中国旅行記 近代戦争の解説



■戦艦大和■
戦艦大和を極秘に製造していた旧呉海軍工厰跡地は現在、石川島播磨重工業になっていた。

戦艦大和は昭和9年10月に設計され、12年11月に起工し16年に完成。防衛は魚形水雷に限り、飛行機は偵察に限られてたので航空防衛を重視しなかった。それゆえに410m厚の舷側防衛を有する船体構造となった。

1940年頃までの海戦は、敵弾が届かない遠距離からの先制攻撃で、勝利を決しようとする大艦巨砲時代であった。大和の主砲は着弾距離42000m(呉から岩国まで)届くものであった。この大戦艦であっても27.5ノットも出る高速船であった。

しかしすでにマレー沖海戦で、飛行機魚雷が容易に大戦艦を撃沈できることを皮肉にも自ら実証している。

沖縄戦には片道分の燃料のみで航空戦力を伴わないで特攻艦隊旗艦として出撃した。


■大久野島の歴史■
日清戦争の頃、10数門の砲台が築かれ、瀬戸内海を守る重要な要塞施設となる(安芸要塞)。実際に使用されることはなかった。大久野島1884年に郡役所が置かれ、芸予重砲兵大隊司令部が置かれ、政治・軍事ともに栄えてた。その後軍政は廃止し、重砲兵大隊は電信聯隊に替わりさらに転出し、島は活気を失う。不況対策として国に工場誘致を求めた。1927年に忠海町に東京第二陸軍造兵厰火工厰忠海派出所を設置したことが毒ガス工場の始まりである。東京の旧陸軍科学研究所で研究開発され、大量製造を大久野島で、充填を北九州の曽根で、科学戦の運用・訓練を旧陸軍習志野学校が行っていた。大久野島で昭和4年から新しい毒ガスが製造されると、それに合わせた防毒マスクも開発されていった。ここで使われた防毒マスクは改良され、敗戦まじかの本土決戦を想定して一般に販売された。


■広島の歴史■
1871年、鎮西鎮台の第一分営が広島城内におかれ、のちに広島鎮台となる。1888年には全国6師団のうちの第5師団となる。日清・義和団事件・日露・青島出兵・シベリア出兵・日中戦争と出動する。日清戦争が始まると明治天皇と大本営が広島に移り、1894年9月15日から1895年4月27日の間、臨時首都の様子を帯びる。現在の広島西空港は工場を誘致するための埋立地であったが、1943年に軍に転用される。本土決戦にそなえ、本土を鈴鹿山系で東西に分け、広島に第2総軍司令部がおかれた。

原爆の投下地は、明治大正期からの繁華街の中心にあるT字橋である相生橋が目標とされた。原爆投下は、7月に広島・小倉・新潟・長崎の4都市に投下命令が下され、8月に新潟が除外となった。広島が原爆投下の最有力地となったのは、都市の大きさや地形を考慮するのはもちろんであり、
なによりも西日本の軍事拠点であったことにある。

引用資料 呉市入船山記念館
       歴史の見える丘公園
       毒ガス資料館
       広島平和記念資料館


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