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佐々木正美 『子どもへのまなざし』 福音館書店



■子どもが社会に適応するための、社会的人格を身につけるには■
■育ち合ってこなければ、人間は人間社会で自律して生きていけない■
■親にむかってやりたいのに、それができない子ども■
■望んだことを満たしてあげる必要の大切さ■
■満たされない気持ち・欲求不満が、攻撃的な感情を生む■
■子どものいうことをどれくらいなら聞いてあげられるか■
■手のかかる子どものお母さんの気持ちも受け入れる■
■親の気持ちが、子どもに伝達する■
■自信を失わせてしまう接し方■
■相手のいやな点を感じやすい社会■
■人と距離を置いて孤立している人は、自律できない、個性は生まれない■
■孤独や孤立の裏側は自分勝手、自已中心的、誰も信じられない■
■自分が今、どう生きるかということのほうに一生懸命な社会■
■親よりも不幸せな子ども■
■母性的なものが伝わってから、しつけとか教育とか訓練をする■
■母性的なものが十分与えられていないと、社会性といった父性的なものが伝わらない■
■大人が注意をできないのは、仕返しを受けるかもしれないから■
■幼児期の育て方に無責任になった社会■
■子どもの弱点や欠点は、あまり指摘しなくてもいい■
■長所を気づかせてあげないと、宝の持ちぐされで終わってしまう■
■「えこひいき」されて、力強くなっていく■




■子どもが社会に適応するための、社会的人格を身につけるには■ トップへ


子どもたちはあるときは自分の意見を通し、またあるときは相手の主張を認めるなど、相手の能力や性格を観察しながら、自分のとるべき態度や役割をつくっていくのです。そのようにして、子どもたちは社会性を身につけていくわけですね。ところが、それは一人だけではできません。子ども同士で学び合ってこなければ、子どもが社会に適応するための、社会的人格を身につけることはできないのです。ですから、他の子どもと一緒に育つということが、とても大切になってくるのです。

わかりやすい例でお話しますが、たとえば、英国には王室があり、わが国には皇室がありますね。王室のなかの子どもたちといいましょうか、王室の人たちはあまり他の人と育ち合ってこなかったと思います。

人が育つという場合に、なにが育たなければいけないのかといいますと、社会人として健全に生きていくための、社会的人格が育たなければいけないのです。そして、その社会的人格は誰かによって教えられるものではなく、誰か他の人と一緒に育ち合っていくなかで、つくりあげていくものです。だから、そのような環境で育てられないとダメなんですね。

王室の人たちは、ごちそうを食べていますから体は大きくなりますし、教育もしっかり受けていますので知識も豊かだと思います。ところが、わりあい閉じられた環境で育てられてきましたから、王室のなかだけでなら、しっかりと生活をできる人にはなります。けれども、社会的人格は本当には育ってないと思いますね。


■育ち合ってこなければ、人間は人間社会で自律して生きていけない■ トップへ


近年、英国の王室の人たちは社会に開かれた王室にしようしました。ところが、社会人として育ち合うような環境で育ってこなかった人たちを、社会に開かれた環境のなかにおきましたら、いろいろと問題がでてきましたね。たとえば、エリザベス女王以後の王室の人で、結婚生活を継続できた人はいないのです。エリザベス女王は開かれたところにいらっしゃらない、だから、育てられた環境のなかに、そのままいればよっかったわけです。チャールズ皇太子とダイアナ元妃の離婚もそうですが、他の人と育ち合うということがなく育った人が、本当の意味で社会的に開かれた環境におかれたら、どうなるかわからないということだと思います。育ち合ってこなければ、人間は人間社会で自律して生きていけないということを、私たちは知らなければいけないと思います。

私たちの場合でも同じですね。たとえば、私が自分の子どもを育てようとするときには、親として自分の子どもを一生懸命育てますよ。そして、心をかけ手をかけたりして育てますと、その子どもは家族というなかではしっかりと生活できるし、家のなかでは平和にすごす大人になっていくでしょう。けれども、それは社会人としてちゃんと育ったことではないのです。

育つということは、日常生活のいろいろな感情を共有し合いながら、他の人と育ち合ってなければいけないものです。ですから、自分の子どもがちゃんと育っているかどうかということは、自分の子どもと一緒に、だれかが育っていてくれるということだと、私は思います。


■親にむかってやりたいのに、それができない子ども■ トップへ


子どもを押さえつけないでください。おもちゃを振りまわしたり、わざと人のいやがることや、小さい子をいじめたりする子どもに対して、幼稚園、保育園などでは、どう対応したらいいのかといいますと、厳しくしかったとしても、けっしてよくなりません。かえって事態は悪くなるということを、まず知っておいてください。園でそのようなことをする子どもは、本当は、親にむかってやりたいのに、それができないので園でやっているのです。ある意味では、家でできないことのうさ晴らしなんです。

たとえば、子どもが親にベタベタくっついて甘えたり、いたずらしたり、ちょっと乱暴なことをしたりして、愛情を確かめようとする場合、がんとはねつけてしまう親もいるんですね。子どもにとって、確かめることなんかできないほど、こわい相手もいるんですよ。ですから、子どもはちょっとでもこんなことをしたら、かならず殴られちゃうとわかっている相手にはそんなことはしません。

一方で、そういうこわい親やおとなは、子どもに対して、がんと厳しく対応すれば、ちゃんということを聞く子になると思っているのです。そういうやり方で育児をして、子どもがおとなしくなったからといって、「ほらごらんなさい、ちゃんということを聞くじゃないですか」とか、「この子は甘えてわがままをいっているだけなんだ」と思ったら、それは間違いだと思いますね。この人にさからったら、どんな目にあうかということがわかれば、子どもが相手のいやがることをしないだけなんです。

本当は、子どもたちを自由な気持ちにしてあげて、自主的にルールを守れる子にしなければいけないわけでしょう、それが育児や教育じゃないですか。親やおとなに強圧的に押さえこまれるから、子どもたちが、親のいう通りにするというのではいけないのです。育児や教育の大事なところは、子どもの自発的な行動を許しながら、ある程度、自分の感情や欲求をセーブができるように、子どもたちを育てていくところにあるのではないでしょうか。

そうでなければ、たえずこわい人がいなければ、ルールは守れないということになってしまいます。たしかに、厳しく押さえこんでしまえば、その場は、一見収まったようにみえるかもしれませんが、その子どもに、ますます人に対する不信感を、植えつけることになるのです。それは、けっしていい育児や教育ではないと思いますね。


■望んだことを満たしてあげる必要の大切さ■ トップへ


仮に、家で押さえつけられているのと同じようなことを、子どもに対して園でやったとします。たとえば、強いおしおきをするとかすれば、その子は園でも我慢する子になるでしょうね。けれども、家庭でも園でも押さえつけられてしまったら、その子の欲求不満はたまるばかりです。今度は、学校に入ったあとはどうなるのか、こういうことも考えなくてはいけないのです。

もしそこが、ものすごいスパルタ教育の厳しい学校だったら、そこでも欲求不満はふくらんでしまいます。さらに、思春期、青年期はどうなるのかということです、どんどん問題が先送りになって、うんと大きな問題になるでしょうね。実際に、多くの問題や事件が起こっているじゃないですか。

だからこそ、子どもが小さいときには、望んだことを満たしてあげる必要の大切さがあるんだと思います。園で人のいやがることや、乱暴なことをするということは、別の見方をすると、園でしかできないのかもしれません。気になる子どもたちがそういうことをするのは、園にきてやさしさや愛情に接したからだと思うのです。ですから、今までの不足分を取りもどすかのように、これでもかこれでもかと愛情を確かめる行為として、人のいやがることをするのではないでしょうか。

たしかに保育をする仕事をしていて、そういう子どもをかわいいと思えないこともあると思うのです。けれども、かわいくないということがあっても、少なくとも腹を立てることはしないで、ふびんな子だと思って、やさしく接していただきたいと思います。たとえ、たった一人であっても、やさしく受け入れられたという経験は、その子どもにとって、とても大事なことなんですから。

子どもの望んだことを、たくさん聞いてあげてください。まず幼稚園や保育園でできることは、みなさんのほうから「ああしなさい、こうしなさい」というような、要求や指示や命令は可能なかぎり小さくする、少なくすることが大切です。この子には「まだこんなことはできないんだ」ということを、認めてあげなければいけないわけです。ですから、他の子どもと同じようにいってもだめなんですね。

それはその子に能力があるとか、ないとかということではありません。人間は能力があれぱ、だれでもができるということではなく、やる気持ちになれるような環境でなけれぱできないわけです。できない子どもというのは、その能力がないんじゃなくて、やる気が起きないのではないでしょうか。そういう子には、子どものほうからの希望や要求を、たくさん聞いてあげることが大切なんです。そうすれば問題の解決は早いですね。


■満たされない気持ち・欲求不満が、攻撃的な感情を生む■ トップへ


ところが、そういう子どもたちに、なんでもいうことを聞いてあげようという気持ちで接すると、今まで聞いてもらえなかった分を、どっと一時に要求してきますね。要求がエスカレートする、あるいは、図に乗ってくるようにみえることがあります。そして、このままこの子たちを甘やかしたら、けじめがつかなくなって、とんでもないことになると思ってしまうかもしれません。けれども、その子たちは今までの満たされなかった分もまとめて満たしてくれといっているだけなんです。その不足分は本来、親に対するものだと思いますけれど、その子たちには、この不足分は親にとか、この不足分は保育者にとか、そういう風に気持ちの整理は、まだできないのですね。そのうんと大きい、どっとした要求を、どれぐらいかなえてあげることがてきるかということが大切なことですね。極端な言い方をすれば、そういう子どもたちは、保育者に甘えることができれば、それだけ小さい子や弱い子に対する、攻撃的なものは減ってくるものです。自分の要求が受け入れられるという経験が、積み重なっていくと、やがて甘えも少なくなり、そしてなくなり、やがて攻撃的な感情もほどほどになってくると思います。健全な範囲内にとどまってくる、こういうことになりますね。

ひと言でいえば、みなさんがこういう子どもたちの要求を、どれぐらい聞いてあげられるかということからスタートして、他の子の場合なら「こうしちゃいけない、ああしなさい」と、指示とか命令したくなるようなことを、どれだけ言わないでいてあげられるかというのが、気になる子どもたちに対する、保育の重要な部分だと思うのです。


■子どものいうことをどれくらいなら聞いてあげられるか■ トップへ


たしかに治療機関のように、治療者がマンツーマンで個室やプレイルームで、子どもたちとプレイセラピーをしているようなところなら、どんな要求だって受け入れてあげることができるかもしれません。ところが、幼稚園とか保育園という集団の場面での難しさがありますね。どういうことかといいますと、それまでは満足して、ふつうに生活していた他の子どもたちが、同じクラスのなかに特別に目をかけてもらう子がいると、「どうして何ちゃんだけあんなことがいいんだ」というふうになってきます。

ですから、他の子どもたちに対して、みなさんの保育、育児が従来通りであっても、AちゃんやBちゃんにだけ特別なことをすれば、他の子どもたちはイライラしてきます。集団の保育というのは、そういう難しいところがあるわけですね。とても欲求不満の度がすぎてしまって、あえて申し上げれば、病気になっているような子どもの場合には、治療機関でマンツーマンで治療しなければならないでしょうね。けれども、幼稚園や保育園でやれる限界というのは、他の子どもの欲求不満を誘発しないように、他の子どもからみて、「何ちゃんえこひいきをされている」という気持ちを感じさせないですむ範囲内で、なにができるかということを、みなさんは考えなくてはならないのです。

そのときの、みなさんの基本的な対応としては、子どもの要求をたくさん聞いてあげる、話を聞いてあげることなんです。おんぶしてほしいとか、だっこしてほしいとか、散歩にいくときには、僕と手をつないでほしいというようなことを、どれくらいまでなら不自然ではないか、子どものいうことをどれくらいなら聞いてあげられるのだろうか、ということを考えることだと思います。同時に、こちらからは、この子に「こうしてほしい」とか「ああしちゃいけない」といいたいことを、なんとか我慢できるようになるということです。子どもができるようになるまで、待ってあげることができるかということです。この二つを心がければいいわけです。


■手のかかる子どものお母さんの気持ちも受け入れる■ トップへ


本当をいうと、親もそうあってほしいと思います。子どもを欲求不満にしてしまう親というのは、親自身も欲求不満の場合が多いようですね。親自身が自分の欲求を、もっとかなえてもらいたいと思っているのです。そして、子どものことを、あれこれ言われたくないと思っているわけです。

ですから、園ではそういうことは言わないほうがいいですね。言わないほうがいいというより、親自身のことまで幼稚園や保育園ではできませんよね。みなさんがこういう子どもの親にできることというのは、親の不安を解消してあげて、欲求不満を小さくしてあげるように、親のいうことをゆっくり聞いてあげることでしょうね。

そして基本的には、保育者のみなさんの育児に関しての希望などは、ひと言も伝えてはいけないのです。そういう意味では、みなさんの仕事は大変といえば大変ですね。毎目毎日、こんなに手のかかる面倒なことばかり、つぎつぎとやってくれる子どもの親に、保育の苦労の一つや二つをぷつけてやりたいと、みなさん思われるでしょうね。けれども、そうすると、翌日からもっとひどくなるんです。もっと難しくなりますよ。みなさんが、手のかかる子どものお母さんの気持ちも、受け入れてやろうという姿勢を持たなければ、本当に事態はちっともよくならないと思うのです。

保育者のみなさん一人ひとりにも、欲求不満だってあるわけですから、かわいげのない子どもの親の気持ちまで、聞いてなんてあげられないという気持ちになるかもしれません。けれども、みなさんは保育という職業を選んだわけですから、プロとしての対応をなさらなければいけないと思いますね。こういう子どもたちの親には、本当にいやみや小言の一つも言ってやりたいと思っても、それは絶対言っちゃいけないことなんです。


■親の気持ちが、子どもに伝達する■ トップへ


反対に、「おはようこざいます。今日は寒いですね」と、気持ちのいいあいさつをしてあげる。あるいは「風邪がはやっていますけれど、気をつけてくださいね」と、ほっとくつろぐような、ひと言をかけてあげるだけで十分なんです。本当にひと言だけでいいんですよ。

一回いったからといって、親の気持ちがすぐ変わるわけではありませんし、10回も100回も必要かもしれません。けれども、そういうひと言がたび重なっていって、お母さんの気持ちがいやされて、自分にはやさしい言葉をかけてくれる人が一人いる、二人、三人いる、自分にはこういう人たちとのつながりがあると、だんだん実感してくるわけです。

お母さん自身が受け入れられることが積み重なって、はじめて、子どもをゆっくり受け入れられるようになるわけです。あるいは、子どもの気持ちをくみ取ることができるようになるのです。ですから、くり返し、ほんのひと言でいいですから、やさしい言葉、明るい言葉、気持ちのいいあいさつをかけてあげていただきたいと思うのです。みなさんが親にできることはそういうことだと思います。治療者じゃないんですから、治療機関で30分も1時問も、カウンセリングに時間を費やすというわけじゃないのです。わずかな時間でいいですから、ちょっとひと言、声をかけてみてください。


■自信を失わせてしまう接し方■ トップへ


もし自分が、他のすぐれた点を感じ取ることができなかったら、親としても、教師としても、保育者としても、臨床者としても、目の前にいる子どもを、そういう感性を持った子に、育ててあげることはできないわけです。けれども、私たちはしばしば、その子の短所や欠点、ダメな点から注意をしたくなるものですね。その結果、子どもに自信を失わせてしまう、劣等感をいだかせてしまうのです。

欠点や短所ばかりを注意され続けることによって、子どもは自分自身を信じられなくなってしまいます。こういうふうにしてしまうのが、もっとも不適切で下手な教育であり、育児であり、しつけであると、私は思っています。子どもというのは、私のこと、僕のことを大好きだといってくれる人に、どれだけめぐまれるかということが、その子がどれぐらい自信と誇りを持って、生きていくことができるかを決めることになるんだと思います。たった一人でもいい場合もありえるだろうと、私は思います。あっちでこう言われ、こっちであんなことを言われたって、私にとって、この人が無条件で承認してくれている、すばらしいといってくれる、比喩的ですが、そういうことがあれば、人はかなり安心して生きていくことができるわけですね。

私たちは、そういうことがわかっていると思っていても、つい短所や欠点のほうを指摘するようなことばかりを言ってしまいますね。みなさんも今日一日をふり返ってみて、自分の家庭で、自分のクラスで、子どもたちに対してあれこれと、注意ばかりいってきたと思いませんか。私たち臨床者は、しばしば、自分が日々やっている臨床的な営みを、ビデオカメラで全部収録して、終わったあとにそれをみて、あのときあんな言い方をしないで、こういう言い方をすればよかったとか、おたがいにデイスカッションすることがあるんですよ。

みなさんも場合によっては、自分の家や、保育室での一日すべての情景をビデオカメラで撮って、やってごらんになるといいかもしれませんね。そうすると、子どもをほめている時間が多かったか、しかっている時間が多かったか、あるいは、いろいろなおしゃべりの言葉のなかに、相手をほめる言葉とか共感する言葉が多かったか、非難する言葉や注意している言葉が多かったかということが、よくみえてくると思います。

おそらく人間にとって、人のすぐれた点を発見することは難しいのでしょうね。反対に、子どもたちの持っているすぐれてない点といいましようか、目ざわり、気ざわりなことは、誰にでも感じられることなのでしよう。もともと人間というのは、人のいやなところのほうを、感じやすいところがあると思うのです。さらに、私たちが生活している環境も、そういう感情を大きくする方向になっているように思います。とくに今の日本は、日本人をそういう方向に向けているようにも思うのです。


■相手のいやな点を感じやすい社会■ トップへ


私が大変親しくしていただいた、高名な心理学者であり文化人類学者でもある、我妻洋という先生がおいでになりました。何度か講演会などで同席させていただいたことがありますが、その我妻先生がよくこういうことをおっしゃっていました。「人間というのは、どこの国民だとか、どの民族だとかに関係なく、経済的、物質的に豊かな社会に住んでいると、外罰的、他罰的になる」と、こうおっしゃっていました。

なにか不愉快なことがあると人のせいにしたくなって、人を罰したくなるのを他罰とか、外罰というそうです。不愉快なことがあったときに、自分のふだんの心がけが不充分だから、努力が足りないから、今、こういう思いをしなければならないんだ、というふうに感じる感性を、内罰とか白己罰というそうです。

人間は経済的、物質的に豊かな社会に住んでいるほど、外罰性、他罰性を強くするし、「もの」の非常に乏しい社会に住んでいるほど、内罰、自已罰的になるという、本性を持っているとおっしゃっていました。それから、もう一つ「人は過密社会に住んでいればいるほど、人間関係が希薄になり、過疎地の人ほど人間関係が濃密になる」ということも、おっしゃっていましたね。豊かさと過密さが一緒になりやすいのも、人間社会の一つの傾向だそうですが、この両方が合わさりますと、私たちは目の前や自分のまわりにいる相手に対して、誰であろうと、その人の持っている長所より、欠点や短所のほうに敏感になる。これも人間の特性なんだそうです。

反対に、貧しい社会、過疎社会に住んでいる人ほど、相手のいい面を感じる感性が、自然に育ってくるというわけです。豊かさ、過密さというのは、しばしば競争原理に支配されますから、相手のすぐれたところを感じることが、自分の劣等感を感じるという不安につながって、相手の短所や欠点を感じて、安心しようとするところもあるのではないでしょうか。

ところが、競争原理が働きすぎない社会とか、過疎社会とか、経済的に貧しい社会の場合には、私たちはあまり競争という生き方をしませんから、自分よりすぐれている友達を持つことができるし、すぐれている人と親しくなることに、おそれを感じないですむというところがあります。日々の生活のなかで、すぐれているものを持っている人に対する安心感があるし、喜びがあるんでしょうね。

私たちが住んでいる日本にも、過疎地はありますけれど、おしなべて過密社会であり、豊かさがありますから、私たちがごくふつうに日々をすごしていますと、相手のいやな点のほうを感じやすくなり、長所のほうを感じにくくなっていると思います。

人間というのは、だれにも長所があり短所があります。長所のない人なんかいないわけです。けれども、人の持っている良い面と悪い面のうち、私たちは悪い面のほう、いやな面のほうを感じやすくなっているのも事実ですね。

したがって、親子や夫婦や兄弟、あるいは、近所の人やその他の人との争いは、以前の貧しかった時代よりも多くなっていだろうと思います。ですから、私たちが子どもと接するときも、その子のいい面を感じるというよりは、欠点や弱点を感じることのほうが、多くなってきたのではないでしようか。それは大変不幸なことですね。このようなことも、みなさんに考えていただきたいと思っております。


■人と距離を置いて孤立している人は、自律できない、個性は生まれない■ トップへ


自己中心の生き方では、人を信じることができません。私は臨床の場でいろいろな子どもに会ってきました。たとえば、援助交際をしている少女に会うと、彼女らは例外なく「誰にも迷惑をかけてない」と、こういう言い方をするんですよ。けれど本来は、子どもたちは親や大人に対して、安心して迷惑をかけながら、生きてこなくてはいけないと思うのです。

乳児期の赤ちゃんをみれば、そこらにおしっこをたれ流しにしたり、泣きたいときに泣いたり、迷惑とはいわないかもしれませんが、全面的にまわりの人に面倒をかけているんですよ。親や大人に面倒をみてもらわなければ、赤ちやんは生きていけないでしょうね。そして、子どもは大きくなるにつれ、だんだん人にかける迷惑が小さくなり、さらに、相手から迷惑をかけられても耐えられるようになっていって、個が確立していくのです。

人間は誰もが、他の人に迷惑をかけて生きているのです。迷惑をかけると同時に、迷惑をかけられることにも、平気にならなくてはいけないのです。ですから、だれにも迷惑をかけていないと思っている人は、もしかしたら、まわりの人にすごい迷惑をかけている人かもしれませんね。

ですから、本当に自律している人というのは、うんと迷惑をかけることができる人をたくさん持っていると思います。そして、相手からも迷惑をかけられることを、受け入れることができる人だと思います。いつも自律とは相互依存だと申し上げていますが、相互依存を通して自律することが、個の確立につながるのです。

私は30年以上、臨床の仕事をしていますし、乳幼児健診も同じぐらいの年数をやってきました。そこで感じることは、極端な言い方をすれぱ、年々、子どもの困難な問題を、親は引き受けにくくなってきたということです。10年、20年、30年前には、親は自分の、不幸で悲しい運命というか、子どもの困難な間題を早く引き受けることができました。

それが現代の人は、だんだん引き受けることができなくなってしまいました。子どもの困難な問題ばかりでなく、親自身の困難な問題も、自分で引き受けることができなくなってきました。それは私たちの生活のなかに、孤独さ、そして孤立した状況がどんどん進んできたからだと思うのです。


■孤独や孤立の裏側は自分勝手、自已中心的、誰も信じられない■ トップへ


孤独や孤立の裏側は自分勝手さでしよう。
人間というのは、孤独になればなるほど人を信じる力が弱くなり、自分勝手で自已中心的になっていくものです。自己中心さが、じつは孤独さの表れだと思います。自己中心的な人には相手が寄ってきませんし、自分のほうも、人と交際する力が弱くなっていると思いますね。

けれども、人間の幸福というのは、人を信じる力がある、あるいは信じられる人を持っていることだと思います。本当はこれなしでは、人間は健全には生きられないのではないでしょうか。だけど、そういう人はそれを、自分を大切にして生きているとか、自分は個性的な生き方をしているとか、思っているのでしょうね。

以前に、NHKのETV特集で拒食症の女の子が、「信じられるのは自分だけだ」ということを言っているのをみましたが、そのなかで、拒食症の子の母親も「信じられるのは自分だけだ」と、口ぐせのように言っているんですね。けれども、自分だけしか信じられないということは、本当は自分のことも信じられないということなんです。ようするに、誰も信じられないということですね。それは究極のところは、自分も信じていないということなんです。

誰も信じられないということは、自分を信じてくれる人がいなかった、自分を愛してくれる人がいなかったということなんです。ですから、そういう人たちは「自分自身が人を愛する力が弱いということをわかりたくないために、自已愛的に生きようとしてしまうのでしょうね。


■自分が今、どう生きるかということのほうに一生懸命な社会■ トップへ


自己愛的な傾向がどんどん強くなれば、自己愛のさまたげになるようなことは、みんな排除しようとします。ですから、まず、家庭から老人が排除されましたね。私たちの子どものころは、家族が老人の面倒をみていました。老人が働きざかりのころは、自分が家族を背負って立って、自分が年老いたら、つぎの世代の人に面倒をみてもらって亡くなっていく、これがふつうでした。ですから、家族は老人をケアするのが、あるいは面倒をみるというのが、こくふつうにできました。

ところが、今は家族機能のなかには、そういう能力はもうなくなっているようにみえます。あるいは、どんどん薄らいでいると思います。やがて、自分の子どもの面倒をみることも、だんだんできなくなるだろうと思うのです。自分で生んだ子どもだから、自分で面倒をみるというのも、自分たちを育ててくれた親だから、自分たちで親の面倒をみるというのも、かつては常識だったのです。けれども、その常識が崩れてきたわけですね。

その代表的なものが、現代人は、とくに日本人は世界一長生きであるのに、子どもを生まないということですね。自分は長生きするけれど、つぎの世代を担う子どもたちのことは思いやらないわけです。だから、日本人全体の心理現象を考えてみれば、これはきわめて利已的であり、自已愛的ですね。子どもを生んで育てることよりは、自分が今、どう生きるかということのほうに一生懸命なんですから。


■親よりも不幸せな子ども■ トップへ


一方では、日本人の今の心理現象のなかには、自分だけは癒されたいという気持ちがあるんですね。他の人をケアするのは面倒なことだけれど、自分はケアされたいと思っているのです。日本は、世界で有数の子どもを生まない少子国になりましたが、ペットの数では世界でも高い水準だと思うのです。

多くの人がイヌを飼う、ネコを飼うということはするわけですから、ケアをするのがいやなわけではないんです。けれども、人間関係のなかでくつろぎや、やすらぎを求めるより、イヌやネコにケアされようとしているんですね。私たちは自分で自分のケアもできないほどに、孤独感を強くしてしまったのでしようか。

そういうことを考えてきますと、若い親たちが何かの契機で、今より子どもをもっと上手に、育てられる時代がくるように思えますか。私にはそう思えないのです。おそらく将来は幼稚園とか保育園とか、そういう職業を選んだ人たちが、日本中の子どもたちを手わけして育児にあたるという時代がくるんじゃないでしようか。そういう時代になってきたことを、みなさんも考えていただきたいと思っています。


■母性的なものが伝わってから、しつけとか教育とか訓練をする■ トップへ


一般的に言いますと、子どもたちのなかに、母性的なものが十分に与えられたあとにしか、父性的なものは働かないということがあります。この順番は決定的なものなんですね。母性的なくつろぎや、やすらぎ、そういうものが子どもたちのなかに、十分伝わっていないのに、父性的なものを、いわゆる、しつけとか教育とか訓練によって育てようとしても、これはなかなか育ちません。あるいは、育ちにくいと思います。

この母性的なものが伝わってから、父性的なものが伝わるということを、みなさんに知っていただくことは非常に大切なことです。ですから、母性的なものが子どものなかにしっかり与えられたあとならば、父性的なものも与えやすい、こういうことになります。


■母性的なものが十分与えられていないと、社会性といった父性的なものが伝わらない■ トップへ


たとえば、こういうことを考えていただくと、わかりやすいと思うのです。社会のなかでルール違反をしている若者たちや、大人がたくさんいますね。現代社会でのルール違反の最たるもの、むしろ、犯罪といってもいいと思いますが、缶ジュースのなかに毒をいれて、おもしろがっているような人がいます。おもしろがっているかどうかわかりませんが、あんなことをしないでいられない人がいるわけです。

これは基本的にいえば、父性的なものが、その人のなかに伝わっていないということです。社会人としてやってはいけないことが自覚できない、それ以上に、犯罪行為をしてしまっている。そういう人は、そんなことがいかに悪いことか、重々承知してやっているわけです。けれども、しないでいられないのです。

そういうことをする人たちに向かって、新聞やテレビやラジオが、「あなたはとんでもないことをやっているんですよ」「あなたがやっていることは、いかに非人間的なことなんか、考えてごらんなさい」と、くり返し言っていますね。だけどその人に、そんなことをいっても伝わりません。

「あっ、そうか、わかった」「とんでもないことをやってしまった、明日からやめよう」なんて思う人は、始めからやらないわけです。そういうことはいくら言っても伝わらないのです。そして、その人が捕まってから生い立ちをみると、おそらく、その人のなかには母性的なものが欠落していると思いますね。子どものときに母性的なものが、ちゃんと与えられないまま、大人になってしまったのです。くつろぎや、やすらぎが十分に与えられるような家庭で、育ってこなかったのだと思いますね。ですから、母性的なものが十分機能していない人格のなかには、父性的なものが入りこむ余地がないわけです。


■大人が注意をできないのは、仕返しを受けるかもしれないから■ トップへ


さらにこういう事件が、この何年かの間にありました。いつでしたか、横須賀で毎日新聞の記者が深夜の帰宅途中に、駅前で暴走族が信号を無視して走っていくのをみて、それを大声でとがめた。そうしたら彼らはUターンしてきて、その記者を殴り殺してしまったという事件がありました。

同じようなことで、所沢で、ある不動産会杜の社長さんが、深夜に何人もの人と列をつくってタクシーを待っていた。そこへ若者のグループで割りこんできたので、それをとがめたら、若者たちがみんなで、その不動産会杜の社長さんを殴る、蹴るをして殺してしまったという事件もありました。まだ、こ記憶があることでしよう。

そういうときに「そんなことをしてはいけない」と注意する。これは父性的なしつけであり、教育です。だけど、彼らは母性的なものが十分与えられていないまま、育ってしまったわけです。私たちが、彼らはもう20歳近くになっているのだから、これぐらいのことはわかるはずと思ってて注意しても、母性的なものが十分与えられていない若者たちに、父性的なもので注意してもだめなのです。

こういう事件があると、小さいときから厳しくしつけてこなかった、現代のおとなが無責任だとか、昔はおとなたちが近所の子どもや若者たちに、注意をすることができていたから、昔のおとなは責任感があったなどと、こんなことがよく言われますね。けれども、私はそうは思いません。


■幼児期の育て方に無責任になった社会■ トップへ


彼らを注意をして事態がよくなるならば、誰でも注意をすると思います。彼らに社会的なルール違反を指摘することによって、事態が好転するようであれば、大人たちは見逃したりしないで注意するでしょう。そうではないのです。逆に、事態は悪くなるわけです。彼らにもっと大きな事件を、起こさせてしまうことがあるわけです。若者たちが注意した相手を傷つけてしまう。ひどい場合には、殺してしまうことだってあるのです。

注意する人自身にとっても、どんな酷い、仕返しを受けるかもしれないということは明らかなわけです。だから注意をしないのです。母性的なものが不十分なままに、大きくなってしまった少年や青年たちの、間違った行為を見逃しているおとなを、無責任だとは思えないのです。

無責任になったというならぱ、注意をするとか、しないとかいうことよりも、子どもに対して、私たちは幼児期の育て方に無責任になった、こういうふうに言ったほうがいいかもしれません。ちゃんと社会のルールを守れる人格をつくるために必要な、乳幼児期の育児に関して無責任になった、こういうふうに言うなら、私はいいと思いますね。子どもたちが小さいころから、十分に母性的なものを与えられてこなかった結果が、今、少年や若者たちが起こす事件の多さという形で、表れているのではないでしょうか。


■子どもの弱点や欠点は、あまり指摘しなくてもいい■ トップへ


今までお話してきましたように、子どものなかに母性的なものが十分に機能してからでないと、父性的なものは機能しないのです。三歳児神話とか三つ子の魂とか、非常に象徴的な比喩でいうのですが、その年齢ぐらいから、だんだん父性的な機能が、子どものなかに伝わっていくわけですから、その前から子どものなかに、十分に母性的なものが与えられていることが、大切なことだと思うのです。

ところが私たちは、子どもをしつけたり、教育したりするときに、しばしば、父性的なものから入ろうします。子どもたちの弱点、欠点を指摘して、直してあげようと思ってしまいます。また、ルール違反する子どもたちに対しても、「そんなことをしちゃいけないでしょう」と、父性的なものを伝えようとしますね。けれども、それは子どもには通じないのです。通じにくいということも、みなさん承知していることと思います。だけど、言わずにいられないからいってしまうのです。

私は子どもの弱点や欠点は、あまり指摘しなくてもいいと思っています。ときにはしないほうがいいとさえ思えます。なぜなら、これは本当をいいますと、どうせ直らないものなんですよ。それは自分自身でもよくわかるんです。私は自分の欠点や弱点なんて、何度言われたって直らなかったですからね。

何度言ってもわからない、あるいは、言わなくてもわかるようなことが、どうしてこの子にはわからないんだと思ったときに、必要なことは、口で注意することではないのです。保護的な役割をする親や保育者などが、まず母性的なものを、その子どもに与えていくことです。どんなことがあっても、母性的なものからしかスタートしないということが、まず大原則としてあります。そして、子どものなかに母性的なものが十分働けば、父性的なものも、自然と入っていくのはたしかなことなんです。


■長所を気づかせてあげないと、宝の持ちぐされで終わってしまう■ トップへ


ですから、育児をするうえでもっとも大切なことは、子どもの長所を十分に感じ取ってあげて、そのいいところを「あなたには、こういう素敵なところがある」と、本人に伝えてあげることです。それは母性的な機能ができることだと思うのです。せっかくある長所は、子どもに気づかせてあげるほうがいいんですよ。

長所は長所として、その子のなかに絶対あるものですし、長所は消えないものです。だけど、気づかせてあげないと、宝の持ちぐされで終わってしまうことがあるのです。ですから、私たちが心がけることは、子どもの場合には、長所ばかりみつけてあげることですね。これは過保護とか甘やかしとか、そんなものじゃ全然ありませんから。

くり返しになりますが、こういうことを十分しないうちは、子どもの欠点や弱点を指摘しても通じないということですね。母性的機能のうえの父性的機能なんです。その二つの機能が働かなければならないときには、絶対的に順序があって、母性的な機能が十分に子どものうえに働いていないうちは、父性的な機能は絶対働かないんです。

この順序を間違えると、育児や教育はまったくできないと思いますね。子どもが何歳になったから、こういうことは教えなくてならない、ということではないのです。豊かな母性的な機能が働いていない人に、何歳になったからといって教えても、子どもには伝わらないと思います。

そうやって、子どもが自分が受け入れられている、愛されていると感じることは、子どもの自信になるんです。そして、子どもは自信をしっかり持つことができれぱ、自律した行動をとっていけるのです。規則が守れるようになるのです。それから、今度は社会のルールを押しつけられても、守れるようになっていくわけです。


■「えこひいき」されて、力強くなっていく■ トップへ


以前、私の大変親しい、神奈川県のある養護施設の主任職員の先生に、養護施設からみた母親とか、母性の問題についてお聞きしたことがあります。その先生はどういうことをおっしゃっているかというと、養護施設のなかにも、いろいろな難しい問題を起こす子どもがいますし、もちろん、いじめも非常に多いそうです。

そういう難しい問題に対応するときに、その先生は「甘えと、えこひいきを、子どもたち一人ひとりに、とくに難しい子どもには、それを実感させてあげなかったら、難しい問題は直らない。逆にそうしてあげると、難しい問題は非常に早く直る」と、こうおっしゃっているんですね。ルールが守れるようになる、いじめっ子が、いじめっ子でなくなるそうです。

「えこひいき」っておもしろい言葉ですね。いい言葉だと思います。本来、母性というのは「えこひいき」をすることではないでしょうか。その子どものなかの、いいところだけを感じてあげることなんです。人間というのは、「えこひいき」されてきて、力強くなっていく面もあるんですよ。

恋人同士がお互いを「えこひいき」し合う、夫婦がうまくいっているときは、お互いが「えこひいき」をし合っているわけです。人というのは、いつも誰かに「えこひいき」されているというのが、健全でいられる一番の秘訣ですね。

私たちはもしかしたら、そのために結婚して夫婦になるとか、親友を持つとか、あるいは、恋愛をするということだろうと思います。家庭へくつろぎに帰るというのは、そこが自分を「えこひいき」してくれる場だ、あるいは、甘えられる場だと、こういうふうに言い直してもいいと思うのです。

けれども、子どもがみんながそろっている場では「えこひいき」はできませんね。たまたまその子と二人きりになる瞬間に、お目当ての子どもに、どう「えこひいき」感を与えるか、どんなひと言を、どんなスキンシップを、どんな態度をということだと思うのです。母親というのは、子どもが三人いても五人いても、みんな「えこひいき」しているのです、もちろん父親だってそうかもしれません。そのことがとても大切なことなんです。