韮山反射炉(国指定史跡)

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   幕末期の伊豆代官・江川太郎左衛門英竜は、
   国防の重要性を幕府に建議し、許可を得て
   大砲鋳造に必要な反射炉を築造した。
   安政元年(1854)に起工、同年11月に南側の2基はほぼ完成したが
   安政2年1月に他界したため、
   長子英敏が父の遺業を受け継ぎ北側の2基を築造、
   安政4年の春に全部完成。
   しかし度々の天災や粗悪な銑鉄の使用の弊害等が重なり、
   鋳砲の成功までに並々ならぬ困難があった。
   以来元治元年(1864)までここで主として江戸湾防備のための
   品川台場に使われた大小の砲・弾が鋳造された。

   台場備え付けの大砲は従来のものより長射程で堅牢かつ
   価格の低廉さが要求され、
   この条件を満たすためには鉄製で口径長大な砲の製作が必要だった。
   かねてよりこのことを予想してすでに研究と準備を進めていた江川は、
   幕府の裁許が下りるや否や直ちに築造にとりかかる。

   反射炉とは燃焼ガスの反射熱を利用して金属を溶解する方式である。
   この反射炉は佐賀藩に次いで築造されたもので、
   現存するものは萩にもあるが
   完全な形で現存するものとして我が国唯一である。

   炉の高さは16メートル程のものだが、
   良質の耐火レンガと共にその精巧さは今日の溶鉱炉にも匹敵する。
   産業革命の進む西欧では
   効率のいい高炉の発達により反射炉は短期間で消滅したため、
   世界的にも貴重な歴史財産となっている。

   当時の大砲は砲身の内側にあらかじめ芯の鋳造を挿入する中子法から、
   鋳造後に水車を使ってくり抜く工法に移ってる。
   そのために川沿いに築造された。

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