元興寺の解説



遠くインドの地で釈尊が開いた仏教が、中国・朝鮮半島を経てわが国に伝えられたのは、欽明天皇13年(日本書紀による壬申の年―552、一説には元興寺縁起による戊午の年宣化天皇3年―538)といわれます。新らしく渡来した異国の宗教の受容の問題をめぐって、当時の進歩派であった蘇我氏が崇仏を主張し、一方、保守派であった物部氏は排仏を固執し、両者の対立が次第に激しくなり、仏教もそのためにいろいろな迫害を受げることとなりました。

しかし、用明天皇2年(587)になって、蘇我馬子はその甥の子であるとともに娘の婿にもあたる厩戸王(後の聖徳太子)とともに軍を起こし、排仏派の頭領であった物部守屋を打ち破り、ようやくのことで日本の仏教受容の道を開くことになります。その翌年、馬子はその甥にあたる崇峻天皇が即位したのを機会に、高市郡の飛鳥の地にはじめて正式の仏寺建立に着手しました(588)。この寺がこの元興寺の前身である法興寺で地名によって飛鳥寺ともいわれる寺です。

百済の国王はこの日本最初の仏寺建立を援けるために仏舎利を献じたのをはじめ、僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工を派遣してきました。その時の瓦博士の造った日本最初の瓦は、その後この寺が奈良の現在地に移った際も運び移されて、現在の本堂・禅室の屋根にいまも数千枚が使用されています。特に重なりあった丸瓦の葺き方は行基葺きともいわれて有名です。

この飛鳥寺は、三論・法相の両学派が最初に伝えられてわが国仏教の源流となっただけでなく、蘇我氏を通じての大陸文化輸入の中心舞台となり、さらに政治・外交の場ともなったようです。いわゆる飛鳥時代の文化は、まさに飛鳥寺を中心として展開したといって過言ではないようです。元明天皇の和銅3年(710)、奈良に都が移されると、この寺も養老2年(718)には新京に移されて、寺名を法興寺から元興寺に改めました。その際、飛鳥の地名からとった飛鳥寺の名はそのまま継承され、かえって新しく移った元興寺の寺地が平城(なら)の飛鳥と呼ばれることとなりました。

元興寺は移建工事を進捗させ、僧侶たちは依然として諸大寺の学問をリ―ドして、奈良の新京における指導権を握ったようです。当時の伽藍を偲ぶものとしては、東大塔跡(史跡指定)・西小塔院跡(史跡指定)・極楽堂(国宝)・禅室(国宝)しか遺っていませんが、今一つ収蔵庫に安置する五重小塔(国宝)は当時の西小塔堂の本尊、西塔そのものとされ、今に遺る奈良時代最盛期の唯一の五重の塔として有名です。天平勝宝元年(749)には諸寺のもつ墾田の地限が定められ、諸大寺の新しい格付けが行われますが、その時、東大寺の4千町歩に対し、元興寺は2千町歩、大安・薬師・興福の諸寺1干町歩、法隆寺・四天王寺は5百町歩と定められました。当時の元興寺の位置を示すものといえましょう。

天平勝宝4年(752)、東大寺の大仏が完成し、その開眼法要が営まれた時は、元興寺の隆尊が講師となってその宝前に華厳経を講じました。奈良時代の終り頃に出たこの寺の智光は、はじめは三論の学僧として 有名でしたが、晩年浄土教の研究に専念し、日本最初の浄土教の本格的研究家として世に知られています。平安時代の前半期までは、元興寺は南都七大寺の中でも各方面で指導的な役割を果たし、護命をはじめ数々の名僧を出して日本仏教の発展に寄与しただけでなく、お盆で知られる孟蘭盆会、釈尊の降誕を祝う灌仏会、組織的慈善事業のはじまりとも思われる文殊会、また仏名会なども、すべてこの寺からおこりました。当時の平安京に住む貴族たちにとっては南部の七大寺を巡礼することが心のふる里を訪ねることであり、最上の楽しみでもあったようです。

平安時代の後半になると、官寺の支えであった中央政府の権力が衰えて、荘園、寺領からの収入が困難になり、天台、真言系の新しい寺院の興隆、貴族と特別の関係をもつ寺院の強大化などにより、他の官寺と同様衰退の道を辿ることになります。その崩壊の過程でひとり元興寺の命脈を支えることになったのが、智光の遺した智光曼荼羅でした。藤原時代の後期になって法隆寺の僧坊の一部が改造されて聖徳太子を祀る聖霊院が造られたころ、この寺でも僧坊の一部が改造されて智光曼荼羅を祀る極楽房が成立しました。折から澎湃として起る浄土信仰の波に乗って、この一画が極楽坊と呼ばれるようになり、僧坊の一部を改造した極楽房は極楽堂とも曼荼羅堂とも呼ばれて南都系浄土信仰の中心となっていきます。

その頃になると、この寺を支えるものは政府でも貴族でもなくて、むしろ無名の、庶民と呼ぱれる階層の人たちが中心となったようです。鎌倉期以後の中世を通じてこの寺は智光曼荼羅を中心とする浄土信仰のほかに地蔵信仰、聖徳太子信仰、弘法大師の真言信仰などが入り交った混然とした状態で群集をあつめ、辛うじて近世にその伽藍と伝統を伝えることとなります。

今に遺る聖徳大子孝養像(重文)や弘法大師坐像(重文)は藤原時代初期に作られた丈六阿弥陀如来坐供(重文)などとともに当時の信仰の様態をよく物語るものといえましょう。また、東門(重文)が東大寺西南院から移されてくるのも、中世末期になります。


引用資料 元興寺

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