北海道の歴史 開拓期



明治2年の諸藩分領支配管轄図を見ると、
各藩の他開拓史・兵部省管轄以外に増上寺等社領地があることがおもしろい。
個人所有地もある。

なぜ北海道開拓が行われたのか。
18世紀に入って米・英などの諸外国が北海道周辺にやってきて
水と食料の補給を求め争いが起こるようになった。
また、ロシア帝国がシベリアから南下し北海道を占領しそうな勢いだった。
はっきりと日本の領土であることを示すためにたくさんの人を定住させる必要があった。
日本の近代化を進めるための工業の発展に欠かせない石炭と鉱物資源を掘り出すためでもある。

明治2年(1869)明治新政府は蝦夷と呼ばれていた土地を北海道と改め、
開拓を進めるための役所「開拓使」を設置した。
森林に覆われたサッポロを首都を定め、新しい街作りを始めた開拓使は明治6年(1873)に、
家もまばらな新都の中央に洋風の庁舎・開拓使札幌本庁舎を建てた。

開拓史は北辰旗と呼ばれる北極星を形取った赤い五光星を、
庁舎や戦艦・製造品などに開拓史を象徴するマークとして使った。
サッポロビールのマークもそれに付随する。

新政府は北海道開拓のため「開拓史10年計画」(明治5〜14年 1872〜1881)をたてて、
本格的に北海道の開拓に着手する。
総額1000万円の財政投資を行い、開拓史は各府県から移民を招き、
産業を興し、新しい社会や文化を築く方策を進めた。
この方策を達成するために海外の新知識や高度な技術を必要とし、
外国から多くの人材を招いた。
「開拓史10年計画」が終わるとともに明治15年(1882)開拓史は廃止され、
事業は緒についたところで中断した。
その後経済の変動と政策の転換のなかから道内外に新たな開拓気運が現れはじめた。
三県一局時代(明治15〜19年 1882〜1886)のあと
北海道庁(明治19〜昭和22年 1886〜1947)が設置され事業全般が見直され、
時代は「開拓」から「開拓殖民(拓殖)」へと移った。
(県庁は札幌・函館・根室に所在した)

最高顧問ホーレス・ケプロンは、アメリカ農務省長官長であった。
黒田清隆開拓長官は開拓使の首脳部を薩摩出身者で固めた。
お雇い外国人全78名のうち48名はアメリカ人である。

京都の街作りを参考にし、明治2年(1869)11月、
札幌本庁の建設を命ぜられた島義勇判官は、
札幌の広野を現在の南1条通りで南北に、
またすでに堀削されていた大友堀(創成川)で東西に分けるところから始まった。
この事業は一時中断した後、明治4年(1871)岩村通俊判官はこの構想を生かし再開し、
4月に仮本庁舎が竣工、5月には市街の区画が行われた。
60間四方の格子割りによる街区構成を採用し、
街の中央には58間幅(105m)の大通りを設定し、
北を官用地に南を町屋地として本格的な街作りを進めた。

最初に移住を希望したのは戊辰戦争によって領地を没収された武士たちであった。
彼らは藩主を中心に集団で移住し、北海道開拓の先駆者となった。
(明治2年)会津藩士-余市
(明治3年)仙台藩士(石川邦光の臣)-室蘭郡
      仙台藩(伊達邦成と家臣)−有珠郡
      仙台藩(片倉邦憲と家臣)−幌別郡(登別)
      仙台藩(柴田憲成旧臣)−有珠郡
      斗南藩士-瀬棚郡
      仙台藩士−日高門別・平取
(明治4年)徳島藩(稲田邦植と家臣)-静内郡
      仙台藩(伊達邦直と家臣)−厚田郡→当別
      仙台藩(片倉邦憲家臣)−札幌白石
      斗南藩士-瀬棚・歌棄・山越
      会津藩士-余市
      佐賀藩士-釧路・厚別
(明治5年)仙台藩(片倉邦憲家臣)-札幌手稲
(明治11年)旧名古屋藩主徳川慶勝-山越郡八雲村開墾
(明治14年)旧山口藩主毛利元徳-余市郡大江村開墾
(明治16年)旧加賀藩主前田利嗣-岩内郡前田村開墾
(明治17年)鳥取士族-釧路
(明治26年)石川邦光家臣-南幌


参考資料 松浦武四郎について
引用資料 北海道庁旧本庁舎
       北海道開拓の村
       北海道開拓記念館

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