東大寺戒壇院・法華堂(三月堂)の解説



■東大寺戒壇院■
ここの四天王像(持国天・増長天・廣目天・多門天)は邪鬼を踏みつけています。
これが本来の形?初めて見ました。
(これ以降、邪鬼を踏んださまざまな四天王を観る)

戒塊院は、天平勝宝6年(754)当時中国に於ける戒律の第―人者唐の僧鑑真が来朝し、
大仏殿の前に戒垣を築き、聖武天皇を始め百官公卿400人に戒を授け、
同年5月1日孝謙天皇の戒壇院建立の宣旨に依り造営されたもので、
創立当時は金堂、講堂、軒廊、廻廊、僧房、北築地、鳥居、脇戸等があった(東大寺要録)。
そののち、治承4年(1180)、文安3年(1446)、永緑10年(1567)の三度、
火災にかかり創建当時の加藍は総べて烏有に帰した。
現在の戒壇堂は享保17年(1732)に建立されたものである。

戒壇とは受戒の行われるところで、
受戒とは僧侶として守るべき事を確かに履行する旨を仏前に誓う儀式で最も厳粛なものであり、
従って戒壇は神聖な場所である。
戒壇は三段になっているが、
これは大乗菩薩の三聚浄戒(1,攝律儀戒、2,攝善法戒、3,攝衆生成)
を表わしたものである(三国仏法伝通縁起)。
堂内には四天王(塑造)及び多宝塔(木造)を安置する。
当院の四天王はもと銅造のものであったが、今はない。
現在の有名な四天王は東大寺内の中門堂から移されたものといわれ、天平時代の傑作である。
四天王は仏法の守護神としてわが国に於ては既に飛鳥時代から信仰があり、天平時代に最高潮に達した。
身にまとう甲冑は遠く中央アジアの様式で、文化の広大なることを物語っている。
静にして動、動にして静、彫刻に於ける理想境を具現したものとして世界的水準をゆくものである。
中央にある多宝塔は、享保17年(1732)、当堂と共に造顕されたものといわれ、
中に鑑真が来朝のとき唐から将来したといわれる釈迦、多宝の二仏を模したものをまつる。(将釆品は別置)


■東大寺法華堂(三月堂)■
法華堂(国宝)は、天平12午(740)から19年までの創建と考えられている東大寺最古の建物である。
この辺り―帯に聖武天皇の皇大子基(もとい)親王の菩提をとむらうために建てられた
金鐘寺(きんしょうじ)と呼ばれる寺院があり、
それがやがて大和国国分寺、さらには東大寺へと発展した。
不空羂索(けんさく)観音を本尊とするところから古くは羂索堂と呼ばれていたが、
毎年3月に法華会が行なわれたことから、のちに法華堂と呼ばれるようになった。
後方の正堂部分と前方の礼堂と二つの部分からなっており、
当初は双堂(ならびどう)形式の建物であったが、
現在の礼堂部分は正治元年(1199)に重源(ちょうげん)上人によって新造されたものである。

金鐘寺の主要伽藍のひとつとして、このお堂で華厳経が日本で初めて講義されたともいわれている。
堂内には本尊の不空羂索観音像を中心に合計16体の仏像がところ狭しと立ち並び、
うち12体が国宝、4体が重要文化財に指定され、14体が天平時代の造立である。
これらの群像のかもし出す雰囲気は、観る人をしばし厳かな「ほとけたちの世界」にいざなう。
堂々たる体躯悩める人々をどこまでも救いに赴こうとされている不空羂索観音像、
端正な顔立ちで合掌し、透徹した美しさで人を魅了して止まない(伝)日光(にっこう)・月光(がっこう)両菩薩像、
哀愁の美をとどめる苦祥天像、髪を逆立て、忿怒の相もすさまじい金剛カ士像、
それぞれにほとけの世界を守ろうと多様な表情でたたずむ四天王像、
それに東大寺創建以来今なお色あざやかに、
金剛杵を振り上げ忿怒の相で仏敵より人々を守ろうとする秘仏執金剛神(しゅこんごうじん)像など、
天平彫刻の粋が集っている。
これらの諸仏のうち、どのお像が法華堂本来の安置仏であったかについては諸説があるが、
おおよそ、当初の不空羂索観音像と執金剛神像に加え、
おくれて梵天・帝釈、四天王、金剛カ士の8体の仏像が合せて祠られるようになったと考えられている。
日光・月光、弁才天・吉祥天の各像はもとは法華堂になく、
弁才天・古祥天は天暦8午(954)に吉祥院が焼失した直後に、日光・月光は近世に移入されたとされている。
なお木造の地蔵菩薩像は鎌倉時代に、不動明王像は室町時代に造立されたものである。

引用資料 東大寺戒壇院
       東大寺法華堂(三月堂)

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