道北・天塩の解説



天塩の地名は、アイヌ語のテン・オ・ペッ(梁・多い・川)またはテシ・ウシ(梁・ある)に由来する。
古くはテセウと呼ばれていたがその後テシホと表記されるようになった。
テシホが「天塩」になるのは明治2年から。

手塩川筋を中心に生活していたテセウアイヌは、
遠く北のアムールから樺太に及ぶ交流の中で独自の文化を築いていた。
やがて和人との交渉によって本州と強く結び付けられ、
江戸時代には徐々に和人の商業活動に取り込まれていった。
中世の北海道アイヌ民族は道南中心に本州とのつながり深い「渡党」と東蝦夷地の「日の本(ひのもと)」
そして日本海を中心に樺太・大陸とのつながりがある「唐子(からこ)」と呼ばれた。
3地域に分かれていた天塩は北日本海から樺太の西を北進し、
大陸のアムール川の河口に達する海上交通路の中継地であった。
大陸では山丹人(さんたんじん)と呼ばれる人々が
中国製の織物や玉類を、蝦夷地の産物や本州の品々と交易した。
この交易は山丹交易と呼ばれ江戸時代まで続いた。

天塩川は道北内陸を貫いているため東西の海岸に抜ける交通に大変便利であった。
アイヌ民族は古くから最も近い道筋を見つけ出して
問寒別川・安平志内川・名寄川・剣渕川などの大支流を通り、海岸や石狩川へと往来していた。
こうした川筋の道は現在の国道や道々にそのまま利用されている。
近世になっても1700年代は積丹半島以北の海岸に和人の居住が禁じられており、
川筋のアイヌ民族の生活には大きな変化はなかったと考えられる。
しかし後半は和人及び松前藩の漁場でのアイヌ民族に対する扱いがよりひどくなり、
伝染病の流行もあり天明6年(1786)に天塩川筋に200戸もあったコタン(集落)が
安政4年(1857)には約6分の1の46戸にも減少した。

幕府はロシアの南下政策に対し文化4年(1807)より14年間、ついで安政2年(1855)より蝦夷地を直轄地とした。
安政以後の直轄の時には道北の諸藩に蝦夷地を分けて領地とした。
庄内藩はマシケを除くテシホよりアツタまでが拝領地でアツタからスッツまでが警備地となった。
庄内藩は文久元年(1861)より本格的な経営を行い、
奥羽6藩のうちで最も移民の入植に力を入れ、浜益場所に8ヶ所、留萌場所に2ヶ所の村を開いた。
しかし大政奉還によって慶応4年(1868)には武士・農民80名が引き上げ、
莫大な財力と人力をかけた成果もわずか7年間で消え失せててしまった。

造林山の木材は天塩川を流送され、天塩港の沖に待つ積取船によって本州や小樽に運ばれた。
小樽からは多くの日用雑貨が海路天塩港に運ばれ、天塩川を通じて内陸の各地に送られた。
岸に寄りつくニシンやサケを目的とした漁業も盛んであった。
天塩は陸運の発達や鉄道が開通する昭和10年頃まで木材と漁業の繁栄に支えられ、
小樽に連なる最先端の街として栄えた。


引用資料 天塩川歴史資料館

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