熊野神社の解説



本宮大社・熊野速玉神社・那智大社は、全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮として仰がれている。
難行苦行の旅でありながらも蟻の熊野詣とうたわれるほど参詣が盛んとなり、
今なお日本第一大霊験所・全国熊野神社総本宮として崇敬を集めている。

■熊野本宮神社■
御祭神-東御前(若宮)天照大神、
      御本社(證誠殿)家都美御子大神、
      西御前(速玉宮)御子速玉大神、
          (結宮)熊野牟須美大神

御祭神の家都美御子大神は即ち素戔鳴尊であり、樹木を支配する神であり、
紀の国の語源もここから起きている。
大神は植林を奨励し、造船の技術を教えて外国との交通を開き人民の幸福を図ると共に
生命の育成・発展を司った霊神で、
第10代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿も造営して鎮座したと伝えられている。

奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、ますます神威が広がった。
延喜7年宇多法皇の御幸をはじめ、約300年にわたり法皇・上皇・女院の御幸は実に100数十回に及んだ。
これを前後して当時の神仏習合によって御主神を阿弥陀如来といって尊び、
日本一といわれた霊験を仰ごうとする衆詣者は
全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣」とか
「伊勢に7度熊野に3度、どちらが欠けても方参り」などとうたわれるとともに全国に分社を祭り、
その数は現在約5千数社を数えてる。

その後源平の騒乱、承久の変、南北朝の戦乱とさまざまの変災の過中にありながら
人心の信仰はますます高まり、
当宮の神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに全国に伝播して明治時代に至った。
現在の社殿は享和2年徳川家斉将軍の命によって
紀州候治宝卿が音無里(現本宮町大斎の原)に建立されたが
明治22年の大洪水にあって現社地に修造して遷座した。
この社殿のつくり方を「熊野造」という。
旧社地は別社地と呼び石祠殿を仮宮として西方に中四社下四社を東方に元境内摂末社を合祠している。

熊野では八咫烏を神の使者といわれている。
三本足は熊野三党(宇井・鈴木・橋本)を表すともいわれ、
当社では主祭神家都美御子大神の御神徳である智・仁・勇、また天・地・人の意を表してる。
烏は一般に不吉の鳥とされているが、
方角を知るので末地の地へ行く道案内や遠隔地へ送る使者の役目をする鳥とされており、
熊野の地へ神武天皇東征のおり、天皇が奥深い熊野の山野に迷ったとき八咫烏が導いたという意がある。


■熊野速玉神社■
過去世を救済し現世の利益を授け、来世加護へと導く速玉大神の大神徳は
「滅罪と甦り」を説く熊野権現信仰として広く万民に受け入れられ、
日本全土に熊野神社が祀られるに至った。
第12代景行天皇58年に熊野三所権現降臨の元宮
「神倉山」から現社地に新たに宮殿を造って遷宮したことから
旧宮の神倉神社に対して「新宮」と称したと云われている。
御祭神は熊野速玉男命(速霊宮)、熊野夫須美命(結霊宮)を中心に十二柱の神々を祀り、
第46代考謙天皇の御世「日本第一大霊験所」の勅願を賜り、
第59代宇多法王に始まる歴代上皇女院の御親拝は400年の間に140度におよび、これを世にいう「熊野御幸」という。


引用資料 熊野本宮神社
       熊野速玉神社

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