川越と江戸



    ■川越城■
    川越城は扇谷上杉持朝が古河公方足利成氏に対抗するために
    長禄元年(1457)に江戸城を築いた家臣の大田道真と子・道灌に命じて築城。

    天分6年(1537)後北条氏の占領するところとなったが
    天分15年(1546)川越城の奪還を図った上杉氏は後北条氏の奇襲にあい、
    大敗して上野に逃れ、それ以降後北条氏の支配が決定的となった。
    川越城を手中に収めた後北条氏は、周辺の旧上杉氏所領を直轄領に組込むと共に、
    城代として譜代の重臣大道寺氏を配置した。
    天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家に攻められ落城。
    やがて同年8月徳川家康が一家家臣を従えて関東に移るにおよび、
    重臣を重要な地に配して領国の安定を図った。
    川越には酒井重忠が1万石をもって封じられ、ここに川越藩の基礎が成立した。

    ■江戸と川越■
    東京麹町の日枝神社は喜多院境内にあった日枝神社を分祀し、
    同平河天神は郭町の三芳野天神(「ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ」のうたの出所)がもとであり、
    産業にあたっては食料、木材などを多量に川越城管下から新河岸川の舟運と
    川越街道を利用して江戸に運び、その台所をまかなった。

    ■川越大師喜多院■
    寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇すべて焼失。
    そこで3代将軍家光は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にとりかかり、
    江戸城紅葉山の別殿を移築して、客殿、書院等にあてた。
    家光誕生の間、春日局の間があるのはそのためである。

    引用資料 川越城本丸御殿パンフ
           喜多院パンフ



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