瀧原宮・瀧原竝宮の解説



清め場所である御手洗場が、流れてる川で行うことに驚きました。
境内の樹木がりっぱなこと。
幹の周囲が2m以上のものがゴロゴロあります。
その樹木に泡がついていたのでカマキリかなと思ったら、
幹を伝って落ちるくる雨水が次第に溜まっていたものでした。
社殿前の玉砂利のきれいなこと!
鳥居からの参道は白の玉砂利、その他は黒の玉砂利、所管宮は茶の玉砂利を敷いてある。
全体的に質素でありながら、ものすごく手入れの整った神社で、他の大きな神社と違う「すごみ」が感じられる。
入り口に派出所出張所があり、その前には一等水準点があり、この宮のただものでなさを物語っています。
上品であり繊細である。雨の降る中、木々の間を歩くのはとても心地よかった。
その参道を沢ガニが歩いていました。

<皇大神宮別宮>瀧原宮-天照坐皇大御神御魂、瀧原竝宮-天照坐皇大御神御魂
<瀧原宮所管>若宮神社-若宮神長由介神社-長由介神、川島神

瀧原宮(たきはらのみや)・瀧原竝宮(たきはらならびにみや)は、
ともに皇大神宮(こうたいじんぐうべつぐう)(内宮)の別宮で、
昔から「大神の遙宮(とおのみや)」と言われています。
御祭神はいずれも、天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)で、
両宮とも同じ所に御殿をならべて鎮座されています。

御鎮座の地は、宮川をさかのぼること約四十キロ、
その支流大内山川が深い渓谷をなして流れる山間にあります。
「瀧原」という名は、大小たくさんの滝があるところから出た名です。
そのむかし、西国三十三所の巡礼を志した人々が、まず伊勢の大神宮にお詣りしてから、
熊野の第一番札所を目ざして歩みを運んだ熊野街道は、
現在、国道四十二号線となり、当宮の前を通っています。
ここから荷坂峠を越して黒潮洗う紀伊の海岸に出て、南紀への旅を快適にしています。

第11代垂人天皇の皇女倭姫命が、御杖台(御使い)として天照坐皇大御神を奉戴して、
宮川下流の磯宮をお発ちになり、上流の方に御鎮座の地を求めてお進みになると、
砂をも流す急流の瀬があり困っておられたので、真奈胡神(まなこのかみ)がお出迎えをしてお渡し申し上げた。
そこで命はそのところに真奈胡神をまつる御瀬社(みせのやしろ)をお定めになったのが、
今の皇大神宮摂社、多岐原(たきはら)神社です。
瀧原宮の下流約六キロ、大宮町三瀬川の宮川に臨む断崖の上に鎮座されています。
近年までここに熊野街道の「三瀬の渡し」がありました。

倭姫命はさらに真奈胡神の案内でお進みになると、「大河の瀧原の国」という美わしい土地があったので、
この地に草木を刈り払って新宮を建てられたのが、瀧原富の起源です。
そののち皇大御神の御神意によって、再び伊勢の方へ向われたので、
瀧原に御滞留の期間はさほど長くはなかったと思われます。
この御由緒によって御遷幸後もかわることなく、皇大御神を奉斎して今日に至っています。
なお、両宮とも皇大御神の御魂を奉斎しているのは、皇大神宮に皇大御神を奉祀し、
同別宮荒祭宮に皇大御神の荒御魂を奉斎する姿の古い形と考えられます。

瀧原宮の宮城四十四へクタールは、その地勢が皇大神宮のそれと極めてよく似ていて、
あたかも皇大神宮の宮城の雛型のようです。
後ろに山をひかえて南面し、すぐ前には東から西に向って流れる枝川があり、
それが南から北へ流れる大川に落ち合うT宇型の地形でず。
宮域内のうっそうと茂る杉の大森林は、他に比類少なく、これこそ自然林の典型であると言われています。


引用資料 瀧原宮

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