九州旅行記 近代戦争の考察



佐世保での海上自衛隊の資料館で、太平洋戦争までの歴史をおさらいしました。真珠湾攻撃は成功だけど、アメリカはたいした痛手は負ってないし(物量が違う)、ミッドウェイ海戦まではなんとか5分5分に持ち越したもののそれ以降はすべて負け戦、トラック諸島のとき早くも原爆を使おうかと考え始められてたし(これは長崎で知りました)、やっぱり沖縄戦での戦艦大和を送り出したときが海軍の最後だったし。・・・、戦後の歴史は私にはどうでもいいです。装備には興味ありますけど。

日清・日露戦争の舞台は朝鮮半島周辺のため、佐世保・呉の海軍が拠点です。この戦争は近代兵器に変わった世界で初の戦争だったため、世界中が注目した戦争であったし、ロシアのバルチック艦隊を打ちのめしたのも小回りが効いて早い小型船の活躍で、艦隊のあり方がこの戦争を期に変わりました。でも、太平洋戦争末期にはさらに変わっていて、日本はその流れに取り残されてました。主力は海軍でなく、空軍に移行してました。たしかに大和は海軍の最高傑作ではあったが、最終的には戦争の流れとしては失敗してるんです。零戦も最初は世界の最高水準だったけどすぐに負い越されました。

空軍はもともと海軍の付属だったのね。今じゃ完全に独立してるけど。

清国からは賠償金も領土も得ることが出来たが、ロシアからは拒否され、日本も諸状からそれを放棄し、財政難から朝鮮・満州へと手を伸ばし始めるものも、第1次世界大戦に加わったことが日本の財政難をさらに強くしてしまった。この頃から最近話題になった高橋是正がその策(借り入れ)のため世界を走りまわり始めるわけだ。是正の働きでかなり日本経済は助かったというのに15年ほど後に2.26で殺されるんだもんな。

経済で得た、世界中の富の多くを第1次世界大戦につぎ込んでしまったため、大国の植民地政策が強くなり、日本もそれに従った、と私は憶えていたが、資料館には(植民地政策が)日本は世界と違う方向に歩み出していったと書かれてあったのは何だろう。

長崎は原爆の第4目標でした。選考にはいろいろ変更があったんだけど、広島・小倉・新潟・長崎の順でした。小倉が曇りだったので長崎に変更して、長崎も曇りだったんで中止しかけてたところ、たまたま雲が切れたので落下目標地とずれてるけど投下したとか。もともとの目標地は常盤橋上空ということで、ここは街の中心地。でもうまいことに、実際の落下地は2つある兵器工場のほぼ中間地点。

原爆投下地の選考基準がよく分からない。7月に完成してたった1ヶ月で実戦配備。原爆を使わなくても、年内で日本は消耗しきるとみてたようだし、(でも沖縄戦を見ると、消耗ではなく心中としか思えない)、早く戦争を終わらす理由としてアメリカ側の人とお金の問題、ロシアの参戦、日本のメンツを維持させるための外交手段、といくつかあるけど、難しいね。

日本の3大海軍拠点が新潟・呉・佐世保です。長崎には三菱造船所があります。小倉の隣に八幡があり、製鉄所の要です。広島は? 兵器工場はどこにでもあるでしょう。今度広島も呉も行くので調べましょう。

広島でも思ったように、同じくふとこの川にわんさかと人が流れ、溜まってたんだなと思ってしまった。昭和27年の写真があって、そこは至って他と変わらない普通の街なみがありました。

芝公園はもと陸軍の敷地。用途は何だったか忘れた。その西の築地市場あたりは海軍の敷地であったことを今まで注目してなかった。佃島の北半分と深川の南海岸あたりは、石川重工(造船所)の敷地だったところ。造船所の目の前にある海軍敷地は何をしてたのだろうか? 今後どこかで調べよう。

引用資料 海上自衛隊佐世保資料館
       長崎原爆資料館


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