見沼代用水の考察

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   今日は、川口・浦和・大宮にまたがる通称「見沼たんぼ」に行ってきました。
   道路の標識で、ウサギの絵を描いた「飛び出し注意」がありました。
   野生のうさぎがいるのか?
   コサギはいるし、キジ?みたいのもいました。

   与野駅に向かう途中、見覚えのあるCO-OPがありました。
   警備員のバイトをしていたときに来た場所でした。
   偶然ですね。

   「見沼たんぼ」と云われてますが、もうほとんど田んぼはありません。
   おおかたは耕作地となったり、「野」となっています。
   一部分は芝川の調節地として、いろんな工事で掘ったり埋めたりの状態です。
   市街地寄りの西側丘陵地は宅地化されているけど、東側丘陵地はまだ木々が多いいです。

   見沼代用水路とは、見沼溜井に代わる用水路という意味です。
   現在の行田市下中条で利根川から取水し、
   途中で見沼代用水東縁(ひがしべり)と見沼代用水西縁(にしべり)に分かれ、
   伏越や掛渡井によって元荒川や綾瀬川と立体交差する
   延長約 60Kmの、関東平野最大の農業用水路です。
   なぜか見沼代用水東縁の流れは早く、見沼代用水西縁の流れは遅いです。

   見沼は、徳川吉宗の頃の新田開発が行われる前まで
   氷川女体神社の御手洗瀬とされていた広大な沼沢地でした。
   幕府は治水技術者・井沢弥惣兵衛為水に命じ、
   灌漑用水路である見沼代用水路を1728年に開削しました。
   この地を干拓し、1729年に関東郡代伊那半十朗忠治によって
   造成された土地の面積は1200haにも及びます。

   氷川女体神社は崇神天皇の御代に出雲杵築の大社を勧請した古社で、
   武蔵国一宮として見沼のほとりに鎮座しています。
   徳川家康から社領50万石寄進を受けた武蔵国有数の古社です。
   この神社の祭祀である磐船祭は、船上で行う御船祭でした。
   しかし干拓によって不可能となり、社領の旧見沼内に、
   周囲に池をめぐらせた柄鏡形の土壇場を設け、
   ここで祭祀を行っていました。

   大宮氷川神社(男体社)、大宮中川の中山神社(簸王子社)と
   深い関係にありなす。

   1731年に物資輸送を目的に見沼代用水東縁と見沼代用水西縁、
   そのあいだを流れる芝川とを結んで掘削しました。
   それが我が国最古といわれる閘門式運河の見沼通船堀です。
   東西の各用水と芝川との水位が3mもあったため、
   閘門を用いて水位を調節して船を通しました。
   通船のときは堀の土手から船につけた網を引いて通しました。
   幅2m 長さ11mのひらた船で、
   60kgの米俵を100〜150俵積んで江戸へ、帰りは肥料・塩・酒を積みました。

   見沼の東の丘陵地に旧日光御成街道が、
   見沼通船堀の南に赤山街道が通る、交通の便のいいところでもありました。
   仕事中に何度もこれらの道を通ってたんだけど、
   赤山街道の赤山ってどこなんでしょう?
   たしかに見沼通船堀の南にある道は旧街道らしく、今でも道が狭いです。
   でも、他の部分は現在の道と違うのか?

   かつての沼の大きさを見極めるのは難しい。
   昔は見沼通船堀沿いというか、赤山街道沿いに八丁堤という堤防があり、
   氷川女体神社のところまで水があったというのだから、
   そのあいだにまたがっていたのは確実で、それは今の地図を見ても察しが付く。
   だけどそれ以外のところは分からない。

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