自分の感情を感じ取り、表現することのできない子ども


一見些細なことで、突然「キレて」衝動的な行動に走り、大きな事件を起こしてしまうということが問題になっていますが、それを直ちにいまの子どもたちの「キレやすさ」と結びつけるのは早計です。むしろ日ごろから怒りや不快な感情を表現できないで抑圧し、我慢をし続けているがゆえに内圧が高まり、その結果些細なことでキレてしまうと見るべきでしょう。

競争と管理によって支配された抑圧的な生活のなかで、子どもたちのなかに相当ストレスや怒りの感情が高まっていても不思議ではありません。ところが子どもたちはそれを「明るい普通の子」「やさしい普通の子」「おもしろい普通の子」という仮面の下に覆い隠してしまっています。

そのような「普通の子」がバニックに陥り、突然怒ったり、泣き出したりします。でもそのとき何を感じているのか彼らは説明できません。そのような子どもは自分の心に生じる感情をしっかり感じ取り、それをことばで表現することができません。彼らは周囲から拒否されたり、排除されたりしないように常に緊張し、周囲に自分を合わせることに神経を使っています。だから安心して自分と向き合い、自分の心に耳を傾け、自分の感情を感じ取ることができないのです。感じ取られない感情は未分化なまま、訳のわからぬ「モヤモヤ」「イライラ」「ムカツキ」となって心の奥に蓄積されていきます。

自分の感情を感じ取り、それをことばにして表現することができないのは、周囲の大人が彼らの感情に耳を傾け、それをことばにすることを手助けしてやれてないからでもあります。子どもとしっかり向き合って、子どもの話に耳を傾ける余裕を持てず、「忙しいからまた後で」で済ましてしまいます。あるいは子どもの先回りをして「ああしろ」「こうしろ」とレールを敷いたり、「よい子でないと見捨てるぞ」という脅しによって子どもを操作し、動かします。それは子どもを一個の主体として尊重するのではなく、客体として支配する関係です。

子どもを一個の主体として尊重すればこそ、主体である子どもが経験し、感じていることを大切に扱い、それに耳を傾けることもできます。また子どもも主体として尊重されればこそ、自分の経験や感じていること大切にして、それに耳を傾けながら、生きることが可能になるのです。
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