全日本合唱連盟の会報として合唱専門誌として発行している「ハーモニー」。1971年10月に創刊した。 父・五味比左志が2003年4月に亡くなるまでに遺した「ハーモニー」は全日本合唱連盟からの贈呈であり、欠品は、13号・20号・34〜36号・119〜121号のみである。 「ハーモニー」以前の「全日本合唱連盟ニュース」「全日本合唱連盟会報」も遺している。 「さつき合唱団」指揮者の村谷達也氏に連れ立って父・比左志は、日本合唱指揮者協会に入り浸っていたという。村谷達也氏との関係が当時は深かった等は別ページに記す。 その村谷達也氏は「ハーモニー」創刊より編集を担当しており(100号記事にて確認)、父・五味比左志は12号(1974年夏号)〜17号(1975年秋号)の編集に携わっていたのは間違いないようだ。12号は編集後記の記載から、13〜17号は物的に残されていることを証拠とする。その後は作成に関わっていないのか、何も残されていない。 13号から表紙が変わっているが、Harmonyの文字など、父・五味比左志のデザインが一部採用されたようである。 これは、仕事を請負ったというよりは、当時(1974年)全日本合唱連盟理事であり事務局長であり「ハーモニー」編集担当理事であった村谷達也氏を手伝ったものだと推測する。また、13号からは関屋晋氏も編集担当理事となっている。なぜ、関屋晋氏と知り合いであったのかが私にはわからなかったが、このあたりからその後のつながりができていたのかもしれない。20号からは「思い切って外部のその道の専門家に製作をお願いすることにしました。(21号編集後記)」とある。 それでも全日本合唱連盟との仕事の付き合いは続いている。楽譜「合唱名曲シリーズ」の製作を請負っており、No.7(1978年発行)・No.11(1982年発行)・No.27(1998年発行)は版下が、No.26(1997年発行)は請求書が残されている。 「合唱名曲シリーズ」でも父・五味比左志の名が記されていた。表紙デザインだけでなく仕事を依頼されていた可能性はあるが、その都度パーツごとに各下請けに発注されていた感じがする。そのなかでもNo.7は、編集は村谷達也氏が委員長で関屋晋氏も名が連なれていることから、No.7では全面的に仕事を依頼された可能性が高いと推測する。No.3以降の冊子を確認したところ毎号で変更があり、No.7では、歌詞のページの構成およびフォントはNo.6と同じだが、奥付の構成が変更され、表紙で使用されている「7」と同じフォントに初めて揃えられていた。その後のNo.14では奥付のフォントが異なっていたことや、No.8とNo.12の冊子にはNo.13の構成を考えて書き込みがなされていることから、おそらく、全面的な依頼はNo.13までだろうと推測する。また、No.9とNo.10の歌詞のページでの構成やフォントが、後の自主CDの解説書で取り入れられてまったく同じであった。 「合唱名曲シリーズ」での曲の選定および掲載にあたっては、現代曲ばかりではないことからその曲の歌詞の訳詞や掲載に伴う協力をくださった専門家がいる。その方々の名を見ていると、父は、ラジオを好きで聴いているだけでなく、番組にその方々の出演されているものだったり、曲の背景となる時代考証を伴うものだったり、解説だったり、そういうものもひっくるめて聴いて勉強していたのかもしれないと感じた。 1988年に横浜で何かが行われたのかそのデザイン画、90年のコンクールの募集案内、おかあさんコーラスは、全国大会の入場券販売告知やプログラムに掲載されたものか連盟理事長の挨拶文も含め、14回(1991年)〜16回・19回〜23回(2000年)大会のものの版下が残されている。また、100号(1997年春号)〜116号(2001年春号)では各合唱団演奏会の情報広告や各広告の版下を作成している。印刷所にてネガまで作成され、そのネガと請求書も残されている。 1948年創立なので、合唱連盟創立50年というと1998年のものだと思われる。 請求書では、紙面のカットの大きさや価格が明示されている。 冊子で確認すると、写植打ちして一応完成されたものがさらにパーツとして取り扱われ、枠ごとに組み直されている。最終的にはDTPで作成されたようである。写植のこの仕事の衰退を目の当たりにした思いである。 116号は版下と同一であるが、117号は異なり作り直されている。 平成15年4月13日付けであるが、10日に自宅にて倒れたと思われ、13日に発見搬送され入院した。出場し指揮をする自分の合唱団の演奏会が4月20日にあり、13日はその練習日で連絡なく欠席したことから、その団員であり高校のときの後輩でもあったakabane氏によって倒れているのを発見されたのである。演奏会に向けて納品しようとしたもので、これが最後の仕事となった。演奏会当日の20日が命日となった。 縁が強かったのか、村谷達也氏は8年後の4月20日に、関屋晋氏は2年後の4月9日に、没している。 村谷達也氏との出会いが合唱専門誌「ハーモニー」の発行に自らが関わることにもなったのだが、それまでは月刊合唱界を愛読していた。小さな楽譜が付録され、上京する前の昭和36・37年はほぼ毎月のものが遺されている。38年は1・4・7月号、40年は4月号のものが遺されている。村谷達也氏に師事した後からドイツ語の勉強を始めたようで、NHKの教本等からその形跡がうかがえる。村谷氏の影響によりブラームス作品好きにもなった。だが、父は関屋晋氏に憧れていたのかもしれないと感じる。後年まで何らかの関係が続いていたようだが、直接のやりとりが多くあったのではなさそうだ。NHK-FMで放送される合唱コンクールの特別番組は欠かさず聴いており、関屋氏の講評に注目していたのではないかと感じる。 また、日本合唱指揮者協会とも何らかの関係が続いていたのか、第1回北とぴあ合唱フェスティバルの仕事も請負っていた。父の仕事のエリア内での開催だから受注されたのかと思って、区のイベントであった産業祭のチラシとともに版下は処分してしまった。 松原混声合唱団・舫の会・浦和混声合唱団、これらの合唱団からの仕事も常時請負っていたが、これも処分してしまった。岸信介氏は今や全日本合唱連盟の理事長になられたが(在任は2014年〜2022年)、氏とのつながりの糸はこのくらいでしか見出せないでいる。岸氏が関わった別の演奏会のプログラム作成もしている。岸信介氏の活動拠点に父の仕事場が近かったというだけではないだろう。浦和混声合唱団の当時の団代表がmurata氏で、そちらから仕事の依頼が来ていたようだ。取引のあった印刷所の中にmurataの名があるものがあるが、関連は不明である。 父・比左志が遺したものを確認していくと、合唱活動のなかで関わった人々が数十年の間にあちこちに点在し、そのようなことから仕事につながったものが多いことが読み取れる。 父・五味比左志の遺品を10年以上見続けているが、合唱への情熱は父自身の合唱への取組みだけでなく、「ハーモニー」誌のみならず東京の合唱界を、印刷出版の側面から下支えしていたように思える。 (記2015.11、改2023.12)
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