その他



■言葉■
名古屋は、西日本系のイントネーションではまったくないのですね。
語感は標準語であり、接尾語の使い方の違いしか気づかなかった。
東海地方の「ら」や、私の父の故郷諏訪地方の「だ」「だよ」があります。
「で」の使い方も関西系の「で」でなくて、信州系の「で」でした。
逆に信州が影響されたのか?
大垣あたりの高校生は「や」「やん」を使っていました。岡山みたい。

米原・彦根に行くと完全に関西の言葉。
関ヶ原の道路には雪国で見る、雪を溶かすスプリンクラー?が設備されていた。
山を越えるだけで気候も文化も違うようです。
伊勢湾地域といえども、伊勢は関西の言葉だったのにはびっくりしました。
古代から、都の人が伊勢神宮へ行き来してたからでしょうね。
では、伊勢からどこまで北上すると中部のことばになるのだろうか?
そこまでは確認できませんでした。


■制服■
セーラー服のエリが白いのは西日本系です。
それにしても関東では見られない形の制服が見られますね。
セーラーがブレザーのエリぐらいになったタイプ。
人民服のようなブレザー。
ダブルボタンのブレザーと開襟シャツをセーラータイプにしたようなもの。
実に、黒が多い。
豊橋と近江八幡で見た高校生は、まだズリ落ちズボンをはいていました。
ガキがガキっぽく、あどけなく見えます。
東京のコマすれたガキばっかり見てると、そのギャップを大きく感じます。


■名古屋の街■
名古屋は山の見えない大きな平野なんですね。
豊橋でストリートライブやってるやつがいて、うるさくてなかなか寝れませんでした。
名古屋駅も超高層ビルになってる。
地下鉄・地下街でのサイン(案内板)が分かりにくかった。
何度も迷いました。
名古屋でのエスカレーターは東京と同じく右が追い越しです。
久しぶりにみそかつを食べました。

太平洋戦争が終わった直後、戦争復興計画が策定され、
昭和21年(1946)から都心部の罹災区域を中心とする
約4,400ヘクタールの区域を対象に、「復興土地区画整理事業」が始められた。
100m道路で市内を分割し、原則として幅8m未満の道路は造らないという大胆なもので、
鉄道主要駅前の広場の確保、公園の整備なども盛り込まれた。
このため障害となる上下水道、ガス管、電柱、ビルの移転撤去などを進めた。
また、市街地の墓碑18万7千余基を平和公園に移転、千種台住宅団地を造成するなど
今日の名古屋の基礎を固めた。この大事業は30数年の歳月をかけて昭和56年に完了した。


■名古屋市市政資料館(旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎)■
この建物は、全国8ヶ所に設置された控訴院庁舎のうち、現存するのは札幌と名古屋のみで、
大正11年(1922)9月、4年余の歳月と当時の金額にして約90万円をかけて、
名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎として建設されました。
設計監督は、司法省営繕課があたり、司法技師金刺森太郎が主任として工事を担当しました。
以来、昭和54午3月に、名古屋高等・地方裁判所が現在の新庁舎に移転されるまでの間、
中部地方における司法の中心として活動し、歴史を深く刻みこんできました。
正面中央にドームの架かった塔屋をあげ、赤い煉瓦、白い花崗岩又は人造石、
銅板の緑、スレートの黒を組み合わせ、華やかさと美しさをもち、
荘重な構成にまとめられたネオ・バロック様式を基調とする外観、
大理石やステンドグラスをあしらった大正ロマンあふれる内装を造りだした建築意匠や、
近代建築の変遷を物語る、
煉瓦壁と鉄筋コンクリート造りの梁や床を組み合わせた構造に対する価値が評価され、
昭和59年5月21日に国の重要文化財に指定されました。

旧日本郵船小樽支店よりあでやかな豪華さがあり、重厚なものである。
久しぶりにマーブル塗りを見ました。
マーブル塗りとは、漆喰塗りに大理石(マーブル)を模して描いたものです。
前はどこで見たんだっけな?


■鉄道■
豊橋駅から少し先まで、名鉄と飯田線が線路を共有していることに驚きました。
飯田線119系茅野行きというのにも驚きます。
JR東海はあの東海道色の111系で、車内路線図には熱海から載っています。
やっぱり名古屋は近いと感じました。
伊豆・静岡・浜松と、「隣り隣り!」という感覚。
米原に来てなり、新快速でおなじみの221系があり、しかも姫路行き。
姫路はついこの前通ったところじゃない!と思いました。
隣りの隣りは隣りという感じで、名古屋から見る隣りを身をもって感じました。
奈良の王寺にて、再びJR西日本がよく使っている105系を見ました。
今度はトイレも電器ボックスもなかった。
本来の近郊型車両はこれか?


■新城市設楽原歴史資料館・徳川美術館■
江戸を知るには全国を知る、と思いました。
新城市設楽原歴史資料館では、
幕末に設楽原の領主の子が外交官になり、江戸幕府の外交官関係を一挙に引き受け、
安政の五箇国条約締結に生命を燃やした岩瀬忠震(ただなり)についてのコーナーがありました。
向島白鬚神社に墓碑があったり、神奈川区高島台の本覚寺に顕彰碑があるなど、全然知りませんでした。
徳川美術館には、我が地元の小金原鹿狩図があります。

火縄銃の仕組みは、いたって簡単でした。
長槍は、見事な貝の装飾の美術品です。
沖縄の資料館でこの貝の装飾品について観たけど、名前さえ忘れてしまいました。
兜はホント、ダースベーダーに見えます。


■再び京都に■
京都へ近づく時は感慨深かったです。
大津と京都の間は大きな山があったのね。
琵琶湖の周りは四方山なのか?
山越えをしないと京都との出入りはできないの?
京都は多少でもなじみのある場所にて、どこに行ったら何があるかが分かって楽でした。
バスターミナルが完成していて、それは迷いました。
京都特有の地番の読み方も分かってきました。
がメラに壊された京都駅ビルを再び見ました。
ゆっくり見る時間がなかったのは残念。
今考えれば、あの建物の上のほうを登ってみたかった。


■その他■
未だに、やめた仕事の影響が残ってますね。
どこに行っても手摺りやすべり留めを見てしまう。
奈良県警・県庁にはN工業の手摺りが、名古屋のカプセルホテルにはAの手摺りが付いてます。
そんなことも見てまわってる。
あと駅が9つで工場、11つで本社のところまで来ていました。
もうそんなところまで来てるのかと驚きました。
郡山から天王寺に向かってるってことが分かりませんでした。
位置関係が分からん。
だけど、関西本線だったんだよね。
奈良から天王寺に向かってたんだから。

平城宮跡でヒバリをずっと観察してたんだけど、
空高くほぼ直上に飛んで、滑空して下りてくるのはヒバリの遊び?
通常はほとんど地上にいるときのほうが長いヒバリだし。

橿原・桜井には広島の竹原みたいな江戸期の町並みが残っていました。

京都・奈良・飛鳥だけでの寺院で、今までいったいどれほどの木材を使用したのだろうか?

どこに行っても近鉄が走っており、どこでも乗りました。

新宮で今回の旅ではじめての南紀の海を見ました。
またもや海は緑。
あいにくのどしゃ降りの雨で海は荒れてる。
こちらもびしょびしょになりました。
ここは海ガメが産卵に来るそうです。

徐福って日本に来て日本で死んだの?
富士山・熱田・熊野などあちこちにその伝説があるらしいが、
新宮もその1つとのことで、徐福の墓をがありました。

鬼ヶ城は山岳登山のようなすごい岩場。
風雨の強い荒れた海の岸壁の岩場をへばりつくように奥へ奥へと進むのはかなり怖かったです。
風雨・波によるこの地の造形・侵食は、鍾乳洞のようでおもしろい。
天気がよかったらいっそう楽しめたのに。
本当に海が荒れてるので怖い。
多我丸という海賊が荒らしまわっていたとき、
桓武天皇が坂上田村麻呂に命じて征伐させたという伝説が残っています。
確かに軍船の隠れ処にいいところ。
港としては長島町が造船場として発展しているように、もっと地形的にいいところです。

斎宮歴史博物館は改装中で入れませんでした。

伊勢での多くの住宅の玄関には、「笑門」と書いた注連縄が飾られてあります。


引用資料 名古屋市市制資料館
       新城市設楽原歴史資料館
       鬼ヶ城

   戻る