中国旅行記 毛利・長州の解説



■毛利氏■
毛利初代は天穂日命であると云う。その後は学問の家・大江広光につながり、孝光の代に相模国毛利荘(厚木市)を領したことから毛利を名のる。南北朝の乱のおり吉田に移る。佐藤銀山城・乙斐城・草津城・桜尾城と奪った後で、すでに実質上厳島を支配化においていた。元就の夢を引き継いだ輝元は、大田川のデルタ地帯を埋めて広島と名付け、郡山から移った。中国地方は昔から鉄の産地であり、山を崩して土砂を川で洗い流して採掘していた。その流れ出た堆積物が広島のデルタ地帯を形成していった。

■吉川氏■
吉川氏は、藤原氏の分れで1183年頃駿河の入江庄にいた入江影義の嫡男経義が、駿河の吉川邑(清水市)に居住して吉川と称したのに始まる。2代友兼が1200年に梶原を討って播磨の福井庄の地頭となり、4代経光が承久の乱(1221年)に功を立て、安芸の大朝庄の地頭となる。5代経高の時1313年に安芸の大朝に移住。関が原後の1601年に17代広家が岩国に入封以来、明治廃藩まで岩国の藩主となる。

■尼子氏■
尼子は、大江の源氏の佐々木氏の流れ。月山富田城の所在地は、現在の島根県広瀬町。

■大内氏■
大内氏は、古代朝鮮の百済国王・琳聖太子が祖と云う。平安末期から徐々に勢力を広げる。源平合戦では源氏に見方し功があった。南北朝時代に山口を本拠とした。

1358年に24代大内弘世が防長統一。1360年に居館を山口に移し、京都に模した街づくりをした。山口は中世の文化の枠を集め「西の京」といわれた街である。1379年に25代義弘が初めて朝鮮に使者を遣わし、大陸文化に門戸を開き、貿易で莫大な富と権力を蓄えた。507年に30代義興は将軍足利義稙を補佐して、11年間幕府を左右する西国一の大大名となる。大仁の乱のとき、京から多くの公卿文人が山口に逃れてきたことで、大内文化はますます栄えた。31代義隆の頃には防・長・芸・備・石・豊・筑の7ヶ国の守護大名として栄華を極めるが、陶晴賢の謀反により襲われた義隆は、館が燃えるのを見ながら龍の法泉寺の裏山に逃げ、1551年長門大寧寺にて自刃。大内氏の正統は絶えた。

その後毛利元就が陶晴賢を討ち、大内氏に代わる大大名となるが、輝元のときの関が原の戦いで破れ、8ヶ国121万石を没収され周防・長門の36万石となり、萩に封じ込められた。嘉永6年(1853)のペリー来航以来、新しい時代の創建に向け日本が激動する中、長州において吉田松陰をはじめ、その門下生達が維新の武士として活動し始める。文久3年(1863)毛利敬親は幕命を無視して萩から山口に藩庁を移す。このことによって周防・長門の中心となり現在に至る。

大内義隆の後半生は武事をかえりみず、戦国争乱の世相をよそに京都貴族の風尚を尊び、学問・芸能を事とし、山口の地のみ一時平和を保ち、文化人的生活にふけるようになった。常に人の善意を信じ、側近陶の謀反を引き起こすに至る。

■瑠璃光寺五重塔■
足利幕府と戦い(応永の乱)泉州堺に倒れた大内義弘を弔うために1442年に建てられた。全国で10番目に古い。奈良の法隆寺と京都の醍醐寺と瑠璃光寺の塔とで、美術的に見た美しさから日本三名塔と云われる。ここにはもともと大内義弘の菩提寺・香積寺があったが、毛利が領していたので、この地にあった香積寺を関が原後萩に移し洞春寺とした。五重塔は町民が奉公所に請願書を提出し了承したので残り、元禄3年(1690)に新たに瑠璃光寺が香積寺跡地に移り、3代陶弘房(大仁の乱で戦死)の菩提寺となった。毛利隆元が人質として4年間暮らしてたのは、塔の後ろにあった大蔵院である。

■洞春寺■
大内氏に代わってこの地を治めた毛利元就の菩提寺である。元就の生前に敵味方なく戦死者の供養をした法華経千部会は今でも行われている。
洞春寺と瑠璃光寺のあいだにある香山公園には、薩長両藩に溝ができたとき、王政復古の大儀をはたすために、坂本竜馬が仲介をとり密議をこらした町屋の離れ・枕流亭と、明治天皇が毛利敬親の偉勲を永久に顕彰するために建てた勅選銅碑がある。

■大内館跡龍福寺■
大内弘世が山口に移ってきて以来の居館で、京都文化にあこがれていたので、この地に京都の御所、あるいは室町幕府の建物のような御殿を造り、ここで政務ととっていた。大内義隆滅亡後、毛利隆元が義隆を弔うために、大内館跡に龍福寺を再建立した。

■築山館跡■
28代大内教弘の時代(1490年頃)にますます富を増し、別邸を築く。


■厳島神社■
周辺の住民が島の山容に畏敬したのが始まり。社殿は593年に創建されたと云われ、1168年に平清盛が現在の規模にした。

■厳島合戦■
1554年、厳島合戦の前哨戦ともいえる現在の甘口市での「折敷畑の戦い」に敗れた陶は、宮島での決着を決め、2万の大軍を率いて、岩国から宮島の大元浦から上陸し、多宝塔付近から五重塔の岡付近へ本陣移し、宮尾城を攻めた。毛利元就も陶春賢を討つために厳島に戦場を求め、1555年に宮尾城を築き拠点として島の民衆を見方にし、陶軍が広島港に進出しないように軍備を整えた。元就の本隊と合流するまでは300人程で持ちこたえた。宮尾城と五重塔の岡とは、すぐそこの目と花の先にあり、よく見渡せた。元就の奇襲を受けた春賢は再び大元浦にもどる。本拠地の山口で再起を図ろうと島から脱出を試みるが船がなく、さらに西へ逃げ、逃げ場をなくして山中で自刃する。


■毛利・長州の歴史>
1547年 14代興経は武勇の人であったが元就に憎まれ若くして隠居。
      元春を養子にする。
1550年 隆景は高山城の対岸に新高山城を築城。
1567年 三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで三原城を築城。
1585年 16代元長は秀吉の命令で隆景と共に四国へ出征。
1586年 秀吉の命令で元春・元長は九州へ出陣。
      小倉の陣中で元長病死。
1588年 秀吉の案内で大阪城に登り、城下町の繁栄を見て
      新城の建設の必要性を痛感したのではないだろうか。
      広島の城作りは元就の夢でもあった。
1591年 輝元は郡山城から広島城(1589年起工)に移る。
1592年 広家、秀吉の命令で渡鮮。
1593年 高陽の碧蹄館で隆景を援助し、明軍を破る。
1596年頃 三原城は居様を整え、海に向かって舟入を開き、
       城郭兼軍港としての機能をそなえる。
       かなり広い天守台を持つが、
       この頃はまだ平城への移行期で天守閣を持たない。
       天守閣は安土城が最初。(安土城では天主閣と書く)
1597年 広家、再び渡鮮。
1598年 加藤清正を救護し明軍を破る。
1600年 毛利氏は広島から萩に。
      広家は岩国3万石を受領。
1863年 薩摩他の公武合体派による
      攘夷派排除のクーデターにより失脚。
      萩から山口に。
1864年 勢力奪回の為に禁門の変を起こすが敗れ、長州成伐に。
      益田、福原、国司の三家老自刃。
      四国連合艦隊が下関に来襲。
      萩から山口に藩庁を移転。
1865年 武備恭順。
1866年 薩摩と軍事同盟。第二次長州成伐。

第1次長州成敗後、藩論が分裂。高杉晋作を中心とする討幕派が藩の正規軍に勝ち軍備の強化を進めた。武備恭順で藩論はまとまったが、幕府は10万石の削減と藩主の隠居を決定。しかしこれを拒否し、幕府と対立を深める。

文久3年に長州藩が攘夷を決行し、その翌年下関砲撃事件を起こす。関門海峡を通過する外国船を砲撃したが、これによって攘夷は不可能であることが分かった。

■おまけ■
萩城下の崩れつつある石垣が竹富の石垣のようだった。
萩には萩にしかない緑の桜がある。
そしてまたしても海は緑。
萩の街の脇にある笠山は112mの日本一小さな火山。
防府の旧山陽道沿いに毛利邸、国分寺、天満宮他がある。
萩から山口を通って防府に抜ける道。軍港である、防府の三田尻まで続いてる。
萩往還は長州の参勤交代の道でした。
萩は輝元がここに移ったときは葦のはえるデルタ地帯だった。
候補は山口・防府とあり、この場所に決めたのは2重3重に造って2度と攻められないようにという毛利側の思惑、遠くに押しやりたい徳川の思惑で一致した。この時30万強だった石高が100万石までになり、維新の足がかりとなる。毛利全盛時は120万石。豊臣時は112万石。

引用資料 萩城
       広島城
       吉川史料館
       山口県博物館
       毛利博物館
       瑠璃光寺
       洞春寺
       大内館跡龍福寺
       宮島
       厳島神社


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