中国旅行記 竹原・尾道の考察



    竹原は江戸時代後期の町並み町並みのほぼほとんどが残っている。
    塩田をつぶす形で新たな市街地を形成していったために
    古い町並がそのまま残った。
    塩田は赤穂の塩田に次いで慶安3年(1650)代官鈴木重仍によって
    芸備両国で最初の入浜塩田として開発された。
    この塩田によって経済的に発展したことで竹原の町並みは築かれた。
    竹原の塩は糸魚川・直江津・柏崎・新潟・庄内・酒田・能代・津軽
    等に送られた。
    町の中心となる本通りは寺山に沿ってゆるやかに曲がってる。
    通りの北端は恵美須社、南端は町家に突き当たって直角に曲がり、
    全体の見通しを妨げている。
    このように主要街路の見通しを避けるのは、
    近世初期の町づくりに、用いられた方法である。
    これは尾道のタイル小路下にも見られる。

    竹やぶは所有者が変わり、
    海が見えるようにするために、ほとんどの竹やぶを切ってしまっていた。
    このあたりはもともと、畳の景気がよかった頃の別荘地であった。
    今では若い者は多く転出し、老人ばかりの町となってしまった。
    その本人は病院に長いこといることもあり、
    家屋敷のみ荒れ果てて放置されることもしばしばである。
    その典型が「時をかける少女」深町邸役の森谷邸である。

    尾道の「いわべえ」より竹原の「ほりかわ」のほうがおいしかった。
    映画にも出てくる「プランタン」で、「プランタン」と「オレンジムース」を買った。
    「プランタン」のほうがおいしかった。

    尾道の街は、セリフ通りに
    こんなところに出てくるのか〜、と同じ心境になる。

    長崎の街のほうのが、車で山肌の住宅地に上がれる。
    尾道はもっぱらバイクが主手段のようだ。

    このあたりの海は湖程度にしか見れない。
    または、陸地の合間に海が入り込んでるかのように思える。
    そもそも湖程度の波しかない。
    でも海はきれい。向島での海は沖縄のようだった。

    引用資料 竹原観光パンフ



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