いにしえの大和路での考察



■飛鳥■
平城宮跡以上に、飛鳥でいろんなことがあったなんてにわかに思えない風景。
ただの農村風景。

渡来人が飛鳥の地に多く住み、その渡来人を束ねてのし上がったのが蘇我氏。
渡来人の技術・文化によって寺院づくり・京づくりが行われ、
水の流れを利用した庭づくりも行っており、百済や高句麗の使者をもてなしていた。
古墳ではない、石を使って細工を施した石文化は飛鳥のみにあるように思える。
藤原京の下部に飛鳥があり、何キロもない範囲の中で歴史は繰り広げられていた。
それらが少なからず理解できた奈良国立文化財研究所飛鳥資料館ではあったが、
それをうまくまとめた本は売られていなく残念だった。

欽明天皇の御代(552)に公伝されたと伝えられる仏教は、
まず歴代朝廷のあった大和・飛鳥に根を下ろし、建築・美術・工芸に新風をもたらした。
推古天皇の御代(607)に聖徳太子が開いた斑鳩宮は、
大和平野の水を集めて大和川が大阪湾へ注ぐ咽頭にあたる地で、
大陸との往来が便利で、我が国の仏教文化が見事な花を咲かせた。
幸いこの地は中世兵乱の圏外にあったため法隆寺をはじめ、太子に縁の深い古寺が遺されている。
推古天皇から持統天皇に至る7世紀の約100年間、
飛鳥地方に歴代天皇の宮がつぎつぎ造営されたがその場所は確認されてない。


■飛鳥寺■
人間味くさい顔の釈迦如来像(飛鳥大仏)。

飛鳥寺は第32代崇峻天皇元年(588)に蘇我馬子が発願し、
第33代推古天皇4年(596)に創建された日本最古の寺であり、
寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。
昭和31年の発掘調査により、創建時は塔を中心に東西と北にそれぞれ金堂を配し、
その外側に回廊をめぐらし更に講堂を含む壮大な伽藍であった。
本尊飛鳥大仏(社か如来像)は推古天皇14年(606)天皇が詔して
鞍作鳥仏師に造らせた日本最古の仏像である。
旧伽藍は仁和3年(887)と建久7年(1196)の火災によって焼失し、
室町以降は荒廃したが寛永9年(1632)と文政9年(1826)に再建され今日に至ってる。
飛鳥寺は百済よりの渡来人により建立された。
百済の瓦は中国南蛮様式が伝わったものと推測され、
初めて鴟尾を使用したのは飛鳥寺であったと考えられると云う。


■鴟尾(シビ)・鯱(シャチホコ)■
シャチホコにも阿吽(あうん)がある。
東大寺で、城の天守閣の鯱になる前形の鴟尾が見れた。

本来の役割は熨斗瓦を積み上げた棟の両端から雨水が進入するのを防ぐもの。
鴟尾は一種の魔除けとして屋根に置いたと考えられる。
中国では鴟尾の起源をインドから伝わった怪魚「マカラ」に求める説があった。
マカラとは敵を防ぐ力を持つとする獣とも魚ともつかない海獣で、
インドではこれを門や入口に飾っていた。
このマカラの思想が中国に入って海中に住み、
雨を降らす怪魚から天上に住む魚尾星と解釈され鴟尾から鯱へと変身した。
それに供って鴟尾とは違って防火を願ったものへと変化する。


■酒船石■
本来はもっと大きな石であったと推測するが、切り取られてしまって全貌が分からない。
庭園にあって水を流していたというのが有力説だが、
実際に水を流して見せてるのが奈良国立文化財研究所飛鳥資料館にある。


参考資料 フクモトレンタサイクル
       奈良国立文化財研究所飛鳥資料館
       飛鳥寺
       彦根城

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