中国旅行記 村上水軍の解説



■水軍とは■
瀬戸内海や九州等に沿岸に陸地に耕地をほとんど持ってない海上生活者がいた。貧しく、生きるために船を襲い、漂着物をうばい合った。それがやがて組織化され、奈良時代から戦国時代には海外からの襲撃に対して活躍した。元寇でも活躍する。松浦党も劣らず奮闘する。陸上に拠点地をもちながら家族ぐるみで荒海の上に生活を築き、漁業を続けている人達は家船という船に乗って、西は五島列島、東は伊勢まで、村上一族は中国・東南アジアまで出漁していた。古代末期、因島を含む中部瀬戸内海は水軍力をもつ伊予の河野氏や安芸の沼田氏が勢力をふるっていた。室町時代になると伊予から北上した村上一族が因島を拠点として付近の海上権を手中におさめた。村上水軍以外に日本各地に相模伊豆水軍、伊勢水軍、九鬼水軍、熊野水軍、塩飽水軍、河野水軍、松浦党がある。

九鬼水軍は紀州・熊野8庄司のひとつ。戦国の頃、伊勢の北畠に所属していたが後に織田信長、秀吉に仕えた。1590年の小田原征伐や文禄の役には朝鮮にも出兵。関が原では親は西軍に、子供は東軍に参加する。

九州松浦党は平安時代の中頃から呼ばれる刀伊の賊や文永・弘安の役での敵駆逐の最先端地域であった。松浦は佐賀の上松浦と長崎の下松浦に分かれる。朝鮮の史料では和寇の根拠地にされてるが、清原・渋川・小早川等は松浦党により唐津を利用して朝鮮貿易を行っていた。


■村上水軍のごくごく簡単な歴史■
1430年 西国寺家の南方貿易に荷担
1547年 大内義隆、勘合船を明に派遣、村上も参加
1555年 厳島合戦
1567年 隆景、本郷新高山城から三原城へ

秀吉の四国征伐後に1585年、竹原の鎮海山城に移る。関が原後は防長に移った。


■派生の歴史■
9世紀から10世紀にかけて海が6〜7m上昇する。これが土地を失った緑海島嶼の大衆をひきいた平将門・藤原純友の乱につながる。

源平合戦では、瀬戸内海を手中に収める平氏の地盤である水軍を背景にし、戦いを有利に展開する平氏軍の前に、源氏方は苦戦を余儀なくされた。備前・備後・譛岐・安芸の水軍勢を見方にする平氏に対し、伊予・紀伊水軍を率いる源氏。壇ノ浦の戦いでは九州・瀬戸内海・紀伊の三大水軍の戦いであった。瀬戸内は源氏にひるがえって源氏が勝つ。


■水軍による革命■
火縄銃の伝来からすぐ生口島の垂水で製造し、天文16年の勘合貿易で中国に輸出するまでになっており、船上ですでに大砲が使えた。1462年から毎年のように朝鮮貿易を行うようになる。水軍の革命は一品流水学である。防衛具は鎖帷子と能島鎖、浮沓である槍の長槍、短槍、やがらもがらである。熊手(やがらもがら)とは、引っ掛けて船から落としたり引き上げて首を討ち取ったりするイボイボの槍。竹島城主村上四郎直吉は寒中泳法や蛙からかえる泳ぎを、これから立ち泳ぎを考案する。

16世紀後半の水軍船隊の主力艦である大阿武船は、日本で最初の本格的大型構造船であり、日本の大型専用軍船の第1号である。織田信長のころから敵の火箭、炮烙による火災を防ぐため船体も楯板も櫓も鉄板や銅板でおおうわれるようになる。


■おまけ■
日露戦争の時、東郷率いる日本海海戦で勝利を得た戦法は村上水軍の一品流水学から生まれた。

引用資料 因島水軍城


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