興福寺の解説



興福寺国宝館の天灯鬼・竜灯鬼立像は、邪鬼のみの独立した、表現豊かな立像でした。
鎌倉初期の作品です。
やっぱり鎌倉期のリアリズムな作品が一番好きです。

興福寺ほ、藤原鎌足の私邸(山城国手治郡山階)に建てられた小堂(山階寺・やましなでら)を起源とされ、
天武天皇元年(673)の飛鳥遷都に伴い、大和国高市郡に移って厩坂寺(うまやさかでら)と称されました。
元明朝の和銅3年(710)に都が平城に遷されると、
鎌足の子息藤原不比等(ふひと)は、厩坂寺の平城京の左京三条七坊の地に寺地を確保して移し、
金堂を建立して寺名を興福寺と改めました(和銅7年)。
その後、不比等の―周忌の養老5年(721)に北円堂が建てられ、
不比等の娘である光明皇后や聖武天皇の御願によって東金堂や五重塔が建てられ、
やがて、七堂伽藍の立派な大寺院となりました。

興福寺は法相宗(ほっそうしゅう)ですが、これは元興寺僧道昭が第―伝として中国から伝え、
のち玄肪が第四伝として興福寺に伝えて充実した法相の教学を中心に学習する
仏教寺院として今日に至っています。
奈良、平安時代に寺観・内容ともに充実した興福寺は、
藤原氏の氏寺として藤原氏と共に栄えましたが、
武士団の台頭とともに南部・北嶺の諸寺院は戦渦に巻き込まれるようになり、
戦火や天災によって再三にわたって堂塔が焼失したりしました。

しかし、その反面、鎌倉時代に入ると力強い復興事業がおこなわれ、
有名な仏師院尊や成朝・明円・康慶・運慶などが参画した、いわゆる鎌倉復興造営がおこなわれました。
時の執権鎌倉幕府は、大和に守護職を置かず、興福寺をしてその任に当らせたということは、
往時の興福寺が各方面に与える影響がいかに大きかったかがわかります。
戦国時代になるといよいよ武士勢力が強大となり、寺院勢力は下降の一途をたどるようになります。
江戸時代になると、享保2年(1717)の大火で寺の中心伽藍のほとんどが焼失し、
残るは東金堂・五重塔・食堂・北円堂,三重塔・大湯屋などとなってしまいました。
その後、ようやく南円堂と中金堂が建てられたのみです。
明治に入ると、新政府による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、
興福寺は瓦解の寸前にまでなりましたが、
その後の努力で法灯護持がなされ、現在ほ復興の意気旺盛なものがあります。


引用資料 興福寺

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