九州旅行記 薩摩の考察



とんこつを代表に、九州のブタ食文化は琉球から来たようです。その琉球では中国から来ました。農耕用としては馬と共に早くから、古墳時代とか2000年前からとか、あちこちでバラバラに書いてありました。

そもそも薩摩が琉球を攻めたのは、戦国の頃九州を統一した薩摩だが、秀吉に負け、財政難から琉球を支配下におき、貿易に活路を求めたためです。だから、オランダ貿易も廃止したときも薩摩は琉球を通して貿易を行い続けていました。

ぺリ―がやって来ることも、その理由も知ってたし、沖縄、上海・香港を拠点にして江戸と行き来してることも幕府に情報を伝えていたけど、極秘情報として何も対策をしなかった。海外の実情をつかんでいただけに、薩摩はいち早く近代化を目指していました。そうでなくても西洋文化にかなり触れてました。

医学はキリスト宣教師に伴ってやってくる者から日本で初めて西洋医学に触れてるし、貿易でやって来る医師を先生にして学校を作ってるし(現長崎大学医学部)、その後だいぶ遅れて伝染病の予防を研究するグループができてそれが現在の東京大学になってたりする。

兵器についても、高島秋帆とその父が研究・製造していて、ケベール銃を最初に輸入したり、幕府からも役職を任命されてて、将軍の御狩場だった今の東京豊島区の高島平で大規模な演習を行ったことからその地名が残ったほどです。薩摩としても近代兵器を製造し始めたからこそ薩英戦争を起こしてみたわけだし、戦争してみて太刀打ちできない相手だと分かって、その後イギリスに急接近していきました。

大久保利通が日本郵船の設立に関わってるとは知らなかった。小樽で日本郵船の建物を見てきたのはロケ地だったからのもあるし、石造建築であったのもあるし。今も横浜にある立派なパルテノン風の外見の古い建物を使ってます。日本郵船は日本最大の船会社だったんです。太平洋戦争前の豪華客船といったら日本郵船です。樺太のロシアと日本の境界線を決めた会議もこの日本郵船の小樽支店で行ったくらいです。函館・小樽は北海道開拓のための足がかりとなったところで、だから小樽には明治の古い町並みが残っています。

江東区に訳の分からん古い工場地みたいのがあります。あれが富岡製糸工場か? とピンときました(その後、群馬県所在だと判明)。この設立にも薩摩の人が関わってました。逓信博物館で見た、郵便の父といわれる前島密も薩摩の人。警察の父も薩摩の人。北海道開拓庁の初代長官も薩摩の人だし、その人はサッポロビールの設立に関わってます。北海道と薩摩とはだいぶつながりがありそうです。

西南戦争の起こりも分かりました。西郷隆盛の足取りも分かりました。朝鮮の扱いに対して意見が合わず新政府の役職を辞退し鹿児島に戻ったが、畏敬を示す後輩達の後押しで学校を作り、その後の新政府への不満の高まりと共に西郷への世直しの期待が全国に広がり、その生徒達が政府の挑発にのってキレて起こしたのが西南戦争。戊辰戦争に負けた者たちが西郷側にかなり加わってて、恨みを晴らすように戦ったというのがおもしろい話しだった。

引用資料 平戸城
       出島資料館
       長崎市立博物館
       鹿児島県立博物館
       維新ふるさと館
       西郷南洲顕彰館


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