、日本生命東京総局混声合唱団、安田火災音楽部、千代田化工コーラス部、三菱石油川崎合唱団であり、その他からも参集している。

後に父・比左志がママさんコーラスの指導を引き受ける経緯を作ったyoshizawa氏も三和銀行から参集している。三和銀行の職場合唱団が三和エコーである。おそらくは、yoshizawa氏の勧めで父・比左志も三和エコーに入団していたのではないかと推測する。村谷達也氏との関わりをここで持ち始めたのであろう。yoshizawa氏はすぐにさつき合唱団を退団したようである。その頃の父・比左志の所属は光文堂楽器店と記載されている。

後に父・比左志が明治大学グリーン・ヒルズ・ボーカル・グループの指導を引き受けることになるが、明治大学に在学中でグリーン・ヒルズ・ボーカル・グループに所属していたyumoto氏も、さつき合唱団の最初期からの団員であったようである。

団員勧誘が盛んに行われ、村谷達也氏も積極的に誘っていたようだが、団設立一年目ですでに練習への参加率が低く、鼓舞する通達が発行されるほどであった。各自の入団の目的や目標が微妙に異なっていたり、団の雰囲気に馴染めなかったりしている。村谷達也氏が求めるレベルは当然のごとく高い。終戦前後に出生して二十才代になり大人になった若者たちが、自由闊達でいろいろな思いと世の中の変化もあって、そうして練習への欠席を続けて音信不通となっていく人も多かったようである。時代背景は新宿騒乱のあったころでもある。村谷氏やあるいは仲間たちに強く共感し合う人へと絞られて残っていったように推測する。

生前に父・比左志は「さつきのことは一番俺が知っている」と豪語していたのを記憶している。改めて遺品を見渡すとそれが納得できるほどの活躍ぶりであったことがうかがえた。

さつき合唱団の主な活動記録
昭和41年5月、創立
昭和41年10月、合唱連盟主催 合唱コンクール神奈川県大会出場
昭和41年12月、台東区合唱祭出演
昭和42年5月、創立一周年記念祝賀会、その様子が「合唱サークル」誌上に紹介される
昭和42年10月、合唱連盟主催 合唱コンクール神奈川県大会出場
昭和42年12月、台東区合唱祭出演
昭和43年3月、第一回演奏会、於・東京文化会館小ホール
昭和43年10月、合唱連盟主催 合唱コンクール神奈川県大会出場
昭和43年12月、台東区合唱祭出演
昭和44年5月、創立三周年記念第二回演奏会、於・カワイ楽器渋谷ショップ、29名出演
昭和44年7月、台東区合唱祭出演
昭和44年10月、合唱連盟主催 合唱コンクール東京大会出場
昭和45年3月、第三回演奏会 於・東京文化会館小ホール、31名出演
昭和45年10月、合唱連盟主催 合唱コンクール東京大会出場、銀賞「わたしの願い」より
昭和46年3月、第四回演奏会 於・東京文化会館
昭和46年6月、合唱指揮者協会主催 「知られざる名曲をたずねて」出演
昭和46年10月、合唱連盟主催 合唱コンクール東京大会出場、銅賞「詩篇交響曲」
昭和47年3月、第五回演奏会 於・東京文化会館小ホール
昭和47年7月、合唱指揮者協会主催 「知られざる名曲をたずねて」出演
昭和47年10月、合唱連盟主催 合唱コンクール東京大会出場
昭和48年3月、第六回演奏会 於・東京文化会館小ホール
昭和48年10月、合唱連盟主催 合唱コンクール東京大会出場、銀賞「パレストリーナ」
昭和49年3月、第七回演奏会 於・東京文化会館小ホール
昭和50年5月、第八回演奏会 於・東京文化会館小ホール
昭和49年10月、合唱連盟主催 合唱コンクール東京大会出場
昭和50年6月、合唱指揮者協会主催 「知られざる名曲をたずねて」出演
昭和51年7月、合唱指揮者協会主催 「知られざる名曲をたずねて」出演
昭和51年10月、村谷達也コンダクトリサイタル「ブラームス合唱作品の夕」、ブラームス・ソサエティ合唱団として出演
昭和51年12月、第九回演奏会 於・東條会館
昭和52年7月、合唱指揮者協会主催 「知られざる名曲をたずねて」出演
昭和52年9月、ニューソングの会「創立15周年記念作品発表会」出演
昭和53年2月、第十回演奏会 於・東京文化会館小ホール
昭和53年6月、合唱指揮者協会主催 「知られざる名曲をたずねて」、根岸混声合唱団と合同出演
昭和54年7月、合唱指揮者協会主催 「知られざる名曲をたずねて」出演
昭和56年2月、第十一回演奏会 於・上野学園石橋メモリアルホール
平成8年5月、創立30年記念ミニ・コンサート 於・日暮里サニーホール・コンサートサロン

歌声喫茶が最盛期を迎え、各会社で職場合唱団を設けるなど、歌うことがメジャーな時代背景のなか、20才代の社会人を中心とした団(発足当時の平均は22歳)でした。父・比左志も20才代であった若さゆえによる未熟さ、40才を超えても苦悩している村谷氏。そんな二人の様子が垣間見れ、集団組織を形成していくことの難しさが伝わってきます。
だから父・比左志は、自分の合唱活動と仕事を両立させたいがために、自営業の道を進んだのかなと推測しました。
村谷達也氏の要求に応えようと楽曲を練習するかたわら、季節ごとの各種イベントが行われ、団員相互の理解と親睦を図り苦楽を共にした、良き青春の思い出を残した合唱団であったようです。

しかし団員が年齢を重ねるに従って、父・比左志だけでなく他の団員や団活動などにも様々な変化が生じていきます。
村谷達也氏の下で、さつき合唱団の団員が中心となってブラームス・ソサエティ合唱団が結成され、やがてさつき合唱団の活動は凍結されました。
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ブラームス・ソサエティ合唱団は、村谷達也氏の指導するアマチュア合唱団の有志によって、昭和51(1976)年10月26日の村谷達也コンダクトリサイタル「ブラームス合唱作品の夕」のために臨時に編成された合唱団です。
さつき合唱団と根岸混声合唱団が中核となり、三和銀行東京合唱部、東燃石油合唱団、三菱信託銀行合唱団、安田火災海上合唱団、慈恵医大・共立薬大混声合唱団、聖マリアンナ医大合唱団、生田コーラス、生田児童合唱団で編成されました。
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昭和55(1980)年1月18日の村谷達也コンダクトリサイタル「ブラームス混声合唱作品」には、ブラームス・ソサエティ合唱団として主演しました。ブラームス・ソサエティ合唱団の団活動は長くなかったのか、やはり村谷達也氏の下でその後は、TMカンマーコーアやブラームス女声合唱団に枝分かれし団員が散っていきました。父・比左志もTMカンマーコーアに所属していたようです。
昭和57(1982)年11月13日の村谷達也コンダクトリサイタルX「女性のためのヨハンネス」には二期会女声合唱団とブラームス女声合唱団が出演、昭和58(1983)年5月7日のブラームス生誕150年祭「村谷達也ブラームス合唱・重唱作品連続演奏会Z」にはブラームス女声合唱団とTMカンマーコーアが出演、昭和62(1987)年10月23日の村谷達也コンダクトリサイタル]にはブラームス女声合唱団と東京混声合唱団が出演しています。

さつき合唱団の元団員数名は、浦和市民合唱団に在籍しているのを確認しました。
村谷達也氏の下にではなく、1981年に荒谷俊治氏の下に東京コールフェラインが結成され、こちらに所属した方たちもいたようです。
ですが不思議なものを発見しまして、1965年9月14日の東京コール・フェライン第四回定期演奏会のパンフレットがあり、そこに父・比左志がバスに所属し出演しているのです。1981年結成の東京コールフェラインとそれ以前の東京コール・フェラインがあること、荒谷俊治氏と父・比左志とに何か関係があるのか、謎が増えました。

父・比左志は1980年(昭和55年)の前半までは、精力的に合唱活動を行っていました。ママさん(PTA)コーラスの指導を依頼されたのは母にでしたが、引き受けたのは父・比左志で、昭和56年度の半年ほどだったそうです。
昭和58(1983)年5月7日の演奏会に出演以後は、合唱活動の記録が見当たりません。振り返ってみればちょうど仕事が忙しくなって、事務所にアルバイトを募集したり私(息子)に夏休みに仕事を手伝いに来させたりした時期です。ですが10年ほど経つと景気が落ち込み、コンピューターが進化するにつれて父・比左志の仕事が失われ始めました。

そのようなかで、自分の終末を考え、再び音楽を生活の中心とするべく、長く深く関わったこの合唱団の活動を再開させたいと思ったのでしょう。1992年に自宅を改築して音楽室を設けたこともあって、かつての仲間を自宅に招いて、会食して歌うホームパーティーを幾度か行うようになりました。そして創立30年記念ミニ・コンサートを開催します。
56歳で仕事をやめ、再び合唱活動を取り戻そうとしたわけです。父・比左志が、それで生活の維持をどのようにしようと考えていたのかはもう知るところではありませんが、自宅を改築した意図はここにあったのだと推測します。指導の講師料と印刷物の制作費で稼いでなんとかするつもりだったのかもしれません。
ただその姿勢は「自分のやりたいことをやる」ということだったと思います。晩年の様子は別ページで記しています。

父・比左志は、合唱だけで生活ができればいいなという理想は昔から持っていたようです。団内機関紙(No.2号-1942.3.19)の他人紹介にて『音楽センターでもつくって一日中でも合唱をしたら面白かろうなんて夢もある。』と記されていました。でも音楽活動だけでは生活はできません。だから関屋晋氏に羨望を抱いていたのではないかなと感じたのです。


以下のいくつかの引用は、そうした推測を抱くにいたった基の資料です。
引用での筆者のクセもあるでしょうが、漢字の使い方や言葉の使い方が、現在のものと所々異なるようです。できる限り原文通りとします。

■しらめえ通信、<知られざる名曲をたずねて>演奏会ニュース、No.1、1972.2.5、発行人・関屋晋
さつき合唱団「乾杯!乾杯!乾杯!」
わたしたちの合唱団は満五才、現在の団員数は三十五名ほど、練習は毎土曜の夜六時から、新大久保のホテル街にある練習場でやっています。いつも楽しい練習とはいきませんが、出席数が多い時などは、たくさんの仲間といっしょにいるというだけで、なんとなくうれしくなります。
団の特徴といえば創立当時からブラームスを歌いつづけていることの他は、宴会がとても好きなことです。練習が終わると、その日の練習の出来・不出来に関係なく、まず乾杯、歓談しながら飲みます。
合宿などでは、夜中の二時、三時までのドンチャンさわぎ、はじめての合宿に参加した団員は、これが合唱団の合宿かと驚くほどです。新しく入団される方にはこういって指導します。「当合唱団は練習五分に宴会五分なので、音楽だけで当合唱団を判断しないように」


一号から掲載されるのは、やはりそれなりに関係が深いからでしょうか?

■団内機関紙(No.5号-1943.7.13)
私の主張「さつきを日本一に」五味比左志
・・・それは今迄の合唱運動は間違って進められてきたからだ。なぜたった週一回の練習にもさぼるような人を、なだめすかしておだてながら引っぱっていかなければ合唱団の運営が出来ないのか。合唱の楽しみ喜びを知りたければもっと進んで練習に参加するのが当然だし、次の練習日迄に自分で練習してくるのは当然の義務であろう。こう云うととかく誤解されやすい。何も声楽をやらなければ合唱団員の資格がないといっているのではない。
ところで合唱団の目的とはなんぞや、きまっているよ。合唱団とは合唱をすることだ。・・・合唱団が合唱を忘れてはならないし、団員が練習を拒んでは何にもならない。又運営がどうの、幹事でないからどうの、そんなことは二の次だ。要するに合唱の練習がうまくいければそれでいいのだ。運営のための運営であってはならない。
私がさつきをつくったのは、さつきが日本一の合唱団にしたいからだったのだ。実力的にも内容的にも、だからコンクールにも優勝したいし、合唱団のレベルを向上させたかったから、あえて演奏会を強行したのだ。とにかく理屈はどうでも仲よくやろう。さつきをいい合唱団にしようぜ。


■団内機関紙(No.10号-1943.12.22)
「コンクールに優勝を!」五味比左志
さつきが誕生して早二年半、最近ようやく合唱団としてまとまりが出来てきたし、発足当時にくらべるとたいした躍進をしている。又、さつきの個性も出てきたと思う。
・・・だが、ここで、重要なことは今後のさつきだ。一番いいのは何か目標を作る事だと思う。目標をもって、計画的に練習を行えば、必ずやさつきは発展するだろうし、一回一回の練習は充実した内容が得られるものと思う。
そこで私は一大目標を全日本合唱コンクールにおいて全国優勝する事を提案したい。これを三年計画で行うために、私は出来る限りの努力はするつもりである。やってやれないことはない。


■団内機関紙「さつき」第12号、(1944.2.1)
「目的と目標について」村谷達也
「さつき」10号を読んで気になることがあったので、あえて投稿に及んだ次第です。それは、さつきのコンクールに対する姿勢です。発足以来毎年参加してきたし、事実、“さつき”にとっては、団の運営上でも合唱技術の上でも、非常に大きい年間プランのアクセントになってきましたし、実力以上の貴重なチャンスとして利用してきました。しかしよく考えてみる必要があるのは、では“さつき”はコンクールによって支えられてきたのか、ということです。そう考ええると“さつき”にとってのコンクールは、大きいアクセントには違いないけど、“さつき”を支えている要素の何分の一の、つまり条件の一部でしかないということです。 “さつき”を支えてきた最も大きい力は、僕は選曲だと思っています。選曲の重要性についてはまたの機会にゆずりますが、ジプシーの歌、ドヴォルザーク、詩篇交響曲、ネーニェと、それぞれの曲がその内容の深さであなた方をとらえてきたこともさることながら、決して平易ではない練習の過程でもたらしたあなた方ひとりひとりの音楽への欲求を確かめたこと、それが“さつき”を支える力を培うことにもなっていることです。そう考えると、コンクールは“さつき”にとってそれほど比重の大きくないことがわかると思います。
“さつき”を創った動機は、僕の指揮する職場合唱で、職場用の選曲では満たされなくなった人達のために、広い合唱の世界にはこんなにいい曲があるのだということを知ってもらうために出発したことが始まりで、この考え方は、いまも変わっていません。何も日本一になるために創ったのではありません。プロの出来そこないにならないよう、“さつき”の真の目的は何かを充分に見極める必要があります。目標と大目的を混同しないよう充分に注意して下さい。しかし、コンクールにしても台東区の合唱祭や演奏会も同様ですが、その都度の目標にたいしては強い積極性がなくてはならないと思います。練習と発表(場所の如何を問わず)は表裏一体だからです。自分達の作る音楽が独善にならないよう、鏡に映してみることが大切です。独善ほど危険で醜いものはありません。
以上、コンクールに対しては、これまで通り、積極的に利用していくだろうと思いますが、これはあくまでもその都度の目標にすぎないこと、“さつき”の目的は、もっとゆとりある大人の世界で求めてほしいとねがっています。

<知られざる名曲をたずねて>連続合唱演奏会に至る源であろう内容である。村谷氏と父・比左志は対立したのか?、でも歩み寄ったのか?。その後連続して演奏会への出場は続いていく。

■団内機関紙「さつき」第17号、(1944.11.29)
「あなたに問う」村谷達也
今年のコンクールの「さつき」の演奏には大きな失敗があった。課題曲が始まってすぐ2小節目で音程がふらつき始め、バスで入る2貢目になると、すっかり半音上ずって、そのまま音程のふらついた不安定な状態で終わってしまった。こういう場合、どのパートがわるかったから、という原因詮索はあまりにも単純で、本質的な問題解決への有効手段になるとは思われないのでふれないでおく。課題曲が例年よりむずかしかったことは事実だが、失敗はそのせいだけではない。練習の過程では例の男声三部の部分の苦労ぐらいで、最初の一貢など音程も曲想も平凡な常識以上のものではなかったはずだ。 少なくともこの貢で失敗が起ころうとは想像もしなかった。それどころか、ぼくは、本番での多少の緊張の中で味のある即興性さえ楽しみにしていたし、音とりから最初のアインザッシ(歌の出だしのこと)にうまく滑り込んで、数小節がたっぷり流れ出せばあとは部分的な音楽作りを経て、自由曲は落着いてーーと、それはむしろ確信に近いものを持っていた。結局はぼくの判断が甘かったという以外にない。
自由曲は、音をとりなおせばよかったかもしれないと思ってもみるが、課題曲での極度な緊張のあとでは、音を取直すことで落着きを取戻すことがどれほどできたか、おそらく立直れなかっただろうと想像している。本番とはそういうものだ。“演奏”という行為もまたしかり。最初の数小節で死活が決定されてしまうものなのだ。とにかく半音高い調で始まった自由曲は、すでに原調のモテットとは異なる性格のものである。そのうえ発声や音色、音程の破綻が起り、勝手の違う演奏になってしまった。しかしその限りでは、課題曲ほどの不安定さはなかった。一応無事、といえなくもない。練習中から問題だった“アメン”はひどかったが、それも原因は課題曲の出発のときにある。いや、もっと厳密にいえばそれ以前にある。 音とりの厳粛な一瞬の中に、ひとりひとりの心のなかに、どれほどの充実が秘められていたか。さらにそれ以前の練習の過程ではどうだったか。原因は、そこまで坂上がらなければ意味がない。個々の反省がその時点でなされているかどうか。また、個々の練習の姿勢が、個々の練習量の満足感だけに結び付いていることに止どまり、“演奏”という行為への自覚にまで至っていなかったのではないか。ひいては、個々の合唱団という集団に対する価値観の範囲、あるいは認識の種類や性格の不均衡や不統一が、自己あるいは属している集団にどういう形で影響しているか。すべて重要な反省の問題点であろう。
コンクールの失敗から問題が発展したが、これは「さつき」の体質の弱点指摘という本質的なものでもある。ひとりひとりが充分に自分に問いかけてほしいところだ。どの本番でも練習には個々の精一杯の事情の中でかなりの厳しさがあるだろうが、いかにそれが厳しかろうと、それは団員個々の事情であって“合唱団の演奏”とは必ずしも結び付くものではない。また、音楽が好きとか歌うことが好きだということと“演奏する”こととの間にも、性格的には何ら共通するものは存在しない。 あなた方が、単に練習量が充分だったとか音楽が好きだということで合唱団を形作っているとすれば、そこには“演奏”を期待できるものは何もない、ということだ。合唱団の中で“よい演奏”を期待するなら“演奏”のための姿勢が必要だ。「さつき」の中の“あなた”は果たしてどうなのだろうか。合唱団には合唱団のビジョンに対していろんな考えの人達がいてよい。不均衡とか不統一というのは、広い意味の「さつき」へ働きかける純粋な精神的エネルギーの個々の姿勢を指しているのだ。
演奏というは非情なものといってよい。よく原因にパートのまとまりが問題にされるが、演奏につながる合唱団のまとまりは、人情では決して果たせるものではない。人情と演奏とはどこにも結び付くものはない。人情が役立つのは、練習や演奏とはまったく違ったところにおいてである。人情が合唱団にあまりのさばってはいり込むと逆効果さえ生むことがある。練習や演奏というものは、その瞬間瞬間は最高に孤独でなければウソだ。この孤独こそ、また最高に充実であり幸せであるはずだ。このことをもよく考えてほしい。個々の技術の差など大した問題ではない。他人との比較ではなく、その人が10/10かどうかが問題だ。そういう意味の均衡であり統一でなくてはならないのだ。
ぼくの立場はふた通りあって、“指揮”と“指導”とその性格は、はっきりいって異っている。“指導”は“技術を習得させる”という一方的なものだが、“指揮”は協同作業だ。音楽が存在しうるのは、この協同労作の場においてしかない。“指導”のなかには音楽は介在しないのだ。あなた方は、あなた方にあるこの二つの立場をはっきり自覚しているだろうか。本番でも何でも、つねに“指導される”側の立場にいて、演奏という協同労作の積極性を見失っていることがありはしないか。あなた方の趣味が合唱団にまで発展した形をとっているということは、それなりの目的ないしは期待があるからではないのか。
少なくとも以上の反省は必要であろう。そうでなければ、今年のコンクールの失敗は醜態以上の何ものでもありはしないのだ。


■団内機関紙「さつき」第18号、(1945.1)
「新年によせて」五味比左志
明けましておめでとうございます。
一九七〇年今年はEXPO、安保と騒がしくそして人類の偉大な躍進と発展を期待できる七〇年代の幕開けである。
さて、さつきの今年は1/17〜18の合宿そして三月の第三回演奏会をむかえるにあたって、最近入団された方達にさつきを理解してもらうために、今までの反省と今後の方向等を考えてみたいと思う。
もともと、さつきは村谷先生が指導されていた合唱団の人達、その知人達の中から現状の合唱曲ではあき足らず、より音楽性の高い合唱曲を歌いたいために作られ、はじめから音楽性を求め、良い演奏団体を目標としてきた。そして第一声を発したのはブラームスのジプシーの歌、まずは声を前に出す様にと力のかぎりのものをぶつけて歌った。この曲は第一回の演奏会(日本語)第二回(原語)と実に三年間歌い続けてきた。第一回演奏会では、この他にもドヴォルジャックの「スターバトマーテル」ストラビンスキー「詩篇交響曲」村谷先生の「いとなみ」等多少無理なプログラムを組み気負い立ってると思われたが、これがさつきを一段と躍進させ、坂道をかけのぼらせたのである。
だが、さつきは大きな壁につきあたった。発声である。発声は音楽の表現に欠くことのできない条件であり、ブラームスの曲ではなおさらであった。そこで第二回の演奏会ではまず発声を中心に練習してきたが、もう一つの壁であるハーモニー作りは余り訓練しなかったので、この演奏会と昨年のコンクールの失敗は起こるべきして起こったと言える。この件は前回の機関紙での村谷先生の指摘注意された通りである。
さつきのような少人数では透明なハーモニーを作る事はなかなか難しいが昨年六月に掲げた“美しいハーモニーを作ろう”の目的に沿ってコンクールのモテットや今回の演奏会、又ネーニエの再度演奏、先に述べたジプシーの歌を三年間歌い続けた事など、ただ漫然と演奏会を開いているのではない。
年のはじめに“さつき”を再認識して、今年は是非美しいハーモニーを作ろうではないか。そしてアマチュア合唱団として正しい方向をみつめる事はもちろんであるが、楽しい合唱団にしたいものである。


■団内機関紙「さつき」第20号、(1945.6.13)
「今年の目標」五味委員長
今年の「さつき」の目標と書き出す前に、三回目の演奏会のレコードが出来てきたので、まずこれを聴いてみる事とする。というのは今年の目標「演奏をする表現力をつける」を立てた所為は、今回の演奏会の結果から出てきたのである。
演奏会(含コンクール)は合唱団の進歩を示す最大のバロメーターである。だから目標は演奏会の後が立てやすい。しかし演奏会を聴かなくても結果はわかる。
普段の練習結果が演奏会である。練習以上のものは生まれてこない。だから一回一回の練習も合唱団の進歩を示すバロメーターの一つである。故に以前より提唱している「一回一回の練習に充実を」と言う事にもなる。又、「練習そのものが演奏である」と言える。
今回の演奏会のレコードを一通り聴いてみて一番先に感じた事は、安心して聴いていられた事だ。前回までの演奏会の録音を聴くたびに此処此処と当時の練習状態をいちいち想い浮かべながら、冷々して聴いた事を思うと、一段の進歩の跡がわかる。
昨年度の方針である「美しいハーモニーを作ろう」は100%とはいかなくてもある程度達せられたと思われる。しかし細部についてはまだまだ追究の余地はある。
ブラームスの合唱曲は現状でのさつきにとっては精一杯であろう。もっと基本的な言葉、発声などの問題を克服するには相当時間が必要だ。マドリガルは一応まとまっているが、まだハーモニーの不安定の所がありマドリガルの持つ楽しさ軽快さは出ていない。六月二十六日の都連コンサートで、このマドリガルをどこまで表現出来るかが課題である。
又、今勉強中のブラームスの六つの歌も、モテット、ネーニェほどの難しさはないだけに一層表情に重点がおかれる。それには個人個人の感じかたと、それに伴う表現力の技術を身につけていかなければいけない。
五年目を迎えて今年の「さつき」は幼児期を脱出し、心身ともに豊かな青年期に入ったとも言える。これからが重要な時期であり、将来性のある「さつき」を一人一人の豊かな音楽性で築いていこう。

紹介:結婚して一年三ヶ月、現在家族は二人半(十二月のゴ予定)
合唱暦:戦時中に幼少を過し音楽は関係なし(ーナゲクー)。本格的には“ハナ”も恥かしき高校時代、現在に至る(しめて十三年)
東京で生まれ長野県岡谷市で育つ。現在浜田山に安住。デザインをお仕事としている。


■団内機関紙「さつき」第22号、(1945.8.29)
「『わたしの願い』について〜自己への告発〜」村谷達也
選曲が合唱団にとって非常に大切なことは云うまでもないが、そうかといって絶対的な意味はない。
「わたしの願い」についても同様だ。僕の立場からは、まず最初の条件として、技術的にもあますことのない範囲で選んだ。どんな名曲でも、限られた期間に音楽作りをする場合、その合唱団の現状の技術を超えるものは徒労に終わるからだ。それと、「さつき」に対して、演奏と云う行為を、もっとナマな現実の行為として見て欲しいためでもある。
アマといえど演奏は自慰的であってはならない。「自分だけのもの」でよいと云う姿勢は、感傷や独善で、もはや音楽の本質から離れてしまって、それを演奏ということはできない。技術的に消化困難な曲には、そういうことが起きやすい。
また、「わたしの願い」には、私達に人間の在り方に対するさまざまな問いかけがある。詩を通し、私達の精神の深奥を今一度見つめる必要があると思うし、そういう精神の開拓から、ほんとうの人間の心を知る自分が育っていくのだともいえる。
詩が音楽となって、それに私達が接し、そして練習を重ねるごとに自己の内部で納得しそれが積み重ねられたとき、「さつき」の演奏するこの曲が、真実、あなた自身の人間の声となって、そしてそれは、ひとつの生命となって流れ出す。そういう演奏にしたいと考えている。
この曲は、そういう意味でも、今の「さつき」には、じっくり取り組んでみたい内容の曲でもある。明るい曲とか、楽しい曲とか、悲しい曲とか、そういう分け方はできない曲だ。あえていえば、自分を問いつめる厳しい発想が一貫していて、fをfで歌うことすらためらわずにはおれない、そういう勇気のいる曲だ。
どうか、僕と同じくらい、この曲についてあなた方も勉強してほしい。pだからpで歌えばよいといった安易さでなく、何の意味でpで歌わなければならなのか。優しさをこめたpなのか、絶望のpなのか。その絶望さえも救いのないpなのか。優しさだったら、どういう優しさなのか。安らぎ、暖かさ、慰め、等等・・・。
「わが家族の肖像」は、土の匂いと素朴な郷愁があった。「わたしの願い」には、私達の荒され肥厚した心の告発がある。あなたはどう受けとめるか。

筆者紹介
本名:村谷達也
生年月日:大正拾五年八月拾九日
生地:福岡県、農家の三男ボーとして生きる
合唱経験:幼少の頃より近所の子供とコーラス、武蔵野音大声楽学科卒
趣味:モケイヒコーキ(ゴムをまくやつ)を作ること。自分で本物の飛行機を操縦したい。
理想の女性:声の良い人、カンの良い人


■さつき合唱団創立30周年記念誌掲載「さつき誕生の頃と再会」の初期原稿
さつき合唱団を作ろうと思い立ったのは、今から30年前の昭和40年の12月頃であったと思う。村谷先生の家に、先生が指導している各職場の主なメンバー10人ぐらい、たしか先生が作曲をした、どこかの会社の社歌を録音するためにかり集められた人達を見聴きして、このメンバー達が集まったら、よい合唱団ができるのではないかと思ったことが、さつき合唱団を作るきっかけになった理由である。
初めはあまり乗り気ではなかった先生も、ついに合唱団を作ることに賛同を得て、いよいよ新しい合唱団発足となった。
翌年の5月のある日曜日、村谷先生宅に呼びかけられたメンバー達が集まり、新しい合唱団が誕生した。団長(teramoto氏)をはじめ役員など決め、規約を作り、名前はとなったが、なかなかいい名前が思いつかなく、さつきの名前は次回に持ち越され、結局5月に出来たのだから、さつき合唱団と名付けられた。合唱団としての第一声はアルカデルトの「アヴェマリア」であった(※1)。
合唱団の目標としていたのは、ある程度高い水準の音楽を求めていたのは事実ですが、私個人としては、それに歌う仲間を大切にしたい、集いを楽しみ、楽しい合唱団にしたいと願って合唱団を育てて来ました。
その成果かも知れない、でも、それよりも本当によいメンバー達に恵まれ、さつき合唱団を形成し活動して来れたことが、今度のさつきの再開に繋がった事と思う。
3年前の1月、久しぶりにみんなが集まり酒を酌み交わし、語り合いながら合唱を楽しんだ新年会、時代を超え、年齢を超え、20年前の合唱団の雰囲気そのままであった。みんながさつきを慕い、仲間を慕う、本当に合唱の好きなこの仲間達といつまでも歌って行きたい。
1996.4 GOMI
※1
機関紙「さつき」第18号では『第一声を発したのはブラームスのジプシーの歌』とある

(記2016.01、改2023.12)


五味比左志〜合唱とともに〜