月讀宮・倭姫宮の解説



■皇大神宮別宮 月讀宮 以下四別宮■
(こうたいじんぐう つきよみのみや)

月讀荒御魂宮 月讀尊荒御魂宮 A
(つきよみあらみたまのみや)(つきよみのみことのあらみたま)
月讃宮    月讀尊 @
(つきよみのみや)(つきよみのみこと)
伊佐奈岐宮  伊弉諾尊 B
(いざなぎのみや)(いざなぎのみこと)
伊佐奈弥宮  伊弉冉尊 C
(いざなみのみや)(いざなみのみこと)

ご参拝は@からCへと順にされるのが一般です。外宮と内宮を結ぶ県道(御幸道路)の中間、道路沿いのこんもりと茂った森の中に御鎮座になっております。

月讀宮におまつり申し上げる月讃尊は天照大御神の弟神であります。外宮の別宮月夜見宮の御祭神と御同神でありますが、月夜見宮では「月夜見尊」の文字が用いられております。月讀尊の御事については、日本書紀の上巻に、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)二柱の御親神が、天照大御神をお生みになられ、次に月讀尊をお生みになられ夜之食国(よるのおすくに)をお治めになるようにと、ご委任になられたと記されております。また、日本書紀では、月讀尊はその光彩(ひかりうるわしいこと)が、天照大御神につぐものであるとたたえております。天照大御神の御神徳は、「その光華明彩(ひがりうるわしいこと)、六台(あめつち)の内に照り徹るほどでございます」と、太陽にたとえて表わされておりますので、月讀尊の御威徳は、それにつぐものとして、月になぞらえて、おたたえしたものと拝されます。

皇大神宮の第一の別宮である荒祭宮(あらまつりのみや)に、天照大御神の荒御魂(あらみたま)がまつられ、豊受大神宮の別宮多賀宮に豊受大御神(とようけおおみかみ)の荒御魂がまつられておりますように、月讀宮にならんで、月讀尊荒御魂がまつられております。

荒御魂とは、神様の御魂のおだやかな御姿を「和魂」と申し上げるのに対して、時にのぞんで格別に顕著な御神威をあらわされる御魂のお働きを「荒御魂」とたたえます。伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮におまつり申し上げる伊弉諾尊、伊弉冉尊二柱の神は、大八洲国(おおやしまのくに)即ち日本の国土及び山川草木をお生みになられたのち、天の下の主たる天照大御神をお生みになり、つづいて月讀尊をお生みになられた二柱の御親神でありますことは、申すまでもありません。以上の四別宮の御神名には「尊」の文字が用いられておりますが、これは、日本書紀巻第一で、神々の御事をのべるにあたり、「至って貴きを尊といい、そのほかを命という」と注記しているもので、日本書紀の文字づかいに従っております。

次に「別宮」と申しますのは、本宮との間柄を示す御称号でありまして、皇大神宮、豊受大神宮「本宮」とするのに対し、あたかも本家に対する分家の意味で、別宮と称するものであります。別宮の「宮」は宮号と称し、天皇の思し召しにより、古くは勅書をもって、のちには官符をもって定められたものであります。これを「宮号宣下(きゅうごうせんげ)」と申します。神社に御称号をたてまつることは御祭神の御神威の輝きによります。これを敬うこといよいよあつければ、神の御稜威(みいつ)も一層輝きをますものであります。月讀宮以下四所のみやしろは、第五十代桓武天皇延暦二十三年(八〇四)に、神宮から上進した「大神宮儀式帳」には、「月讀宮一院、正殿四区」と記され、一囲いの瑞垣内にまつられておりました。すなわち、四宮あわせて月讀宮とよばれました。伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮に宮号が宣下されましたのは、第五十六代清和天皇貞観九年(八六七)八月のことであります。

第六十代醍醐天皇延長五年(九二七)に、有名な「延喜式」が上奏されました。これによりますと、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮が瑞垣をめぐらした一院をなし、月讀宮、月讀荒御魂宮が一院を形成しておりました。現在、拝するように、四宮それぞれが瑞垣をめぐらしたお姿になったのは、明治六年からであります。続日本書紀巻三十二に、「光仁天皇宝亀三年(七七二)八月の条には月讀神の御神威をかしこみ、その年の九月の神嘗祭から毎年の神嘗祭には内宮の荒祭宮に准じて、神馬を奉ることになった」と、あるのをはじめとして、朝廷の御尊崇の事実は、枚挙にいとまありません。延喜大神宮式に、この四所の別宮に対し、幣帛を「祈年、月次(六月、十二月)、神嘗の御祭に供えよ」と、あるのをはじめとして今日においても、年中恒例および臨時のお祭は、正宮についで鄭重に奉仕されております。


■皇大神宮別宮 倭姫宮■
(こうたいじんぐうべつぐう やまとひめのみや)

倭姫宮は、皇大神宮(内宮)の別宮で、おまつりする神様は倭姫命です。倭姫命は天照大神の御神教(みおしえ)をうけて約二千年前に、五十鈴川の川上、現在の場所に皇大神宮をご創建されたお方です。

内宮と外宮を結ぶおよそ五キ口の美しい並木道路、御幸(みゆき)通りの中ほどに、松の緑もあざやかな丘があり、倉田山と呼ばれています。ここには神宮徴古館・農業館・美術館・神宮文庫・皇学館大学等があり、これに接する四へクタールの常緑の森が当宮の宮城です。

倭姫命は、第十一代垂人天皇の皇女です。第十代崇神天皇の皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)の後を継いで「御杖代(みつえしろ)」として皇大御神に奉仕ざれ、皇大御神を戴いて大和国をお発ちになり、伊賀・近江・美濃等の諸国を経て伊勢の国に入られて、御神慮によって現在の地に万代不易の皇大神宮を御創建されました。「御杖代」とは皇大御神の御杖となって、御神慮を体して仕えられるお方の意です。倭姫命から後、代々の天皇は未婚の皇女を伊勢に遣わして皇大御神に奉仕させられましたが、このお方を斎王(いつきのみこ)と申し上げます。倭姫命は皇大神宮御鎮座ののち、神嘗祭(かんなめさい)をはじめとする年中の祭りを定め、神田並びに各種のご料品を奉る神領を選定し、禰宜(ねぎ)、大物忌(おおものいみ)以下の奉仕者の職掌を定め、斎戒(さいかい)や祓(はらえ)の法を示し、神宮所属の宮社を定められるなど、神宮の祭祀と経営の規模を確立されました。

このように大きなご功績をお遺しになられた命の御徳をお慕いして、大正の初年から神宮司庁と宇治山田市(現在の伊勢市)が命をまつるお宮の創立を請願してきましたが、大正十年一月四日、皇大神宮別宮として当宮のご創立が許可され、同十二年十一月五日に御鎮座祭が執り行われました。


引用資料 月讀宮

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