坂本龍馬の西洋に開かれた知識・思考の礎がうかがえる浦戸の歴史



■土佐日記と浦戸■
17世紀以前に表された世界地図(モンタナス製作)に、四国=トサ(Tonxa)、九州=ブンゴと記されています。
このことから土佐は、当時からヨーロッパの船員に知られる土地だったことがわかります。
浦戸はその土佐を代表する港で、1596年のサン・フェリペ号漂着のおかげもあって、広く世界に知られるようになりました。
しかし、徳川幕府の鎖国政策が打ち出されてからは、対外的にはその名が薄らいでいきました。

国内の古い文献では、平安朝文学の異色とされる紀貫之の「土佐日記」に登場します。
承平4(934)年、土佐国府を出発した貫之が、12月27日の条に「大津より浦戸を指して漕ぎ出づ」、28日の条に「浦戸より漕ぎいで、大湊をおふ」と記しています。

土佐日記から推考された“土佐日記地理弁の古代の図”を見ると、湾は今日よりはるか奥に入り込んでいて、大津、中津、小津などに港があります。
また、今は高知の市街地になっている比島、田辺島、葛島、洞ケ島は名の通り海に浮かぶ島でした。

貞応2(1223)年に定められた「廻船大法」には、浦戸が大切な開港場であったことが記されていますし、室町時代に入ってからは、勘合貿易南海路の避難港の役割を担っていました。


■浦戸城■
浦戸城はもともと朝倉城(高知市朝倉)を本拠にしていた本山氏が16世紀の初め支城として築いたものです。
その後天正19(1591)年頃、元親が大高坂城から移ってきました。
移った理由は、
・大高坂がしばしば洪水の被害を受けたこと、
・大高坂城が貧弱で小規模だったので改築するより有利と考えたこと、
・浦戸は天然の良港(国内の貢物の集積場所として、また国外の戦線へ兵を送る水軍の基地として好都合)に恵まれていること、
などからでしょう。その後10年間、長宗我部の本城になりました。

いま坂本龍馬記念館が建っている場所は、浦戸城の「詰めの段」に当たります。
「詰めの段」の東北隅には中世の山城には見られない「天守」跡があり、その特異性が目立ちます。
天守は「詰めの段」より高い位置にあって「五間四方」でした。
上面は平面で南北16メートル、東西10メートルの長方形でした。
天守はふつう高知城のような近世の城につけられています。
中世の山城である浦戸城につけられているということから、この浦戸城は中世山城から近世城郭へ移っていく時期に造られたことがわかります。
その天守には、三層の望楼があったようです。
長宗我部氏が浦戸城で過ごした10年間には、事件が相つぎました。

慶長5(1600)年、長宗我部が属していた西軍が関ケ原の戦いで破れたので、慶長6年には山内一豊が浦戸に入城してきました。
しかし、浦戸城下は城下町をつくるには土地が狭いうえ、生産地域とも離れていたので2年後の慶長8年、元いた大高坂に移りました。
その時浦戸城の天守や石材などは新城に移されましたので、浦戸城はすたれてしまいました。


■朝鮮の役に従軍■
文祿元(1592)年3月秀吉から朝鮮への出動命令を受け、3千の兵を率いて浦戸をたちました。
苦戦を重ねましねが,2年6月、元親の軍は1千3百の首級をあげ、敵将朴好仁以下80人を捕虜にして帰国したと伝えられています。


■長宗我部元親 ちょうそがべもとちか(1539〜1599)■
長宗我部元親は、国親の長男として岡豊で生まれました。
少年時代は色白で大人しく無口だったので“姫和子”と言われました。
それが22才で初陣の時、手柄を立ててからは土佐の出来人と呼ばれて、家来達に強く信頼されるようになりました。

永禄3(1560)年父の後を継いでからは、土佐国内の有カな国人を降伏させて領地を広げ、天正3(1575)年には土佐一国を手中にしました。
その後「我れ諸士に、賞禄を心の儘に行ひ、妻子を安穏に扶持させんと思ひ、四方に発行して軍慮を廻らし」(土佐物語)
の言葉通り新しい領地を得るために戦い、10年の歳月をかけて四国を統一しました。
しかし、天正13年、秀吉の四国征伐で破れ,土佐一国のみ治めることを許されました。

翌14年、秀吉の命を受けて遠征した豊後声次川の合戦で長男信親を失い、後継ぎ問題や世治の乱れなども起きました。
しかし、長宗我部地検帳(国の重要文化財)の作成、サン・フェリぺ号漂着の処理、長宗我部元親百ヵ条などの法令の制定、居城を岡豊から高知(大高坂城)を経て浦戸へ移し城下町を建設するなど大きな仕事を成しとげました。
その一方、都の文化にも関心を寄せ、弓馬・謡笛・茶道・連歌・鉄砲・囲碁などにも励み、一門の者にも習わせたといわれます。

慶長4(1599)年病のために伏見の邸で死去し、高知市長浜天甫寺山に葬られました。


■秀吉に鯨を献上■
長宗我部元親が蒲戸湾で捕獲した九尋(約16メートル)の小鯨を関白豊臣秀吉に献上して大いに面目をほどこしたという話があります。
土佐物語に次のような文章があります。

天正19(1591)年正月下旬、元親は浦戸の古城を改て移り給ひ、上下千秋万歳をいはふ折しも、湊の内へ鯨入来り、獵師ども舟よもりよと立騒ぐ。
宮内少この由を聞き給ひ「元親この城に移りて祝う所に、大魚の入り来るこそ吉慶なれ。我まだ生きたる鯨を見ず、況や突とむるをや、行きて見ん」とて棧嶋の磯にいたり給ふ。
獵師ども人よりさきにと争い、玉嶋の辺より一番もりを突、しるしを挙、段々に追詰追詰突く程に、あこめ・袂石の沖にて終に突とめ、かかすにかけて櫓拍子を踏て、諷ひつれて槽来る。
元親舟を寄せ見給ひ「魚の長さはいか程有ぞ」とたづね給へば「九尋ばかりの小鯨にて候」と申す。
途中略
…関白殿へ進上申さん」とて、檜曾を簾にあみ包みて、漕船数十隻にて、千里を一時と漕ぐ程に、廿八日の卯の刻に浦戸を出て、翌廿九日酉の刻の終わりに、攝州大坂の川口へ着船す。
中略
殿下(秀吉)ご機嫌甚しく「鯨丸ながら音物は、前代未聞なり」仰られ、御朱印に俵子八百石添て「獵師に遣わすべし」とて下さりけり。


■サン・フェリぺ号事件■
慶長元年(1596)8月イスパ二ア船サン・フェリぺ号(San felipe)が蒲戸へ漂着しました。
これは、フィリビンからメキシコに向かう約千トンの大船で、修道会士7人を含む230人余りの人々が乗っていました。

元親はこの船を訪問し、酒や牝牛を贈り安全を約束しました。
その後、サン・フェリペ号は、港に入ろうとして座礁し大破しましたので、乗客、乗組員を上陸させ湾内に浮かんだ荷物は収容しました。

元親から報告を受けた秀吉は、奉行増田長盛を浦戸に出張させ、積み荷などの検査にあたらせました。
この時長盛は海図を発見したので航海士に説明を求めたところ、航海士は「イスパ二ア人は全世界と貿易を行うが、虐待されるときはその国を奪う。そのためにまず宣教師を送り、キリスト教を広める」と答えました。

これを聞いた元親は、長盛と相談して、「イスパ二アは日本を征服するためにサン・フェリペ号を差し向けたものであり、宣教師はキリスト教を広めて住民を取り込み、その後、軍隊を使って占領するつもりだ」と言って、乗組員の所持金や積み荷などを取り上げました。
没収品は、四国内はもとより紀州からも呼ぴ寄せた83叟の船で大坂に送りました。
その手柄で元親は、秀吉から銀五千枚を与えられました。

この事件でキリスト教を油断できないものと感じた秀吉は、キリシタンの弾圧を強めました。
これはさらに「長崎26聖人の殉教」や徳川幕府による鎖国政策へ発展していったといわれています。


■浦戸一揆■
慶長5(1600)年9月、長宗我部盛親は、関が原の戦いで西軍に味方して破れました。
のち徳川家康は土佐一国を長宗我部に代わって山内一豊に与えましたので、一豊は浦戸城に入ることにしました。

土佐受取のため、井伊直政の家臣鈴木平兵衛、松井武太夫の両名が11月19日浦戸に到着しました。
しかし、長宗我部の家来である一領具足は浦戸城に立て籠もって強く抵抗しました。
そのため一行はやむなく雪蹊寺に入ることになりました。
その夜、一領具足達は一揆をおこし、鉄砲90挺余りと弓や槍を持って雪蹊寺を包囲しました。
長い間交渉が続きましたがその途中の11月30日、長宗我部穏健派の桑名弥次平衡達が一揆に味方すると見せかけ、不意を突いて首謀者8人を斬り、城を占領しました。

雪蹊寺を包囲していた一領具足達は急を聞いて城に向かいましたが激戦の末破れました。
この時討ち取られた237人の首は辻にさらされ、その後塩漬けにされて大坂の井伊直政のもとに送られました。
首のない胴体だけが浦戸に埋められ、石丸神社として祭られています。

六体地蔵は一揆に斃れた一領具足を慰めるため、昭和14(1939)年12月、高知県野市町吉祥寺住職堀川善明尼が浄財を募って建立しました。


■種埼の御船倉■
御船倉は、長宗我部時代から発達してきた種崎浦の造船所を山内家2代藩主忠義が拡大したものです。
幕末、この種崎や対岸の浦戸・御畳瀬は多くの船大エが住む造船地帯で、土佐藩の海軍も置かれていました。
また多くの水主や商人が活躍する商港でもありました。
龍馬の本家才谷屋も長州米、備前・備中米買い付けのため、浦戸の市右衛門船、種崎の喜右衛門船を雇ったと言われています。

御船倉は東西1キロに及び、事務方が働く船倉役場、大エを監督する役人宅、鍛冶・製錨・製鋼専門の作業所などが置かれていました。
進水用の堀や、石で築いた楕円の波止、船を収容する建物もありました。
また、藩主の十五端帆が赤く塗られた御座船や、関船(軍船)もつながれ、米蔵や寺・神社も建てられていました。

長宗我部以来の藩主は、浦戸(現浦戸漁協付近)に「御座所」を置いて建造船を勢揃いさせ、観船式を行って権威を示したといわれています。


■砲台場■
土佐においては、サン・フェリぺ号漂着以来、真剣に異国船への対策が考えられるようになりました。
幕府は寛永16(1639)年、諸大名に「浦々御仕置之奉書」を通達しています。
この時期の海防は、主にキリシタンを監視することがねらいでしたので、漂着船などは友好的に取り扱いました。
しかし、元文4(1739)年のロシア舶来航以後は警戒を強めました。文化5(1808)年には、「魯西亜船漂来之候、防力取扱之事」という規則も定められました。

土佐では、種崎の御船倉御用商人をしていた坂本龍馬の継母(伊与)の義父・川島猪三郎が、嘉永6(1853)年に海防に関する口上書を土佐藩庁に提出しています。
以下はその要約です。

「種崎浦は浦戸港口をひかえ、御城下への咽喉口に当たる。
万一、夷人たちが軍艦で襲来した時、駈付郷士はすぐには間に合わず、地元には小筒一つもない。
そこで私の費用で浦人20人ばかりを選び、仁井田の砲術師岩松十助に入門させたい。
弾薬と大筒五門は私の費用で調達する。
弾薬は銅鏡を鋳つぶして作ればよい。
20人分の装束と長脇差20腰も自費でまかなうので許可して欲しい。」
(坂本龍馬・隠された肖像山田一郎箸より引用)

この嘉永6年には、ペリー艦隊が浦賀に来航し、龍馬も土佐藩兵として品川海岸で警備にあたっています。
嘉永7(1854)年には、土佐湾沿岸にも近代的な砲台場が造られました。


■中城家■
幕末、中城家は山内家の御船手方をつとめていて、当時の当主直楯は大廻船の船頭でした。
この時期龍馬は、嘉永6(1853)年の武術修業の旅を含め、2度土佐〜江戸間を往復しているので、この大廻船の世話になったことも考えられます。
また、龍馬は土佐に帰った時、この中城家に潜伏しました。
龍馬がここを隠れ家にしたのは、中城家が龍馬の継母伊与の里である川島家のすぐ隣にあり、少年時代の龍馬が歌会等を通じて親しくしていたからでしょう。


■川島家■
現在は高知市仁井田にありますが、もとは種崎の中城家ととなりあっていました。
代々御船倉の御用商人でしたが、安政の大地震で大被害を受けたので移転をしました。

龍馬の継母伊与は、この家の貞次郎の妻として九反田の北代家から稼ぎ、息子弥太郎をもうけていましたが、夫も息子も亡くなりました。
その後、川島家を里として龍馬の父八平に稼ぎました。

弱虫龍馬は、姉乙女と潮江から船をこいで、種崎の川島家によく遊びに来たといいます。
当主猪三郎は、村の人から「ヨーロッパ」とあだ名されるほど西洋事情に明るい人でした。
それで少年時代の龍馬は、猪三郎から万国地図を開きながら西洋の知識を授けられたといわれています。


■仁井田神社■
昭和56(1981)年、この神社の社殿でタ顔丸の絵馬が発見されました。
龍馬らが船中八策を起草した船です。
黒と黄の船体、3本のマストには帆が張られ、藩旗や日の丸もはためいています。
江戸時代この地区には、造船所や船倉があり、土佐藩海軍の根拠地にもなっていたので、ゆかりの人が奉納したものと思われます。


■武市瑞山の旧邸■
現在は坂本義路氏の居宅になっています。
門をくぐった前方の屋根を白く覆った平屋建が旧邸です。
庭には小さくまとまった池や築山があって、それを築地の塀が囲んでいます。
濡れ縁のある簡素な建物で、間数は6室あって、客室の柱には瑞山が文字を刻み込んだ跡があるそうです。


■袂石(たもといし)・龍馬の帰郷■
慶應3(1867)年9月23日、龍馬は、土佐藩の佐々木高行に長崎でライフル銃を届けるため、芸州藩の震天丸に乗って土佐に帰りました。

龍馬は、後藤象二朗とともに平和的倒幕である大政奉還策を進めながらも、その一方ではもし戦斗になった時土佐藩が遅れをとらないようにするため、オランダのハットマン商社から仕入れた銃を運んで帰郷したのです。
この時、浦戸湾の袂石で小舟に乗リ換えて中城家に行き、入浴後、裏の部屋で襖の貼リ絵をながめながら休憩したという記録があります。
この時龍馬は中城家の人たちに「急な用でお世話になります・・・」と丁寧な挨拶をしたと伝えられています。
その後また船に戻りました。

土佐藩との小銃売買の交渉で数日を費やした後、5年ぶりに上町の実家に帰りました。
家族や近所の人たちのもてなしを受け、2日間わが家でくつろぐことができました。
脱藩後龍馬が実家に帰るのは、これが最初で最後になりました。

10月1日、浦戸湾から大政奉還の舞台になる京都へ向かいました。
数十里進みましたが悪天候のため、引き返しました。
しかし波が高くて浦戸湾に入れず、須崎まで回るということをくり返しました。
その後、浦戸湾で土佐藩船の胡蝶丸に乗り換えるなどして、10月9日やっと京都に着きました。

この日、京都に無事に着いたことを兄・権平に知らせた手紙が、家族に宛てた最後の便りになりました。


引用資料 坂本龍馬記念館

以下のサイトには、もっと詳しく書かれています
http://psx.inforyoma.or.jp/~kaien/html/ziken14.htm

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