北海道の歴史 成り立ち〜続縄文時代



■地質■
現在の日本は、ユーラシアプレート・太平洋プレート・フィリピン海プレートが衝突している場所にあり、
そのためにいろいろな地質現象が観察される。
北海道はユーラシアプレートに属し、
太平洋プレートが千島海溝で年間10cmづつ北海道の下に潜り込んでいる。
北海道でも旭川の東に位置する当麻の鍾乳洞は、約3億年前の石灰石で作られている。
赤道近くの海で作られた石灰石がプレートで北海道まで運ばれてきた。
道南地域や東北地域もこの運動で、現在の場所に移動してきた。

現在のオホーツク海に古い大陸・オホーツク古陸があったと考えられている。
この古陸は2億年前にはるか南方にあった小さな大陸だったが、
南からのプレート運動で現在の位置まで運ばれ、約1億年前にアジア大陸に衝突した。
その西側に海溝があり、海洋底の仁頃層郡(常呂付近に特徴的に分布する赤いチャートは海洋底堆積物)
がオホーツク古陸の下に潜り込んだ。
そのために仁頃層郡は高圧の変成作用を受けた。
1億年前には西にアジア大陸、東にオホーツク古陸があり、
その間には南北に伸びた海があったことが化石からも分かる。
また西大陸の海洋側には海溝があり、活発な潜り込み運動があったと推測される。
この東西の潜り込み運動のために中央の海はだんだん狭くなり、
約4500万年前の新生代の頃ついに衝突し、大きな大陸がアジア大陸の東部に作られた。
そのため4500万年から2500万年にかけての地層は非常に限られた場所にしかなく、
ほとんどが淡水の陸成層である。

網走の近くでは、北見の若松付近に「若松沢層」が分布している。
なぜ若松付近にくぼ地の湿地が作られたのか?
網走付近には右横擦れ断層の「網走構造線」あることが分かってきた。
この横擦れ断層の一部が断層破砕帯となって風化浸食作用を受け、
くぼ地を作ったと考えられる。
網走構造線はヒマラヤ山脈・天山山脈・バイカル湖の形成された時期に
日本付近に大規模な右横擦れ断層を作った。
インドのアジア大陸への衝突がさらに激しくなり、そのため網走構造線が活発に動き、
オホーツク海の南の部分が扇状に開いていく(オホーツク海盆の形成)。
オホーツク海盆と同じくインド大陸のアジア大陸への衝突により、
日本海が開いたのは1500万年前と考えられる。
北海道東部と同じく最初は淡水の湖が形成され、
次第に海が入ってきたことが化石から分かる。
オホーツク海盆の左右に開くと地下からのマグマが噴出しやすくなり、
海底火山活動を示す網走層の枕状溶岩がそれにあたる。


■人類■
北海道の最初の人類である先土器文化の担い手たちは、
遠く北方のシベリア大陸から南下してきた人々だった。
彼らは2万年から1万年前にかけて、ヘラジカやオオツノジカなどの大型獣を狩猟しながら、
氷結した海を渡り、北海道に移り住んできた。

本州では縄文時代の次に弥生時代があるが、北海道では続縄文時代となる。
寒さが厳しい北海道では、稲作農耕は行われず、
縄文時代からの伝統を引きついだ独特の文化が栄えた。
続縄文時代の北海道は、
土器などの文化内容を異にする、4つの地域に大きく分かれていた地方色の強い時代だった。
(オホーツク海洋地域・釧路等道東地域・石狩平野の道央地域・函館方面の道南地域)
続縄文時代の後期は、それまでの地域性豊かな北海道がひとつの文化圏にまとまった。
この時期の文化は千島列島や東北北部にまで分布域が拡大したことが知られている。
当時、一方的に訪れた寒冷な気候による東北の稲作文化の南下が背景にあったようで、
本州では弥生時代が終わり、古墳時代ををむかえた頃にあたる。
この頃の東北地方の人々は、エミシと呼ばれ、大和政権との軍事的衝突をたびたび起こした。
この時期になるとようやく鉄器が普及し、石器はあまり使われなくなり、
道北ではオホーツク文化人が進出してくるなど、
次の時代にかかわる新たな動向が見られるようになる。
7〜8世紀頃、千年近く続いた続縄文時代は終焉を迎える。


引用資料 網走市立郷土博物館
       道立北方民族博物館

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