親の子供の接し方が、子どもの、人との接し方に受け継がれる


愛と憎しみの感情はそれぞれ遠くかけ離れているようにみえますが、関心無関心の次元でとらえると、どちらも強い関心があるという点で、本当はとても近い存在なのです。「かわいさあまって憎さ100倍」というように、かわいいと思い、相手のために自分の気持ちを精いっぱい込めても、相手がそれに答えてくれないとき、それは怒りとなって向かったり、相手を突き放す行為に出たりすることがあります。愛がなければ憎しみもわくはずがなく、愛と憎しみはいつも隣合わせにあります。いちばん遠いところにあるのが無関心という、気持ちが向かない心のありようであることに気がつきます。子どもをかわいいと思う気持ちがちょっとずれてしまうと、そこには「あなたなんか嫌いよ」「うちの子じゃない、出ていけ」と、心を切り刻む言葉となって出てきてしまいます。

拒否的になっているとき、親の心の片隅に、子どもを傷付けている後ろめたさがほんの少し宿り始めるものだというのは、あまり知られてはいません。驚いたことに、拒否と溺愛は裏表の関係にあることが多いのです。

ジロウ君は小学二年生です。成績はあまりよくありません。やればできそうなのだけれど勉強が嫌いなのです。家ではファミコンばかりやってます。ジロウ君は新しいファミコンカセットを買ってくれと次々に要求してきます。夜中にコンビ二で漫画を買いたいと言い出したときも、結局は彼の要求通りに応じてしまいます。それに心配なのは、ジロウ君は外に遊びに行きたがらないことです。お父さんは新しいファミコンカセットがあれば友だちが家に遊びに来てくれるかもしれないと買い与えました。たしかに友だちが遊びに来るのですが、ジロウ君が自分のやり方を押し通そうとしたりするので、友だちはやっぱりうんざりしてしまいます。お母さんはなんでも要求通りに与えてしまうのはあまりよくないことだとわかってはいるのですが、漫画やおもちゃがないと友だちが遊びに来てくれないなどと言われると、家計をやりくりして買い与えてしまいます。

ジロウ君は三歳のとき小児喘息になって以来、大きな発作を繰り返していました。五歳のときは一年間、遠くの病院に入院しなければなりませんでしたし、お父さんやお母さんは体カ的にも経済的にも、とてもたいへんだったといいます。発作に苦しむ姿を見てかわいそうだと、ついわがままと思いながらもおもちゃを欲しがるままに買い与えたりすることがありました。そうかと思うと徹夜の看病が続いて疲れきってしまったとき、この子がいるばかりになんてたいへんなんだろうという気持ちが心をよぎったりして、邪見に扱ったこともあったといいます。すぐにかわいそうにとふびんに思い、そしてジロウ君がいないほうがいいという気持ちがよぎったことに後ろめたいものを感じたと、お母さんは話してくれました。

最近は発作もだいぶおさまって元気になってきています。あんなにつらい思いをさせてしまったのは、健康に産んでやらなかったからだというお母さんの気持ちと、ときどき心をよぎった、この子がいるぱかりにという投げ出したくなった気持ちの後ろめたさが、どこかでジロウ君の物を欲しがることに毅然と対応できないことにつながってしまっているようにみえました。がまんすることをあまり経験しないで育ったジロウ君は、友だち関係もぎくしゃくしていましたが、本人はなぜそうなるのかがわからず、友だちの関心をひこうとファミコンカセットや漫画をすぐにあげようとします。まさしくお父さんやお母さんがジロウ君にしていることを友人関係の中で再現しているのでした。

ジロウ君のお父さんやお母さんは、毅然とした態度がとれない自分たちの気持ちの裏側に気づいて相談にやってきましたが、知らないうちに親の気持ちの揺らぎにはまり込んで、大切なものを失って行く子どももいるのです。
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