歴史ある古い建物の解説



■旧花田家番屋■
明治から大正にかけて北海道西海岸の鰊漁は全盛を極めており、
特に鬼鹿の海岸は千石場所とも言われ、
中でもこの地「天登雁村」の前浜―帯は鰊の群来と共に海の色は乳色に変り、
群飛ぶカモメと、波間を渡るヤン衆の沖揚音頭、もっこ背負いの人の波で浜は湧き返えっておりました。
重要文化財に指定されたこの建物は、明治後期当地の素封家、花田伝作氏によって建てられ、
最盛期には18ケ統の鰊定置網を経営する道内屈指の鰊漁家でありました。

この番屋はその本拠として、5ケ統の漁夫の外船大工、鍛冶職、屋根職等
総勢200人前後の人を収容しておりました。
当番屋は道内に現存するものでは最大の規模を有し、木割りほ大きく豪壮であり、
空間は雄大で、玄関から奥に土間を通し、その北側に親方居住部分を、南側に漁夫の生活部をもうけ、
漁夫の寝台(ねだい)を中二階に備えて三段とし、その機能と合理性を求め、
俗に番屋と呼ぶ鰊漁家特有の平面構成となっています。
かつて一起し千両と謳われた鰊は既に幻の魚となりヤン衆さんさめく声も絶えて久しく、
今はただ番屋のみがその影を残し、ヤン衆の息吹を今に伝えております。

創立は―説に明治29年と言われていましたが、
今時の解体調査の結果仏間大引下の束に書かれた墨書やヤン衆寝台羽目板の落書から
親方生活部分の内部造作は明治38年(壁紙下貼の新聞紙の日付が明治37、38年)頃と考えられ、
ヤン衆生活部分はこれより2〜3年早く出来たものと推定されます。
故花田作三氏の生前の話によれば、明治29年頃山林を入手伐採、この頃から製材等に着手したものと思われます。
この番屋は、すべて地元「大椴」の山から切りだし三半船で海上を運び、木挽の手によって製材されたものです。
祖先は安芸の国の人と言われ、2代伝七氏の時より鰊漁の実際に就き、
文久3年には家族と共にテントカリ(現在の広富)に寄留し本格的に鰊漁場を経営しました。
(満留二)花田家は3代伝七の次男伝作氏が明治21年に分家し鰊漁場を営んだのに始まり、
最盛時には、18カ統の鰊定置網(俗に建網と言う)を経営、雇人も500人を超え、
米蔵、網蔵、舟蔵、粕蔵、作業場等100棟に近い建物を所有、蒸気機関を設置し
ウインチ、トロッコの使用と共に各漁場間に私設電話を施設する等
当時としては最新の近代化漁法を駆使した大鯨漁家でした。


■豊平館■
豊平館は豪華ではないけど重厚でどっしりした造り。
時計が月齢も読めるもので驚いた。
広々としてダイナミックである。
2階テラスとなる正面玄関屋根の造りはすばらしい。
内装とは打って変わって、外観は華麗。


■札幌市資料館(旧札幌控訴院)■
札幌市資料館の建物は大正15年(1926)建造の旧札幌控訴院。
名古屋で観た旧名古屋控訴院の他に現存するもう1つの旧控訴院建物。
正面中央階段の腰壁は石?
こんなにひねり上がっていく腰壁に継ぎ目が見当たらなく見事なものである。
外壁は、内側にレンガ、外側に軟石を交互に凸凹をつけて積み上げた「組積造」で、
2階床部分などを鉄筋コンクリート造りとしている。


■旧日本郵船小樽支店■
旧日本郵船は本当に凝った建物、貴賓に満ちた建物。天井のデザイン・漆喰彫刻はすばらしい。
金唐革紙はやっぱりここのが一番きれい。
いいもの・いいデザイン・いい色合いだと思う。
ヒーターにも彫刻が施されていた。
手摺柱も凝っている。
長崎で見た銀行よりずっといい。
東京御徒町の松坂屋と、名古屋の旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎と、
旧日本郵船は私の中で一番好きな建物です。

日本郵船株式会社の歴史
日本郵船という会社は明治18年(1885)に設立されましたが、
幕末の頃の土佐藩の海運業を引き継いで大きくなった船会社で、
昭和初期には船腹量(総トン数)で世界―にもなりました。
小樽へは明治11年(1878)に出張所をつくり進出、道内外への窓口を開きました。
明治13年(1880)に札幌―小樽間に日本で3番目の鉄道がしかれ、小樽は石炭積出し港にもなり、
北海道開拓の拠点港として、銀行、企業が次々に進出、日本郵船も倉庫、船入澗(船着場)、事務所を充実させました。
国内では北海道から海産物・穀物・石炭など、本州から米・塩・酒などを輸送し、
海外とは海産物、陶磁器、米などを輸出、紙、小麦、木材などを輸入していました。
当時、小樽は北海道貨物の1/3を取扱う商港でした。
日本郵船は世界各国の主な港に支店を持ち、客船・貨物船が行き来し、
―時、世界―周航路もありましたが、第二次大戦中に、所有船をほとんど損失し、
小樽支店も昭和46年(1971)廃止しました。

建物の歴史
この建物は明治37年(1904)に着工し、明治39年(1906)に落成しました。
大火で前支店事務所が焼失したため建て替えたものです。
設計者は工部大学校造家学科(東大工学部の前身、建築学科)の第―期生、佐立七次郎で、
工事は地元の大工棟梁山口岩吉が監督し、工事費は当時の金額で約6万円でした。
(当時、大工工賃は東京で1日1円程度でした)
当時この建物の前面には、専用の船入澗、輸出入倉庫があり、貨物を積んだ艀(はしけ)が出入りし、
建物の裏側には鉄道が走っていたので、貨物は直接貨車で輸送するなど、
海運業にとっては最適な場所に建てられました。
日本郵船は昭和29年(1954)まで営業していましたが、その後建物は小樽市所有となり、
約30年間博物館として利用されました。
その間、昭和44年(1969)に、
ヨーロッパ建築様式をとり入れた明治時代後期の代表的石造建築として国の重要文化財に指定されました。
昭和59年(1984)から約3年間、全面的な修理復原工事を行い、
古い写真や資料に基づいて電球など細部まで忠実に建設当時の姿を復原、船会社の雰囲気が甦りました。
(復原とは原点に戻すことです)
なお、建設Iケ月後、明治39年(1906)11月に2階会議室で日露国境画定会議が行われた、歴史的な建物でもあります。

この建物は近世ヨ―口ッパ復興様式(ルネサンス)というスタイルで建てられています。
その特徴は外壁の石柱の飾りや内部の円柱の彫刻に表われています。
営業室の円柱のデザインはコリント式です。
純石造2階建で外観はクリ―ム色と薄紫色の2種の石を組み合わせて積み上げ、
内部は漆喰壁に道内産の木材のワ二ス塗装で落ちついた重厚なデザインです。
I階に営業上の実用的な部屋、2階に接客・会議用の豪華な部屋、
背面の附属舎に球戯室(ビリヤ―ド室)、宿直室、便所等を配置しています。
建物の利用者を従業員、支店長、一般客、貴賓客(特別なお客様)
に区分して入口、歩く道、部屋を使い分げるよぅに設計、
防寒・防火対策として二重ガラス、スチ―ム暖房、シャッタ―など最新式の設備をし、
内装には堅固な輸入品を数多く使用、事務所としての機能性が重視されています。
設計者の計画と職人の磨かれた手仕事が優れた建築作品を創り上げました。


■旧寿原邸■
小樽は、北海道でも古い歴史と文化をもつ港町です。
北梅道開拓の基点札槻に隣接し、
天然の良港を活用し海運を中心と した商工業の町と して発展しま した。
第1次世界対戦後は、海外貿易が盛んになり小樽の繁栄期を迎え、
それらの時代の名残の建物が多く残されており ます。
殊に、色内町の元銀行街は、
往時の繁栄期に建設された豪華な建築物が軒を連ね、かつての隆盛を しのばせます。
こ う したなか旧寿原邸は、 小樽最初の衆議院議員で、その後貴族院議員を歴任し、
小豆将軍の異名をとった雑穀南高橋直治氏が、明治後半に築造したものです。
庭石には、現在では掘り尽く されてしまいま したが、
スキーのメッカ天狗山周辺に産した揮石安山岩を、冬期間に馬橇にて運び仕 したものを使用しています。
庭園は、西北に面した緩傾斜地を三段に地割り し、
上段には和室に池を配した日本庭園、中段は祥間に六角雪見灯籠、下段は小樽港を眼下に見おろ し、
遠く は増毛連峰を―望する。
芝生、庭園樹木にはウメ (4月下旬〜5月上句が見頃)、べ二シダレモミ ジ(10月中旬)、
イチイ(通年)クロマツ(通年)等の高木と、ツツジ類(5月下旬〜6月上旬)、ツゲ(通年)の低木が植裁され、
時至れば花実をつけ庭に彩りを添えます。
なお、建物の名称は高橋家から寿原家に代わり、
昭和61年12月同家より小樽市に寄贈されたため、現在の(旧)寿原邸となっており ます。
また、この邸は平成3年7月17日小樽市歴史的建造物に指定されま した。


■その他■
北海道開拓の村内の旧農商務省滝川種羊場機械庫は、さながらトラクターの博物館となっていた。
これは珍しい。

引用資料 旧花田家鰊番屋
       豊平館
       札幌市資料館
       旧日本郵船小樽支店
       旧寿原邸

   戻る