唐招提寺の解説



金堂の鴟尾は、東大寺大仏殿の鴟尾とおなじ形でした。本尊弥勒如来は、めずらしくひげが描かれていました。

ここは奈良市五条町。奈良の郊外といった感じだが、都が奈良にあった1,200年前は、平城京右京五条二坊に当り、いわば首都の中心街区であった。

西紀759年(天平宝字3年)天武天皇の皇子新田部親王の旧邸地を賜ってここに唐招提寺が創建された。唐の国から来朝した鑑真和上の招提―み仏のもとに修行する人たちの場という意味を寺名として掲げる。別に建初律寺とも称するが、これは中国四分律の南山宗による戒律を軸として教学に励むわが国最初の律寺ということである。今も日本律宗総本山として仰がれている。

開山唐僧鑑真和上(過海大師)は大唐国揚州大明寺の高僧、わが聖武天皇の寵招に応え、授戒の師として来朝することになったが、754年(天平勝宝6年)東大寺に到着するまで12年間、前後5回に及ぶ難航海に失敗したにも拘らず、初志を曲げず、奈良の都に着いた時は両眼を失明していたはどである。かくて大仏殿の前に戒壇を設け、聖武・孝謙両帝をはじめ、わが国の多くの高僧たちに授戒した。すでに仏教国家の形態を整えていたわが国が、画竜点晴の実を挙げたのは、まさに大和上の功績である。このことは中学校の教科書にも出ている事績だが、ひとり仏教史の上だけでなく、ひろく天平文化に及ぼした影響は測り知れざるものがある。まことに日本の大功労者であった。

東大寺戒壇院を退いて当寺を建立し、在すこと4年。763年(天平宝字7年)5月6日、76歳をもって寺内に示寂した。弟子たちが師の大往生を予知して造った和上の寿像(乾漆・国宝)は、山内開山御影堂に安置され、毎年6月6日(5月6日を新暦6月6日に当てる)御忌当日を中心に前後3日間(5日―17日)開扉される。その和上の御廟は御影堂の東に隣接する林中に静まっている。仏教文化華やかだったあのころに輩出した高僧たちの名は、史上おびただしく遺っているが、さて、それらのお墓は、たまたま出土品によって明らかとなった行基菩薩の墓所のほか他に例を見ず、歿後1,200年間香華を絶たずお詣りされて来たのは、ひとりここ和上の御廟あるのみである。

ところがこの寺にも盛衰幾変遷がある。方四町の境内に輪奐の美を競い、さらに西山に48院を構えた往時、鎌倉時代の戒律復興に盟主覚盛上人の中興、あるいは近世における東塔や堂舎十数字の退転、廃仏毀釈の嵐などを経験してこんにちに至る。今もとより創建当初の盛んさはないとはいえ、なおよく擁する国宝17件、重要文化財200余件、まこと天平文化の大群落であり、かって「海東無双の犬伽藍」 「絶塵の名刹」と称せられたゆえんを目のあたりに偲ぶことができよう。

開祖鑑真和上1,200年遠忌を機とする寺観復興事業として、天平様式に再建された南大門の正面、堂々雄偉の金堂を仰ぐ。わが国現存最大の天平建築であり、天平金堂唯一の遺構として君臨するもの。その豊かな量感、ダイナミックな立ち姿、息を呑んで感嘆久しうするのみである。大棟を飾る風雪1,200年の鴟尾の簡潔な美しさ、「大寺のまるき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思へ」(会津八一)と詠わしめた大円柱の放列は遠くギリシャの神殿を想起させよう。

本尊乾漆廬舎那仏、薬師如来、千手観音、梵釈二天、四天王など創建以来の天平のみ仏います内陣の厳粛さは、そこに盲いた大徳鑑真和上が今も礼拝瞑想中かと、われらも粛然たらざるを得ない。圧倒されそうな強烈な芸術性の発揮である。毎年仲秋の月の夜には、この金堂を開扉して諸尊に献灯される観月讃仏会の行事もあって、賓客たちも秋露とともに法悦に濡れるのである。

金堂のうしろに続く講堂は、奈良仏教の上代寺院がいずれも学問寺の性格を濃厚にしていた関係上、講莚聴間の場であったが、この建物は和上の創立に際して特に宮廷から平城宮の東朝集殿を賜って移築したものであることに注目したい。平城宮跡100へクタールは、今は一屋すら留めぬ草原と化したが、幸いに一棟ここに移築されたればこそ、もって当時の宮殿の片鱗をうかがうことができるのである。その遺重性はただ天平建築たるだけのものでない。堂内には本尊弥勒如来(鎌倉時代)持国・増長二天(ともに奈良時代)を安置する。金堂・講堂を結ぶ伽藍中心線の東側には、境内唯一の重層建造物舎利殿(鼓楼)が軽快に建つ。もと和上将来の三千粒仏舎利を奉安した由緒を持つ鎌倉建築で、今では毎年5月19日のうちわまき会式(中興忌)梵網会に当って、古式ゆかしい可憐な宝扇を参詣者に撒き頒つ場として親しいなつかしさを思い起す人も多かろう。

中興上人覚盛大悲菩薩追善のため、上人の薫陶を受けた法華寺の比丘尼たちが霊前に供えた団扇を、有縁者に授けたことに発端する儀式で、
宗祖鑑真和上の開山忌舎利会(前出6月5日・6日)解脱上人始めるところの釈迦念仏会(10月21日―23日)とともに、当山の印象的な法要として、山内全域に静かな雑踏を見せる日である。舎利殿に東隣する長大な建物が三面僧房東室の遺構(鎌倉時代)で、南半分は解脱上人釈迦念仏会の道場(礼堂)に改造されている。僧房は上代寺院が全寮制の学問寺だったことを示す名残りで、かつては多くの律僧たちが戒律きびしい起居をしたところである。

さらにその東の二つの校倉。南が経蔵、北が宝蔵となっている。ともに遺存例少い天平校倉で、殊に経蔵はこの寺創以前、新田部親王の邸宅があったころの遺構だから、756年成立の正倉院宝庫よりさらに古く、わが国現存最古の校倉として記憶されるべきである。

宝蔵北側の石畳を東に歩を進めると、奥まったところに校倉式の収蔵施設新宝蔵がある。山内に襲蔵する文化財の、更に完壁な保存を期して先年竣工したもので工芸・絵画・経文類のはか、処を得ずして講堂内に仮安置されていた破損仏もここに移された。これらは彫刻史に特に唐招提寺様式という範疇を設定して重視される一群である。一般的に喧伝されている名宝如来形立像もこのなかにある。すでに仏の役目を終って破損彫刻となったこの立像の伸びやかな美しさの魅力を味わいたい。

さて鑑真和上御廟の西、境内のたたずまいひとしお清寂ななかに宏大な殿宇が望まれるであろう。南都興福寺旧一乗院門跡の宸殿遺構を精密に復原移築された古建築で、平安貴族の邸宅とその生活様式をうかがうべき好箇の資料として稀少価値きわめて高い。今では大和上の尊像を安置する御影堂とし、一山後学あげて宗祖のいますがごとくお仕え申している。

一方、伽藍中心線西側には鐘楼と戒壇が残されている。鐘楼に懸るのは平安期の梵鐘だが、これには「南郡左京」という後世の追刻銘があって、
歴然たる「右京」五条の地を誤刻したことがわかる。ほはえましい思い違いではある。戒壇は石造三段の豪壮なもので、和上が東大寺に創めた戒壇院の土造のそれとしばしば対比されるのである。こちらは江戸末期の祝融に禍されて外構を失ったが、雨露に堪えて粛然たる厳格さはひしひしとわれらに迫る。ほか、江戸末期に惜しくも雷火に失った東塔の跡や、旧二坊大路沿いのいわゆる西山四十八院跡付近(廃大日堂の本尊大日如来坐像―平安初期―は現在新宝蔵に移座)あるいは四至の東を限る秋篠川界隈の散策など、情感きわめて深く、かくて半日を清らかに過ごすことができよう。


引用資料 唐招提寺

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