めぐった古墳の解説



■景行天皇皇子日本武尊能褒野御墓■
天皇陵と扱いが一緒で、立ち入り禁止になっています。
1つ違うのは、古墳脇に能褒野神社という神社があります。
円墳も5つ6つあるのではないかと思ったら、やはりそうでした。

日本書紀・古事記によれば、景行天皇第2王子小准命(日本武尊)は、
東征の帰路に「能褒野」で亡くなり、その地に墓が営まれたとされる。
明治12年11月10日に内務省はこの地を以って日本武尊の墓として治定し、
周囲に土柵、鳥居、石階などを設けて守部を置いた。

この古墳は、4世紀末の築造と考えられ、
日本武尊の英雄伝説にまつわる北伊勢地域に存在する幾多の古墳郡中最大のもので、
主墳を中心に大小16の陪塚があり、いわゆる能褒野古墳郡の中核をなしていて御陵に値する墓である。
全長90m、前方部経44m、高さ6.1m、後円部56m、高さ9.1mに及ぶ
空掘りをめぐらした前方後円墳で、安楽川のほとりに位置する。


■石舞台古墳■
この古墳は横穴式石室を持った方型墳で、7世紀の始め頃に築造されたと推定される。
6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓だと考えている。

本来は上円下方墳であったが、
室町時代に上部の土をすべて取り除き、堀を埋めてこのまわりを水田にしていた。
昭和8年、10年の発掘調査で玄室の長さ約7.6m、幅約3.5m、高さ約4.7mで
大小30数個のこの近くで採れる花崗岩が使用されており、
天井に使われている石の重さは北側が約64t、南側が約77t、総重量は約2300tという
大規模な古墳であることが分かった。


■高松塚古墳■
高松塚古墳は飛鳥地方の西南部に位置し、この―帯は桧隈(ひのくま)と呼ばれている。
渡来人がとくに居住したといわれ、
周辺には天武・持続、欽明、文武の各皇陵や中尾山古墳、岩屋山古墳などが築かれている。
江戸時代のころ、高松塚は文武天皇陵ではないかと伝承されていた記録も多くみられる。
地元の人が墳丘の南斜面で作物貯蔵用の穴を掘ったところ、
凝灰岩の切石を発見、これがきっかけとなって昭和47年3月から調査が行なわれ壁画発見となったである。
その後壁画は国宝に指定され、保存上いっさい公開されてないため、
古墳の隣接地に壁画館を建設し、
石榔内部の模型と壁画の忠実な模写・模造を展示することになった。
古代史解明の貴重な文化財として海外からも広く注目を浴びている壁画である。

石榔内の様子
四神は中国の思相に基くもので古来天子の象徴として用いられ、
四方を鎮護し東西南北の方位を表わす。
青龍(東)朱雀(南)白虎(西)玄武(北・亀と蛇)は、星座の形から具象化されたものである。
青龍・白虎の上部にそれぞれ日像・用像が描かれており、
天井の星宿とともに被葬者の尊貴性を物語っていると思われる。
男子4人、女子4人各1組の群像が、東西両壁に2組ずつ(計16人)描かれている。
男子群像のいずれもが蓋(きぬがさ)、柳箇(やなぎばこ)、床凡(しょうぎ)、鉾(ほこ)
のようなものを持っているのに対し、
女子群像は2人ずつが東壁では団扇(だんせん)、仏子(ほっす)を、
西壁ではさしば、如意(にょい)を持っているのが特色である。
どの像もすぐれた筆致で実に細かく描かれ、わが国美術、絵画史上すぐれた作品と評価されている。


■キトラ古墳■
まったくの立ち入り禁止です。
キトラ古墳の発掘作業時に登ったでだろう畑に行く脇道があって、
そこを登って古墳丘を見てたら、下の道路で役所関係と見られる人がこっちをじっと見てました。
この古墳は百済・高句麗に影響されたものです。
それに対し、高松古墳は唐に影響されたものです。


引用資料 景行天皇皇子日本武尊能褒野御墓
       石舞台古墳
       高松塚壁画館

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