めぐった城の解説



■名古屋城■
石積みが乱雑に見えます。
天守閣がデカイ。
江戸城よりデカく見えます。
でも実際に、江戸城のほうがデカイのです。
やっぱり天守閣が乗っているからそう見えるのでしょう。
維新後、名古屋には鎮台が置かれたし、離宮が置かれたこともありました。

関が原合戦後、江戸幕府をを開いた徳川家康が、
慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、
また、大坂(現大阪)方への備えとして、清須(現清洲町)から名古屋へ遷府を決定し、
加藤清正・福島正則・前田利光等北国・西国の諸大名20名に普請(土木工事)を命じ、
天守閣や諸櫓の作事(建築工事)は、慶長17年(1612)にほぼ完成した代表的な平城である。
名古屋台地の南端の沼沢地に位置する。
その後、明治維新をむかえるまで名古屋城は、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えた。
加藤清正によって築かれた天守閣の石垣は寛延3年(1750)に天守閣が傾斜したため、
宝暦2年(1752)から大修理を行っている。

■名古屋城西北隅櫓■
リサイクルのオンパレード。
ほとんどかんぬき(貫木)法で造られていました。

名古屋城に現存する、3つの隅櫓(東南、西北、西南-東北は戦災で焼失)の1つで、
櫓は矢倉とも書き、城郭を格成する重要な建物である。
城地の四偶の石垣上に建てられたものを隅櫓といい、
最初は、物見(展望)として作られたが、
その他に、防戦や食料、武器の貯蔵施設の役割を借えている。
本櫓は、名古屋城建設(1612年)当時の原形を、そのまま伝えた建造物で、深井丸の西北隅に位置し、
構造は、他の二つの櫓と違って三盾三階を成しており、
構造上の特長からかもし出される優雅な立ち姿は、
外堀の水面に投影される影と相まって、よりいっそうの優美さをかもし出している。
又、城内からは、その南面を一望することが可能である。
本丸の西北隅に位置することから、戊亥櫓(いぬいやぐら)と呼ばれ、
又、清洲城の用材を再利用して簗造された為、清洲櫓とも呼ばれている。
屋根は入母屋(いりもや)本瓦葺。


■大垣城■
大垣城は、今から460年程前(天文4年)宮川安定が築城した(明応9年竹腰尚綱の築城とも伝えられる)といい、
水門川の流れを外堀に利用して造られた規模の小さな城であった。
その後城郭の増築が行なわれたが、
天正13年、豊臣秀吉は、一柳直末を城主として天守閣の造営を命じたと伝えられる。
この工事は天正16年になって完成し、
それ以来、400余年の間、この天守閣は、四層四階建て総塗りごめ様式で、
たいへん優美な城として名高く、歴史の上からも貴重な城であった。
昭和11年には、国宝に指定され、郷土博物館として親しまれてきたが、
昭和20年7月29日戦災で惜しくも焼失した。

慶長5年(1600)石田三成ら豊臣方の西軍は、徳川家康を討つため東上して美濃の国に入った。
時の大垣城主、伊藤盛宗は豊臣家の家臣で、西軍に属していた。
そこで三成は、大垣城に入城して西軍の本拠とし、
付近の村や西方の南宮山にかけて諸将に陣を張らせ、全軍の集るのを待った。
ところが、東軍の進出が余りにも早く、美濃の諸城を攻略して、
大垣城から見下ろす西北の赤坂岡山を中心に布陣したため、西軍の動揺は大きかった。
9月14日三成の謀将、島勝猛はこれを救うため、一計を案じて東軍を誘い、
南一色の地に予め配置した伏兵と呼応し笠縫、笠木で奇勝を得た。
これを杭瀬川の戦いという。
そのため、一時は西軍の士気があがったが、東軍徳川方の策戦におびき出され、
遂に、大垣城には福原長尭ら兵七千五百人を残して、関ケ原に移動し、
翌15日は両軍が関ケ原の原野で一大決戦となった。
関ケ原本戦後も大垣城の攻防戦は三日三夜つづき城内に裏切りが出たため、
遂に落城した。東軍に包囲された西軍はよく戦ったが、この戦いで、城下町は東軍に火をかけられ、
三日にわたり、燃え続け、せい惨をきわめたという。

関ケ原合戦を契機に近世・江戸時代となり大垣城は「戦いの域」から「行政の域」にと生れ変った。
慶長6年(1601)石川康通が5万石で城主に任命された。
その後の寛永12年(1635)戸田氏鉄が攝州尼崎より入封するまでの35年間に石川三代、
松平二代、岡部二代、松平一代と徳川将軍に忠誠をつくした武将が栄転してきてはまた去っていった。
大阪冬・夏の陣をへて徳川幕府の基礎がかたまってゆくとともに
大垣城が争奪の的となることもなく戸田氏大垣藩は、
西美濃に君臨して明治の版籍奉還まで235年太平の世が続いた。


■彦根城■
太い曲がりくねった梁が多く、みごとです。
彦根城の表にも清洲城のように、金が貼ってありました。
岐阜城と同様に峰伝いにある山城であるが、
琵琶湖岸にあり、山すその平地に外堀・中堀をめぐらしています。
地震のときに逃げ込む部屋を持った、現存するものはほとんどない建物がありました。
日常は御茶座敷として使用されていたものです。
見学はできませんでした。


引用資料 名古屋城
       大垣城

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